マガジンのカバー画像

【人生ノートMagazine】念うところ世界なり

239
人生ノートの中から人生の生き方や日々の生活に沿ったことについてに書いてあることに焦点を当ててまとめてみました。
運営しているクリエイター

2021年6月の記事一覧

理性は愛情の核

知りあいの人が困っているとき、これを助けたくなるのは人情です。人に施すに多すぎるということはありません。けれども、そこには、理性というものがなければ、ほんとうの愛情にはならないでしょう。 ほんとうの理性は愛情の核になるもので、愛情の純度から生じるものです。ですから、理性は冷たいものでなく、愛情を真実なものとして方向づけていくものです。ただ無茶苦茶な愛でなく、その時にその人のため、もっともよき存在の愛情ともなるものとおもいます。 ○ かつて自分の受けた恩にたいして感謝の気

自分もよく他人もよい生活

恨み、憎み、ねたむ、ということなしに、お互いに理解し合って、自分もよく他人もよい生活をしたいものであります。 遮二無二、他人より勝ろう、他人より上になろうとする気分は、ともすると、他人(ひと)と張り合い、他人をつきのける結果になりがちで、かえって、他人よりつき落とされるのであります。 これに反して、時間的にはのろいようであっても、少しずつ自分の積んだ徳によって、自然に、何時とはなしにかち得た地位というものは、絶対に確実であって、そこに何等の危険もありません。 誰でも、よ

日日の修行へー平静な気持ちで生きてゆくことー

わたしは<現実のこと時事に複雑な世の中に生きて、にこやかな平静な気持で生きてゆくことこそ”修行”である>と思います。 いやな気持になることの多い世の中で、いつもあたたかい気持をもちつづける努力こそ”行”というものだとおもいます。 ーー満員列車の中で、たくましい男が座席をほしいままに奪い、ふんぞり返っているーーそういう嫌悪を感じさせる者にも、平静に善処してゆくという、なんでもないような至難なことに修行があるとおもいます。 その日その時の感情(こころ)を直く、落ち易い気持を

人生に成功する人

この世の中は、ずるくたちまわったほうが勝ちだと思っても、そうはゆかないようです。ずるいだけでは、あるところまでは伸びても、その先は伸び悩んで、しだいに後退していくようです。 ところで、正直ものといわれる人が、とんだ近欲をおこして、失敗することもあります。 人生に成功する人は、必ず遠欲に、目標をおいています。 また、正直の上に、何かがつくほどなのは、これにはどこかに、もう一つ、大切な線がしびれているかもしれません。 鳴く声の立ちてうるさきくつわ虫一つ処にいつまでもゐて

過悪をくり返さぬこと

反省して悪と知ったならば、二度とその過をくり返さぬことを誓いさえしたらよい。いたく悔い慚じるの結果、かえって心身をそこないなどし、再起の勇気もなくなってしまうなどというのは小人のことである。悪かったということがよく分かったならば、それを再びせぬようにさえしたらよいのであって、それ以外のことは無駄である。 誰だって、失敗もすれば恥もかく。それによって人は悟ってゆくのである。ところが、世には、自分の悪かった場合でも、心の中では悪いことをしたと悔いていながらも、正々堂々と、他人に

何かに向かって働くのが人生だ

何かに向かって働くのが人生だ ○ 希望と目標なしに、無闇やたらに焦りまわってもダメ。 ○ 空想でない、ごく卑近なところへ目標をおいて、一歩一歩着実に向上してゆけ。 これまでのお示し 万事が有り難く結構 https://note.com/azumanohikari/n/n1fe57f22e828 日の出の歌うたわむ https://note.com/azumanohikari/n/nacc729291f95

万事が有難く結構

やはり、どう考えてみても、人生に一番貴いものは体験である。体験の深刻な人、豊富な人ほど、どことなしに輝いている、落ちついている。いろいろな境涯をへて来たあとでなければ、人は、何もできるものではない。 この意味からいって、われわれは何をしていても、させられていても「有難い」のであり、「結構」なのである。 ものを見別ける力のない者が上に立っていたら、もはや、その事業の底は見えている。 人の世は、まァざっと、こんなものだということを悟って、小さいことにビクビクしたり、善じゃお

