幸せに見える不幸せゲーム
あなたは自分自身を愛せているだろうか。
あるいは、あなたは自分の存在価値を認められているだろうか。
誰しも、自分らしく生きたいと思っている。自分らしい姿を、愛してほしいし、認めてほしいと思っている。
しかし、私たちは社会に属しているから、他人の目を気にして、自分を封じ込める。その他人に認めてほしいのに、その他人を気にして自分を取り繕うという矛盾を抱える。
そもそも、自分らしさって何だっけ?
例えば、可愛いと褒められたいから、身を取り繕い、化粧をする。同性からの評判はいい。異性からの評価はそれなりに嬉しいが、それでモテたからとってそこまで嬉しくない。認めてほしいのは、見た目とかそういうことじゃない。
例えば、進路を決めるとき、「本当にやりたいこと」を問われる。何となくやりたいことはある。だが、「本当に」と言われると、そこまで本気になれるかわからない。上には上がいる。結局、安全な道をとって、それなりの人生を生きていくのだろう。
席が空いているから、そこに座っただけ。
求められるから、応えただけ。
誰でも手にできるもので、身を固めただけ。
自分の替わりなんて幾らでもいる。
「そんなことない」と言ってくれる人を求めている。しかし、どこにいるのかな、そんな人。探せば見つかるのだろうか。
その人が自分を愛してくれれば、自分の存在を認められるようになるのだろうか。
自分の存在価値が揺らいでいるのは、他人からの評価がうわべをなぞっているからだと思うだろうか。
それとも、本当にやりたいことを見つけられていないからだと思っているのだろうか。
どちらも一理あるし、概ねそうだろう。
ただ、自分の価値を支える原因を、自分の外に探すと、人の気持ちは崩れやすくなる。
なぜなら、そうすることは、他人の目を気にしながら生きることの延長線上にあるからだ。
・「素敵な人」に見せるお仕事
他人の姿はキラキラしているように見える。
世の中には、自分のしたいことをして、楽しく生きている人がたくさんいる。
仕事でもプライベートでも充実している人。
それと比べて自分はどうだろう。空いた時間は、動画を見るかネットサーフィンで潰している。なんてつまらない人間なんだろうと思う。
果たしてそうだろうか?
あなたはきっと、日々SNSのネタを探している。自分を良く見せようと、映える商品を買ってみたり、流行りの話題についていこうとしてみたりする。
そうしている自分と、キラキラして見える他人との違いはなんだろう。
あなたもきっと、他人から見たら、キラキラして見える人間なのかもしれない。他人はよく見えるものだから。
じゃあ、問題はどこにある?
まあ普通に考えたら、日本独特の「空気感」じゃないだろうか。
みんながみんな、「そういうもんだ」って生きるのが当たり前だと思っていて、不思議に思っていても、誰もそれを問えない。
SNSがつくり出した空気感は、「幸せオーラ」だと思うけれど、それって胡散臭くないか。まるで、セールスマンが自分の商品のいいところだけ推しつけてくるようなもの。
他人が自分を「○○ってすごいよね」って言うたび、「そんなことないのに、何もわかってない」とか「この人は私に理想像を押し付けているんだな」と思う。そういうのはうんざりだし、疲れる。
それに幸せオーラは似ている。「どうでしょう?すごいでしょう!?」と言われても、「いや、私には関係ないし」って思うだけで。
まるで世界は、自分とは関係ない人たちの循環で成り立っているみたいだ。
・「幸せオーラ」に包まれる幸せじゃない人々
承認はタバコや酒に似ている。あるいはチョコレート、デザートでもいい。
それを口にすると、快楽を得られる。けれど、長続きしない。
だから、何度もそれを手に入れたくなる。
承認を求め続けることは、依存症とそこまでかわらない。
人は瞬間的な快楽を得るために、「いいね」がもらえそうなネタを探している。
それは、セックスするための都合の良い相手を探しているのとかわらない。
長続きしないのは、替わりが利くからだ。本当の自分じゃなくていいなら、中身はbotでも構わないのだろう。
