【人生ノート279】お互いに、真にゆるし合うという修養
許しあう雅量
いま喧嘩をしたと思えば、もう知らぬ間に笑って話し合っているというのが子供である。この無邪気さが、大人ではなかなかまねられぬのである。私は、こうした場面を見るたびに、子供は神さまであると思わざるをえない。われわれ大人も、日常の交際において、すべて、こういう風にありたいと念じてやまない。
凡夫の人間であるから、時によっては腹の立つこともあり、しゃくにさわることもあろう。そういう時には、多少喧嘩になるのも、また、やむを得ない。しかし、一旦、お互いに了解しあい、許し合った場合には、ただちに以前のことはケロリと忘れて、一層親密に握手し合うことは、大人においては、はなはだ少ないと思う。どうしても、先入主がどこかに残っているがために、
アッサリした気分になり難いのである。特に、現代のような自己愛のみの世のなかでは、他人との交際においてつねに自己中心であるがために、ちょっとしたことにも恨み怒りて、そのことを何時までも忘れず、ながく時間がたったのちも、お互いに気まずい思いをしているというのは実に多い。すでに一方は、なんとも思っていない場合にも、われと吾が心の狭小さから、いつまでも、まずい思いをして世をせばめているということも、また少なくない。しかし我々は、ぜひ、こんなことは止めにして、あくまでもお互いに了解しあい、和合し合うようにと努力せねばならぬと思う。
考えて見るに、どんな人でも誰かの子であるか、また親であるか、または兄弟であるに違いない。わが親を恋うるがごとくに、その人も親を恋うるに間違いなく、わが子を愛するがごとく、その親もその子を愛するに間違いなく、また、わが兄弟と親しむごとく、その人もその兄弟たちと親しんでいるに違いない。しかるに、他人の子であるといって憎み、他人の親であるというので虐待し、他人の兄弟であるとうので平気で排斥するというのは、要するに、人々の心境が、
お話にならぬほど狭小であるがためにほかならぬ。お互いに、真にゆるし合うという修養が、まだまだできていないからである。自愛と自我と先入主との窓を通してよりほかに、世界を視るすべを知らないがためにほかならぬ。一時、自己を屈することを、永遠に屈するかのごとく思い、一時、自己を譲ることを、永遠に譲ってしまうかのごとくに考えている狭量な人たちが多いからである。(大正一四、一二、一一)
『信仰雑話』出口日出麿著