【知的ボクシング】ラウンド6:幽玄(有限)の中に無限の美を見る
■ファイト内容(問い)毎の答えを考える時間:3秒~3分
■ファイト内容(問い)
「無常を語る場合、きわだって雄弁になり、それを書く場合、特に美文調になるという傾向がきわめて顕著であるということが、日本人のひとつの特色と言ってよいだろう。」(「無常」(ちくま学芸文庫)唐木順三(著)P177)
確かに、
「あはれ」
に含まれる
「せつなさ」
や
「はかなさ」
は、
「無常」
に近いもではないかと考えられます。
「おかしき事、うれしき事などには感く事浅し、かなしき事、こひしき事などには感くこと深し。
故にその深く感ずるかたを、とりわきてあはれという事あるなり。
俗に悲哀をのみあはれといふも、この心ばへなり。」(「排蘆小船・石上私淑言 宣長「物のあはれ」歌論」(岩波文庫)本居宣長(著)子安宣邦(校注)「石上私淑言」より)
本書に依れば、
「楽しさ」
よりも、
「悲しさ」
の方が、深く心を動かすから、という理由が述べられています。
言い換えると、人という生き物は、誰しも、少なからず、ほんのひとときでも、心から喜べる瞬間に出会いたいと思い、たとえ、喜びが悲しみに変わっても、人生を豊かにすることには変わりなく、永遠へのあこがれが含まれる感情は、最後は、
「悲哀」
に集約されていくのでしょうね。
■参考図書①
「「かなしみ」の哲学 日本精神史の源をさぐる」(NHKブックス)竹内整一(著)
「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし。」(鴨長明「無名抄」)
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮」(藤原定家)
「世上の人々そこの山かしこの森の花が、いついつさくべきかと、あけ暮外にもとめて、かの花紅葉も我心にあることを知らず。
只目に見ゆる色ばかりを楽しむなり。」(千利休「南方録」)
「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。」(世阿弥の能楽論「風姿花伝」)
「あはれ」
は、もともと、
「喜怒哀楽」
全てを含んだ
「!」
的な感動詞でした。
源氏物語で、多く使われていたのを記憶されている方もいらっしゃるのではないかと思われますが、恋の切なさを愛おしむ心、嘆く心はもちろん、景色の美しさや、情緒深さに感動する心、等々、多様な意味が含まれているので、その違いを味わってみて下さい。
「月は有明の東の山ぎはにほそくて出づるほど、いとあはれなり」(清少納言「枕草子」)
参考までに、『万葉集』には、
「有明月」
を詠んだ歌が、3首あります。
①白露を玉になしたる九月(ながつき)の有明の月夜見れど飽かぬかも(万葉集 2229)
②九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我れ恋ひめやも(万葉集 2300)
③今夜の有明月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし(万葉集 2671)
「夕暮の静かなるに 空の気色いとあはれに 御前の前栽枯れ枯れに 虫の音も鳴きかれて 紅葉のやうやう色づくほど 絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして 心よりほかにをかしき交じらひかなと かの夕顔の宿りを思ひ出づるも恥づかし(夕暮れの静けさにくわえ、空の様子はしみじみと心にしみ、お庭の植込みは枯れ枯れなうえに、虫の鳴き声までが鳴きかれ、紅葉がようやく色づいてゆく様子など、絵に描いたように心惹かれる景色を見渡して、夢にも思わぬ風情のある宮仕えだなと、あの夕顔の咲く五条の暮らしを思い出すさえ気のひけるすばらしさである。)」(源氏物語/夕顔12
章12)
「あはれてふ ことこそうたて 世の中を 思ひはなれぬ ほだしなりけれ」(小野小町/古今和歌集939)
小野小町の、どんな不条理も、ゆるしてしまう限りない
「強さ」
が現れている歌。
■参考図書②
「小野小町」(コレクション日本歌人選)大塚英子(著)
そして、例えば、
「編集」
に着目すると、勅撰和歌集のひとつである古今和歌集の939から942迄の4首のかたまりが、
939「あはれてふ ことこそうたて 世の中を 思ひ離れぬ ほだしなりけれ」
940「あはれてふ 言の葉ごとに 置く露は 昔を恋ふる 涙なりけり」
941「世の中の 憂きもつらきも つげなくに まづ知るものは 涙なりけり」
942「世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ」
前述の小野小町の和歌から始まって、残り3首のよみ人知らずによる和歌へと繋がって行き、複数の作者の和歌を、撰者が編集することで、新たな命を吹き込み、
「あはれ」
の悲哀化を、和歌の連鎖で物語り、教えてくれているようで、とても読み応えがあります。
この他であれば、平安時代の美意識である
「もののあはれ」
と
「をかし」
において、
「もののあはれ」
の最も古い例は、紀貫之の「土佐日記」ですが、以下の通り、
「紀貫之にとってはモノノアハレは「人の別れのあわれさ」あるいは「人生の変えられない運命のあはれさ」であったと言える。」(「古典基礎辞典」大野晋(編著)より)
本書に依れば、時代とともに、
「もののあはれ」
に込められた想いは変わっていき、
「源氏物語」
の
「もののあはれ」
を引用しながら、この様に纏めています。
「「源氏物語」以前のモノノアハレはもっぱら「人生のさだめのあわれさ」に限られていた。
ところが「源氏物語」ではそれが「男と女の出会いとの別れのあわれさ」の意に片寄って使われている。
「源氏物語」はすべて男と女の恋の物語であり、恋の種々相、恋のなりゆく果てを語ろうとする作品である。
だから、そこにある「人生」とはつまり男と女と相逢うこと、相別れることにほかならなかった。」(「古典基礎辞典」大野晋(編著)より)
さて、前述の意味を纏めてみると、
もののあはれ=もの+の+あはれ
もの:決まり、運命、動かしがたい事実。
あはれ:共感のまなざしで対象を見るときの人間の思い。
となり、
「をかし」
には、大きく分けて2つの意味があり、
A:「滑稽だ」「笑ってしまう」「変だ」などマイナスの観念を表し、相手や対象に優越の意識を持って対する場合に使われる。
B:「興味をひく」「おもしろい」「かわいい」「気がきいている」「美しい」などプラスの観念を表している。
平安期の女流文学では、A項の意味で多用されていましたが、現代においても、本書に依ると、
「ヲカシは「古今集」以下八代集の和歌には一例も用いられていない。
これはヲカシがはじめから「ばかばかしい」「笑ってしまう」というAの意味が絶えず陰に意識されていたので、風雅の心の表現である和歌にはそぐわないものであったからではなかろうか。」
と分析されていて、日本語の成り立ちを知る上で、とても参考になります。
■参考図書③
「古典基礎語の世界 源氏物語のもののあはれ」(角川ソフィア文庫)大野晋(編著)
■おまけ:自分ならではの「組み合わせ」をつくる
「これを知るものはこれを好むものに如かず。
これを好むものはこれを楽しむものに如かず
(あることを知っているだけの人は、それを好んでいる人には勝てない。
しかしそれを好んでいる人も、それを楽しんでいる人には勝てない)」(孔子)