幸せオーラは、現状をみんなに示したいから発しているのではなく、それを発することで「いいね」を得られるから示しているに過ぎないのかもしれない。承認を寄せ付けるためのフェロモンのようなものだ。
自己顕示欲よりも、どんな形でもいいから「存在する居場所がほしい」と思う欲求のほうが強い。端から見れば退屈な自慢でも、本人にとっては世界と繋がる数少ない方法のひとつなのかもしれない。
そして、承認という趣向品に頼るのは不安定だ。
他人からの承認は、期待外れの行動を取れば瞬く間に失われ、回復が簡単にはできない。
だから取り繕うことをやめられない。
いずれ幸せオーラは独り歩きして、ありのままの自分を置いてけぼりにする。
自分を良く見せようとして演じた自分が、いつのまにか、本当の自分を苦しめるようになる。
・承認が足りない理由
承認を求めることが、長い目でみて自分を苦しめるなら、それをやめたらいい。
けれど、そう簡単に気持ちを切り替えられるわけじゃないだろう。
考え方には、切り替えやすいものと、そうじゃないものがある。
変わりにくい考え方は、生存本能に関係しているものだったりする。
例えば、承認欲求の大元は、愛情欲求だ。
小さい子どもは、保護者の世話がないと生きていけない。だから、構ってほしくて、ぐずったりする。
今の時代に、承認欲求が取り沙汰されるようになったのは、SNSだけが原因じゃない。社会に愛情のある繋がりがなくなったんだ。
昭和の時代には、近所付き合いで、子どもの遊びにつき合う大人が多かった。独楽遊びとか、縄跳びとかが娯楽だった時代だ。
テレビもそんななかったから、テレビを持っている家庭にご近所さんも集まって、みんなで見るということもあった。
だから、近所の人たちは顔見知りだったし、構ってくれる大人だらけだった。大人たち皆で子どもたちを育てようという空気感があったのだろう。
しかし、今は近所付き合いよりも、スマホやインターネットのほうが繋がっている時間が多い時代だ。近所の大人が子どものゲーム遊びに混ざることなんて、あり得ないだろう。
もう、近所の人たちが誰なのかもわからない。大人たちは、もう皆で子どもの世話なんてしない。見知らぬ人だらけの町で、他人と関わったらどんな面倒があるかわからないだろう。保身だ。
かつて愛情を与えていた大人は、親以外にも社会にたくさんいた。それは見知った人たちだった。
今は違う。社会は、アカウント越しにいる見知らぬ誰かで溢れた。いくらでも演じられる距離感だ。
そして、近所の人や他人は、見知らぬ誰かだらけになったから、その見知らぬ他人の目に、人は怯えるようになった。
見知らぬ他人が何を考えているかわからない。それは、大人たちが子どもに、信頼できる距離感で話ができなくなったからだ。
将来もわからない時代だ。下手なことを言ってしまいたくはない。保身が先だって、腹を割って話すことがなくなった。
家族と友人、恋人というごくわずかな関係性の人しか、本当のことを言わなくなった。
だから、そもそも承認の量が足りていないんだ。
替わりを埋めようにも、替わりなんてない。
SNS上のアカウントでは、面と向かってコミュニケーションできないからだ。
・感情表現の仕方
変わってしまった社会を、元に戻すことはできない。変わった社会に適応して、人は生きていくものだ。
SNSでは満たされないけれど、SNSでしか他人と繋がる方法がなくて、かまってちゃんになる人がいる。
本人が変というより、社会が、他人にあまり干渉しない空気感になっただけだ。構ってほしいと訴えるのは、周りからの愛情が足りていない証拠じゃないか。
今は、言葉を交わすより、「いいね」や「スタンプ」で済ますほうが楽だ。
楽な気持ちの表現に慣れ、言葉にすることがなくなったら、自分のモヤモヤする気持ちを話す手段がなくなった。
今の若い人は、感情が直情的になったというより、感情表現が苦手になったのだろう。感情をうまく伝えることができないと、自分でも感情の調節がしにくくなるものだ。
こういった人は、歌を覚えるのがいい。
歌詞を読んで、気持ちに共感して、声に出す。小さなことだが、これで随分違う。
