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偉大な事業は、偉大な魂でなくては決してできない。これらはいな自己純粋の力によったのではなくして、ある神霊の守護によったものである。神霊の守護なくして、自己一流の思惑を立ててみたところで、 決して最後まで成功するものではない。そのことは、われわれが神懸りの時と、自己に帰っている時とを比較してみて、いかに自己のみの単独の力の弱く、はかなく、みじめであるかを悟るたびに思わされることである。 しかし、神にもいろいろあるが、主の神にまさる神はない。主の神に背くものは亡び、向かうもの
自分のことを考えて見ても、自分はやはりなっていなかった、わがまま気ままものであった。 多少、近ごろになって有難さがわかりかけた。その意味で、この話は自分の一つの懺悔である。 有難さはわかっているつもりでも、有難さは沁み込んでいなかった。 天地の恩ということについても徹底しておらなかった。 私はこのごろになって、恩報じは少しでもせねばならん、人間の生活は報恩であると感じたのである。要するに、神徳の万分の一、神慮の百万分の一でもかまわんから、自分を今日にしてくれたものに対して報
人生はお互いに思い思われて、なつかしく、ありがたく感じ合うところに本当の幸福がある。 ○ ものの成るかならぬかは、その人の一心になるかならぬかによってきまるものである。 ○ 自分で自分の悪い気持と戦うということは必要である。 こうした難関を一つ突破するごとに、少しずつ、一般的邪悪をも征服する力がついてくるのである。 つねに自己に負けている人は、いつ迄たっても霊的向上をなし得ない人である。 外的にも内的にも、つねに自分に楽な仕事ばかりしている人は緊張をかくから、役に
思念そのままが世界である。浮世は一切思念の交響楽であり、一切思念が彩る絵画であり、一切思念が織りなす綾模様であり、 一切思念が建てあげる殿堂である。 これは、同一人の面貌でも、その内心の情動によって千変万化するの理を考えても分かる。 とにかく、遮二無二、一心不乱、念々慮々を清くし強くし美しくすることに努めることが何よりも肝心だ。一瞬一秒のゆるみなく、自分で自分を凝視づつけておらねば、ちょっとの油断があると虫が巣ぐいがちだ。 ○ 気持のわるい時は、私はいつも神前に出て
最初の型を繰り返す傾向は一切のものにある。たとえば、鳥獣は一度通った道を、以後はからなず通過する傾向があり、人間一生の霊肉発達の経路もまた、その先祖(あるいは守護神)の型にならうものである。草木虫魚みな然りで、この意味からいって、この世の一切は繰り返しているのである。実に歴史は繰り返すのである。 しかし、かならずしも前の型どおりそのままに踏襲するのではない。分かり簡略な図形でいえば、 螺旋状により、大きくも、また、より小さくもなるのである。すなわち、急激には決して変形して
無理からでも為せ遮二無二進めなんでもかんでも音を立てよ 思い思い言いに言いなしに為せよ 消極は地獄であり 積極は極楽である 瞬時も休むことなく宇宙はまわる 何事でもよい思い立ったことを 全力をあげて全心をかたむけて 全身の全細胞にねじ鉢巻をさせて 全身の全血管に涙立たせて 見かけはどんな卑しいことでもよい 見かけは遊戯のように見えることでもよい 面白く愉快に興味にみちて 為しさえすれば真の生活だ 理屈はどうでもよい 他人はどう解しようがままだ し
見よう聞こうとあせらなくても、その位置にさえ進めば、自然に聞こえてくるのだ。世の人々は、適当な位置にわが身を進めるという先決問題を忘れて、いたずらに、見んとし聞かんとしてあせっているのである。 しからば、その位置に身を進めるということは、どういうことであるかというに、一口にいえば、真に自己をいつわらぬ生活をなすべく努力し、精進したらよいのである。 ○ 何ごともお蔭であると、善意に有難くすべてを解して、その日その日、その時その時の最善をつくせよ。神にさえ任しておけば、悪い
人がきて、なにげなく話していくことのなかに、ふだん気づいていないことを教えられることがあります。それは、自分と関連のない話のようであっても、なにかの意味をもっていることがあります。 意味なく人がきて、意味なく話していくということは、ほんとうは、ありえないことではないかと私は思います。人がなにげなく話していることのなかに、天の声がさしはさまれているかもしれません。 めんどうでも、さっそく実行しなければならない場合もありましょう。かりに徒労におわっても、その徒労がありがたいこ
現界的の目には同一の場所なれども、霊的には次々と、すこぶる頻々と変化しつつあるなり。 たとえば、大本内でも、時に高天原たり、また、時に幽界の現出たり。三五教たる時、バラモン教たる時、ウラル教たる時と、千変万化しつつあるなり。 同一の肉体でも、本霊と直接感応している時、副守護神に支配されている時、自己以外の人の霊に動かされている時、というふうに、一定の期間(霊界的)が次々と来往しつつあるなり。面白きものなり。 ○ 魂の真の歓びは和合である。両者の区別がつかぬほどに融合し