展相宇宙論(世界観メモ)

はじめに


 宇宙論とは言ったものの、反証可能性がない世界観を展開しているため、科学ではなく哲学のジャンル。つまり趣味の文章。

 科学の概念をつまみ食いし、宇宙論を構成したら、シェリング自然哲学と近くなったので「展相(Potenz)宇宙論」とした。

 個人的に、思弁的唯物論や新実在論という割と最近の哲学は、カントの認識批判哲学の延長上にあるため、論理的な自己言及性の墓穴から抜け出せていないように思える。

 私の関心はあくまで、認識を介さない世界がどのようにあるのかということだ。これには、基礎付けをしようとして自己言及と無限遡行に陥る哲学より、潔く測度を設定する科学の探求のほうが信頼に値する。

 なお、「方向」や「エネルギー」のような力学の概念を、別の方法で導入あるいは導出しているが、力学は実用的なものなので、基礎付けし直す必要がない。基礎付けをし直すという考え方には共感しない。スタート地点は絶対ということはなく、むしろ豊かな展開をする方が重要で、都度前提を組み換えていく方が発展には大切だ。

 事実はそうあって欲しいこととは無縁である。私は人間にとっての世界ではなく、ただ宇宙にとっての自然の摂理が知りたい。だから、無機質な考え方であってもそれが事実に近いなら十分だ。

 あと、私は書きながら考えるタイプなので、足りないパーツがあっても気にしないことだ。それに、すっきりするような着地点も用意していない。



1.量子論における真空

 まず、宇宙には、何もない状態がない。真空とは、エネルギー量が最低の状態であり、そこから、電子と陽電子の対生成や対消滅が起きている。無は概念に過ぎず、カオスが基本である。

 このエネルギーがどこからやってきたのかを問うのはナンセンスである。エネルギーがある状態を理論の基礎にするのは、論理的必然性があるわけではなく、便宜上に過ぎない。ただし、この基礎付けを否定する論理的な理由もないため、反証可能性がなく、世界観に科学性が担保できないことになる。なお、上記の真空については、科学的に検証済みである。

 世界観を構築する上で、人間が基本的に持っている「個体性」の認識を、まず取り払わないとならない。何か物質がはじめにあって、それが何かを生み出すというイメージではない。イメージするなら、雲の中から氷塊が生じることや、気流から竜巻が生まれる場面が近い。ただし、それはまだ先の段階だ。

 エネルギーという概念がそもそも、計算上必要となったから導入された、物理学の概念である。エネルギーは、動きへと変換する素のようなものだと考えればいい。水蒸気のようなエネルギーが、水のように流体となって、さらに固まって氷のような個体性を得るという世界観をイメージすると近い。相転移のように、エネルギーが相を発展させていくから、展相宇宙論というわけである。


2.カオスからコスモスへ

 宇宙の始まりには方向がなかった。ビッグバンが宇宙の始まりだと言われているが、それを前提とすると、ビッグバン直後は灼熱の太陽のような宇宙だっただろう。

 熱量は、原子や分子がバラバラな方向に素早く運動しているほど大きくなる。ビッグバン直後ももちろんそうだろう。この状態では、どこを半分に切っても、左右の違いが分からない。というのも、全部の量子がバラバラな方向に動いているから、どこを左右に分けようが上下に分けようが、両側の運動量に対称性が見いだせてしまうわけである。

 だとすると、ある方向からある方向へ流れがあれば、その中間を区切ると、対称性が崩れていると言える。これがいわゆる「対称性の破れ」と呼ばれるものだ。

 流れの方向に規則性が生じることが、対称性が破れることなのだから、対称性の破れは同時に、「方向」の発生を意味する。これが展相の第一段階、第一展相である。ちなみに、ここでは「方向」も「流れ」も「規則性」も「対称性の破れ」も同じ意味なので、上の文章は同義反復である。

 ところで、「原子や分子がバラバラな方向で運動している状態が熱」としたら、すでに物質と方向を前提として考えていることになる。これは物理的に考えやすいよう、便宜的にそう説明しているだけで、実際は、エネルギーが満たされている状態が、宇宙の始まりのカオスであろう。この状態は第零展相とでも呼べばいいが、相が発展していないため展相でもない。

 このカオス状態のエネルギーが変換する場合、エネルギーが別の状態へと「遷移」することになるため、方向性が生じる。だから、イメージとしては雲から雨粒が生じるのに似ている。実際に生じているのは、電子などの波動する粒子や、光子などの仮想の粒子だ。

(光は電子の移動が生む電場と磁場が交互に進む波なので、光子という物質があるわけではなく、場が粒子的に振る舞うというものである。)

 ちなみに、方向性が生じると、同じ方向にエネルギーが向かって強め合うことが起きたり、反対方向でぶつかったりと、新たな事象が起きるようになる。加速と衝突は、方向が生じた後の概念である。また、エネルギーのバラバラな運動が規則的に遷移することで、熱量がさがって冷えていく。これにより、エネルギー量にムラが生じていく。


3.流れの再帰性

 エネルギーに満たされた空間から、粒子の波動のような流れが生じると、低気圧と高気圧のように、空間のエネルギー量にムラができる。低いエネルギーのところはそれこそ真空のようになるが、高いエネルギーのところは台風のような個体が生じる。それを人々は恒星やブラックホールと呼んでいる。

 具体的にどのような仕方で高エネルギー域ができるかというと、それこそ渦のイメージが適している。渦は、流れの方向が中央に流れ込むように見える。つまり、流れがどこか遠くの方向に向かうのではなく、同じところに帰ってくるように進むと、エネルギーが集まって個体性が生じる。この個体性を第二展相とする。この個体性と再帰性は同義である。