「これが自分の気持ちだったんだ」と気づければ、自分の価値観がわかってくる。
歌以外には、漫画やドラマ、映画の登場人物に、気持ちを合わせることもいい。
ただし、面白い場面がたくさんある、構成が上手い物語じゃないほうがいい。感情とは関係がない頭の使い方をするからだ。
物語なら、女性作家の描いた漫画や脚本のほうがいいだろう。小説が読める人なら、意外と純文学もいい。
あと、ブログもある。
商用でなければ、ブロガーは気持ちを正直に連ねていることが多い。わざわざ長文で書くということは、それだけ感情がこもっているはずだからだ。
逆に、Twitterとかは、情報発信者が多い割に、一つ一つの内容は短いから良くないわけだ。数が多いのに短いから、情報量に埋もれる。
それと、Twitter系のSNSはフォロワー数が見えるから、自分を変にブランディングしようとしてしまう。
シンガーソングライターも、漫画家も、ブロガーも、自分をよく見せようとブランディングするために言葉を考えているんじゃない。自己表現のために言葉を紡いでいるんだ。
そういう人たちがアーティストと呼ばれる。
・幸せ消費ゲーム
自己表現は他人に認めてもらうためにやるのではなく、世界とつながるためにやるのだと思う。
別にアーティストとして食べていくわけじゃないなら、誰かに認めてもらう必要もない。
自分を表現することに意味を見いだすのは、他の誰でもない、自分だ。
認めてほしいという気持ちを訴えるのは、それもそれで表現だから、好きにすればいい。
ところで、もう一つ。承認欲求には面倒な問題が入り込んでいる。
それは、この社会が競争社会だということだ。
Twitterのフォロワー数など、「数値」を気にするのは、学校のテストの点数で、順位を決める習慣があるからだ。
他人と比べて劣っているから、自分はダメなんだと思うようになるのが、中学高校の頃だ。この年齢になると、序列で人の待遇が変わることを知り始める。
学校に行く中で、多くの人は、知らず知らずに、あるゲームに参加するように躾られている。
「お金を稼いで使うゲーム」だ。
人は、生活水準を他人と比べて、より良いものにするようなゲームに参加している。
フォロワー・スコアもそうだ。フォロワー数が多い人ほど、「認められている・愛されている」人になる。
承認に順位など必要なのか?
オンラインゲームのランキング上位を目指すのは、賞金が出ないなら、自己満足と承認欲求を満たすためだろう。
では、ゲームを作っている運営は、何でランキング機能などつけるのだろうか。簡単な話、「上位を目指す過程で課金してもらうため」だろう。
資本主義というゲームは、課金が多いほど、より良い生活に近づいていく競技なんだ。
そこでは、自己表現ですら、ゲームに参加する方法だと思われやすい。
すると、好きにやっていた歌や絵描きを、アーティストと比べて「これじゃ生活するお金は稼げない」と、周囲の競技者が言うようになる。
はっきり言えばいい。
「余計なお世話だ」
・ただ好きなことをしろ、それが世界に存在する理由になる
普通に生きていける分だけのお金が稼げればいい。より良い生活なんて目指さなくても、好きなことができていればいい。
それを他人と比べる必要なんてない。別に満足なら、SNSでもオンラインゲームでもビジネスでも背比べでも、何でもやったらいいんだ。
それが本当に好きかどうかなんて関係がない。
自分ができることをやっていれば、それが世界に存在する理由になるんだ。
ハッピーな人は、他人の目を気にしないで、好き勝手やっている。
その行為が悪ければ非難され、良ければ賞賛されるが、その結果と関係がなく、本人は好き勝手している。
この社会は、いち早く「他人と比べるループ」から抜け出す者が、楽になるゲームなんだ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
余談 : この文章を書いた理由
この文章は、親しい人間関係が作れていなかったり、人生が充実していなかったりすることが、本人が努力して社会に合わそうとしている結果、起きている人を対象に書いている。自身の苦しみの一つは、今の社会では普遍的な問題であると思い、その理由も考えた上で記録した。