天地一切へ感恩

天地一切に対する恩ということを、しみじみと知らねばならぬ。 真に心の底からこのことが分かって来れば、人なり物なりを損うということはできぬ。一切をそれぞれに活かしてやるということが分かる。 どんな微細なものに対しても、“有難い”“ご苦労だ”という気が起きる。 自己直接の利害にばかり気をとられて、どうしても、大局的に、天地一切に対するご恩報じ、ご奉公ということが忘れがちになる。 すべてのものに感謝し、心からの好意をよせて、これを取り扱うようにせねばならぬ。 自分というものが

反省と忍耐

導かれる方の人は、決してあせってはいけない。一日一日、一歩一歩と悟ってゆき、進んで行くようにせねばならぬ。これらの人々にとっては、反省と忍耐とが何よりである。この二つを忘れぬように、そして導かれるままに、一心不乱にすすんで行きさえしたらよい。 反省することは、真に“知る”唯一の手段である。内に省み外に省み、ここに始めて自己を知り他を知り、やがて神を知ることができるのである。反省のないところに改悟はなく、自らの改悟のないところには新生はない。 永久に同一世界にうごめいている

各人各個の道を有す。

日常の生活において、心に結ぼれや引っかかりや、凝りがあってはならぬ。それでは、心身ともに早く疲労して老人になってしまう。 世人を見るに、彼等はいたずらに人まえのみを繕うことに汲々として、心中つねに不安を感じ、いらぬ気苦労のみをしている。 人と相対して談話する場合でも、お互いに堅くなり合って、いわゆる他人礼儀一遍で、真に心からの打ちとけたところがないから、実際、はたから見ていてもバカバカしい。 神経質の人などは、ちょっと寝床が変わってもよう寝れないというふうであるが、こん

精神的収穫が大事

すこし調子づくと、すぐ自分はえらいと思い出し、少し失敗すると、すぐ身も世もあらぬようにショゲるのは凡人の常だ。要するに、われに信念ができていないからだ。真智が足らぬからだ。無限の法界の理を知らぬからだ。いままでの生活があんまり単調なからだ。 誰でも、自分はいままで、いろいろと苦労してきたとか、いろいろと学問してきたとか、それ相当に「吾こそは」と思っていがちなものである。ところが、それが非常に邪魔になって白紙になれず、他人の長所を素直に受け入れることができぬのである。 いく

この世をおだやかに美しくする基本

どんなに寛大であっても、あとから「ああ、あのときはあまり寛大すぎた」と悔やむことはないが、常にわれわれが後悔するのは「もう少し寛大であればよかった」ということである。 しかし、寛大と因循姑息とは全然違う。因循姑息というのは、当然なずべきことをもなさず、いたずらにグズグズしているのをいうのである。 寛大というのは、けっして、つねに拱手傍観、逡巡無策のいいではない。 怒るべきときには怒り、叱っすべきときには叱っするのである。ただその気持ちに、あくまでも豊かなところがなくてはなら

その日その時のベストを尽くして

何事も神意にまかして、あせらず、あわてず、その日その時のベストをつくして、一生を一日のごとくに悠々とおくる工夫をせねばなりません。 天国へ行くのも地獄へ落つるのも、みな自分自身が平素からの心の状態がつもりつもって、必然的にそうなるまででありまして、けっして、神さまが連れて行かれるものでも、また社会がそう強いるものでもありません。みな、みずからの心の持ち方ひとつが作り上げるのであります。 『信仰覚書』 出口日出麿 これまでのお示し 一歩一歩の歩みに全力をそそぐ https

一歩一歩の歩に全力をそそぐ

人間は理想を遠方に見ていることはよいのでありますが… そこへ行こうと思うて、一生懸命に考えていることもよいのでありますが、しかし、行く方法を講ぜず、足もとの一歩一歩を注意せず遠くの方にばかり気をうばわれていると、牛が出て来たり、池があったりするのであります。 たいていの人が、よい所へ早く行きたい、はやく見たい、聞きたい、それで焦り過ぎる。理想というものを今の現実にすぐ持ってこようとすることは、なかなか容易にできないものである。 理想と同時に現実界ですぐやろうとすると非常に