 科学には「自己組織化」や「散逸構造」と呼ばれる概念があり、この第二展相はそれが相当する。流れが再帰することで生じた、その円環構造を自己と捉えてみる。実際には、化学反応などのプロセスの産物が、再度同じプロセスを開始させた場合に生じる秩序的な過程を自己組織化と呼ぶが、拡張して捉えれば自己組織化といえる。散逸構造は、無秩序さを構造の外に追い出すことで、構造としての個体性を維持する機構のことを呼んでいる。台風がまさにそれで、高い温度の海水が大量に蒸発するところに、地球の自転が加わることで渦が生じ、吸い込む力と吐き出す力が再帰することでさらに規模を増すことになる。

(詳しく言うと、熱エネルギーは高いところから低いところへ遷移するため、台風が上空に熱を吐き出した分、下方が冷やされることになり、熱い水蒸気がさらに集まるわけである。)

 一般に、規模が増幅するところには、再帰性すなわち自己組織化が生じている。宇宙論とは離れるが、例えば金を多く持っている人ほど、投資に回せる資産が多くなり、その運用益でさらに稼ぎやすい。こういったものを金融資本や物的資本と呼んでいる。また、モテるやつはノウハウと自信があり、さらにモテやすい。モテる人はモテる相手を選びやすいため、その子もモテる遺伝子と社会性を備えやすい。これを仮に性的資本とも呼べる。資本は、自然の摂理に則った人間の個体性である。これも気圧のようにムラがあるため、貧富の差や性体験の差が生まれるわけだ。ただ、第二展相はまだ台風や恒星のイメージが近く、人間のような生命はより高い展相に位置する。

 個体性が生じた場合、それは位置を占めることになる。それが存在するためには、潰されないよう周囲を押し退ける、一定の圧を必要とする。これを慣性質量と呼ぶらしい。また、電子のように常に波動しているものは、同じ辺りを一定の周期でぐるぐると回ることで、その場に留まる。これを「定常波」や「物質波」と科学では呼んでいる。


4.関係性のネットワーク

 これは個体性の特徴の一つと言ってもいいかもしれないが、個体になったものは、周囲の個体と特異な関係性を築くことがある。それぞれが一方の圧で潰れることがなく、さらに両者間でエネルギーの変換プロセスが進むような関係性に至ったとき、その二つの個体は共生関係にある。抽象化すれば生命の原型と言える。

 ただ個体が集まっただけでは、空間にエネルギー的なムラがあるだけでしかない。さらに、隣接する個体どうしで熱を交換しても、まだ圧で説明が済む話である。ここからどうにかして、個体相互が化学反応で結びつくような、力学の範囲を越えた展相が出現する。

 第三展相は生命が相当するが、これをエネルギーの遷移で説明すると、再帰性に加え、ネットワークが出現している。イメージは多細胞生物のように、集まっては何か別の次元を感じさせる動きを示すものである。科学には「オートポイエーシス」という概念があるが、これはプロセスの産物のネットワークが、プロセスを再帰させたときに生じるシステムで、自己組織化の上位概念となる。

 生命を宇宙論の延長上で語るのは無理があるのだが、化学反応も物質の関係性から成る以上、その物質をエネルギー的に捉えられれば、物理学の延長上に生命を位置づけることは可能だろう。原子を、中性子と陽子の数、電子の数と層と運動の仕方で区別できるなら、これらは数学の道具立てで関係性を表現できる。量子のエネルギー量が定数的に決まっているとすれば、その質を量的に規定することもまた可能だろう。

 問題は、物質から生命の誕生を再現する方法が確立していないということである。何がどのように、新しい事態を創発させたのかが分からない。再帰性は方向性の自己言及と言えるが、生命ネットワークは再帰性の再帰性とでもいうのだろうか。

 少なくとも、特定の関係性にのみ見られる事象なため、特定の物質へと変換するエネルギーのプロセスを描けなければ、物理学上で化学を処理することは難しいと思われる。


5.非物理的プロセス

 ところで、自己意識のような働きは、生命的な不確定性を示す意識に対して、自ら意識を向けることで生じる。「存在とは何か」という問いは、存在という概念上の存在に、理由という概念を求めるという、自己言及性を起こしている。存在は言葉で認識されるものなのに、それをあたかも物質のようなものとして捉え、さらに物理的な関係性のなかに理由を求めるのではなく、言葉で成る論理的なプロセスのなかに見出そうとするので、堂々巡りとなる。例えるなら、市民全員の髪を切る理髪師は、自分の髪だけは切れないのである。

 こうしたプロセスは、物理的には存在せず、少なくとも科学的にはどう扱っていいのか分からない対象である。だが、エネルギーのように、間接的に概念として扱う必要のある事象であるため、特別に第四展相として認めておいたほうがいい。問題は、第三展相への発展方法が分からない時点で、エネルギーが第四展相まで発展する道筋が描けないことである。

 意識や経済には進んでいる感じはあるものの、比喩的に捉えている感が否めない。空間的に存在しているわけではなく、空間座標に存在しているものに間接的にネットワークを結びつけているため、空間的な概念である運動が適用できるとは思えないのである。非物理的プロセスと物理的プロセスの関係は、量子の運動量と位置の不確定性や、視神経の色と形の関係に似ている。次元としては別であるものの、相互に関係し合っている。



・余談

 シェリングの自然哲学では、流れを絶対的な「産出性」として、その流れが阻害された「点」を第一ポテンツとしていた。ただ、純粋な点は数学上の概念で、物理的には物質の関係性から派生的に生じることしかないように思われる。


・課題

 量子が定数的である理由を、物理的に説明づける。すなわち、宇宙の秩序がなぜこのようにあるのかという問い。これは、宇宙の内部に、生存合理性のような最適性を見出すことが探求プログラムとなる。

 

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