一応参考図書は、宮台真司の『14歳からの社会学』で、この文章を書こうと思ったきっかけでもある。この人の思想は「経済回して社会回らずはダメ」というもので、経済だけ良くなっても、社会のほうが良くなければ日本は良くならないと考えている。Wikipediaを読むと、反属米政府の極右思想だということがわかる。肝心の本は、そういった色がないので、政治思想関係なく読める。
ところで、「社会回らず」の内実を考えたとき、どこまでが本人の問題で、どこからが社会の問題なのだろうか。おそらく白黒はっきり分けられない。ただ、社会の問題だとすると、社会の側が問題を解決することに、人が依存するようになってしまうため、本人の問題としたほうがいい。社会が変わるのに期待するより、自分を変えるほうが楽だ。
世間のポジティブな記事は、経済ゲームに則ったものだったり、具体的な方法を書いていたりするものが多く、個人的には不満があった。問題の核心は、社会と経済と教育制度、それから本人の精神構造と家庭環境が複雑に絡み合っていることにあるので、根本的治療よりも、対処療法的にポジティブな意見を真似たほうが手っ取り早いのだろう。だが、それは塗り薬みたいなもので、内臓の疾患に皮膚からアプローチしている感があった。たぶん承認欲求問題は、生活習慣を改善しないと解決しない。
社会の課題を解決するようなビジネスは増えているし、政治家も日本を何とかしようとしているのかもしれないが、たぶん人間関係系統の問題は、組織が行う形式的なアプローチでは無理がある。組織の運営は、運用コストを削減するためにある程度合理化しなくてはいけないが、承認欲求に連なる人間関係は、非合理で冗長な愛情の繋がりが重要だというパラドックスがある。簡単にいうと、「役割」を本人らが感じてしまったらアウトなので、マニュアル化できない。誰とでも仲良くなるマニュアルがあるなら、首脳会談はもっと上手くいっているし、ブラック企業などはびこらない。方法論には限界がある(この理由は、複雑系の領域にあり、数学的に表せると思う)。
人は、「楽(便利)」か「楽しい(快楽)」の方に流れる。この習性が時代の変化をうねらせた結果、現状の承認欲求が生まれた。とすると、この習性を利用して、承認欲求を消すことも可能だろう。承認欲求に支配される生き方が、楽じゃなく、楽しくもないなら、楽に楽しく承認欲求を消す方法があればいい。この文章がそれを提供するかたちになっているとは思えないが、とりあえず抜け出す糸口を、現状の趣味や生活習慣の中から見つけるきっかけになればいいと思う。
お金を稼ぐことや良い生活を得ることが一番に重要になるやすい世間にとって、そうじゃない勢力がカウンターパートとして存在してもいいだろう。これが自分にとって使命だと思っている。大衆が膨らましたバブルが弾けることは、歴史に倣う。その人の輪に混じれないなら、混じれないことを価値として磨き上げればいい。
心が強いやつは大体、人との繋がりを持ちながら、半分以上自己満足で生きている。物語の主人公がそうだろう。ほとんどの人は、社会の中で自分が主役ではないと思っているかもしれないが、それは経済ゲームの中での話だろう。家族や友人、恋人といった人間関係の中では、良かれ悪かれ誰でも主役だ。
自分も主人公も、全知全能の神ではないから、すべてを見渡し、すべての問題を解決する立場には立てない。何かしらの立場を取れば、味方になれない領域が生じてしまうことは、不完全性定理が証明した通りだろう。だから、必ず人は問題を見落とすし、それを引き摺ったまま前に進む。それを嘆くか、改善の余地が無限にあると思うかどうかで、気持ちの余裕が変わる。
自信があるやつは、何かしらの信念を正しいと思っているから、余裕があるのだろう。その信念が俯瞰的に見て完璧じゃないとしても、構わない。不完全で非合理で身勝手な振る舞いを、愛着を持って見守る愛情が僅かでもあるなら、それを自分に与えればいい。あなたは許される。失敗を含んだ歩みだけが、この世界に存在する。