【読書】忘れられた日本人 by 宮本 常一
あらすじ
1. 文化人類学と民俗学の違い
この本を、文化人類学の本だと思って読み進めていたが、読了後にインターネット検索で背景知識や分からなかったことを調べてみると、著者は「民俗学者」で、この本は民俗学の本であることがわかった。しかし、文化人類学と民俗学の違いがわからない。調べると以下のような記載を見つけた。
本来、世界に境目はほとんど存在せず、あくまでグラデーションの問題なのだが、分類とは常に人間の都合で決まるものである。
ひとまず、研究者を「主体」としたとき、以下のように理解して良いだろう。
文化人類学とは、研究者にとって外国・異民族の文化を研究し、自文化(多くの場合、西洋近代文化)との比較や科学的な考察を行い、「理論」として構築することを目指す学問。
民俗学とは、研究者にとって自国・自民族の文化を研究し、習慣や出来事、儀礼・信仰・社会・経済などの伝承をなるべくそのままの形で記述し残すことを目指す学問。
この基準だと、「忘れられた日本人」は、まごうことなき民俗学者による民俗学の著作である。
2. 日本流デモクラシーの「型」ー対馬にてー
昨今しばしば、欧米と日本の会議スタイルについて、
「欧米では結論を出すことを目的に会議を行い、本当に権限のある人、発言する人のみが会議に参加し、会議は目的を達すれば素早く終わる。一方日本では、関係者全員が参加するものの雑談も多く、間延びして時間通りに終わらないことも多く無駄である。」
といった趣旨の論評が見られる。
本書の「対馬にて」を読むと、日本型全員参加の長時間会議の典型例を見ることができるが、それが無駄、不合理とは言えないことがわかる。村の寄りあい衆(基本は現役世代の男)全員が集まり、問題解決や結論を出すべき事柄について話し合う。その特徴は以下の通り。
①話し合うトピックに関連する、過去のエピソードや長老から聞いた伝承などを出し合い、全員で共有する。
②エピソード・伝承が出尽くした段階で、議長が結論の案を提案し、それで良いかと全員に問う。異論が出なければ、結論が村の寄りあいの総意として承認される。
①は、情報、知識、知恵の若手への共有の場として機能する。
私も日本型会議に出席することは多々あるが、若手として、年長者が過去のエピソードや裏話を共有してくれることは大変ありがたかった。ものすごく話が長い人がいたり、組織に入って数年すると「その話聞くの何度目だろう…」と思うこともあるが、その時にはメンバーも変わっているので、新しいメンバーに伝承するためにも、この過程を否定する感情は起きなかった。
このように、話し合うトピックに関連する、過去のエピソードや長老から聞いた伝承などを出し合い、全員で共有することに、若手育成の意味でも一定の価値があるように思う。
②は、誰もが納得するまで話し合い、「総意」として決定することで、村一丸となって決定したことを実行することが確保されるという長所がある。
多数決だと、少数派だった故に意見を却下された側が、決定に対してどれだけ責任を負うかということが問題になるが、「総意」であればその問題が出てこない。例えば、高校の文化祭でクラスの出し物をお化け屋敷にするか喫茶店にするかで多数決を取り、お化け屋敷に決まったとする。もちろんクラス一丸となってお化け屋敷の成功に全力で努力できれば理想的だが、喫茶店に票を入れた生徒の中には、「お化け屋敷に票を入れた人に責任があるのだから、彼らがより努力すべきだ」と考える人も出てくるかもしれない。
このように、話が出尽くすまで議論し、結論が村の寄りあいの総意として承認されることで、実行の段階での分裂や問題が起きにくいという良い点がある。
3. 世話焼きばっばのいない現代のしんどさー村の寄りあいー
村の中で難しい、こんがらがった問題が出てくると、解決の糸口をくれる老人の存在があった。
例えば、農地解放という、利権が複雑に絡み合った状況では、農民の農地への愛着は強く、各々が自分の利権を主張して譲らない膠着状態に陥ることがあった。農地解放の指導をしていた著者の知人は手を焼いていたが、村の老人に金言をもらい、解決の糸口が見つかったのだ。
現代でも、国連の安全保障理事会とかで各々が勝手に自己主張をして紛糾しているときなどに応用したいものである。
上記は農地解放という利権に絡む話であるが、村人の生活に関しては、「世話焼きばっば」が緩衝材、絡み合った問題をほどく役を担ったという。
このような、権力ではなく、権威を持つ賢老の存在が日本社会からなくなってしまったことは、社会にとって大きな損失であると思った。