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肉体は一つでも、主人公はいろいろと変わる

見よう聞こうとあせらなくても、その位置にさえ進めば、自然に聞こえてくるのだ。世の人々は、適当な位置にわが身を進めるという先決問題を忘れて、いたずらに、見んとし聞かんとしてあせっているのである。

しからば、その位置に身を進めるということは、どういうことであるかというに、一口にいえば、真に自己をいつわらぬ生活をなすべく努力し、精進したらよいのである。

何ごともお蔭であると、善意に有難くすべてを解して、その日その日、その時その時の最善をつくせよ。神にさえ任しておけば、悪いことがよいことに変わる仕組である。

次第に外がわの汚い着物をぬいで、光る着物と変えるのである。一番外がわの着物が一番劣等な副守護神、それからだんだん向上して、最後は、天国の真のご分霊たる自分にまで成りきるのだ。

神さまは決して強制せられない。精霊の自由自意に、すなわち差支えないかぎり、やりたいように任されているのである。

だから、精霊の奮起、精進、努力のいかんによって、どんなにでも、また、どの方向にでも変わることができるのである。

肉体は一つでも、主人公はいろいろと変わるのである。しかし、一貫したる自分ーーこの世で始めて発生したる一個の生命の実在ーーは変わらない。

この自分は、より上界の自分へ(時によっては、他の精霊)の容器であり生宮である。生宮となることによって、始めて育てられ培われ、向上してゆくのである。一切はこの関係におかれてあるのである。

すなわち、容器と精霊は密接不離であって、どこまで行ってもつくることはない。

この二者の関係は、肉体と精神とについて考えてみるがよい。

出口日出麿著、『信仰覚書』第六巻、精霊の発憤次第

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