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中世キリスト教修道生活の核心その7 すべてを捨てる・自己放棄3/3(フーコー) ChatGPTでアベラールとエロイーズ

前回からの続き


フーコーによる自己放棄の説明

 戒律・規約はアベラールが言うとおり、自己放棄は上長に完全服従し、「他人の支配下に自己を委ねる」ということであった。このことからアベラールはごく標準的なことを書いていたと結論できる。フーコーも同様な指摘を「性の歴史 4巻 肉の告白」(新潮社、慎改康之訳)第1章4節「技法中の技法」において展開しているが論旨の展開順が異なるので見てみよう。
 まず、pp164において、『指導されざる人々は枯葉のように落ちる』(箴言11:14 新共同訳「指導しなければ民は滅びる」)のテキストが修道士の生に必ず現れるという(この引用についてはアベラールでは発見できていない):

「弟子を師に結びつけ、弟子を師の連続的な管理下に置き、弟子に対し、師のどんな命令にも従うこと、いかなるいい落しもせずに自らの魂を師に託すことを義務付ける、という関係」

肉の告白 pp165

 フーコーはカッシアヌスの共住修道院を引用し、そのカッシアヌスでは聖アントニウスの言葉を思い起こさせるとしている:

「霊的な蜜を蓄えようと望む修道士は、非常に慎重な蜜蜂のごとく、徳により親しんだ者のもとで徳を一つ一つ採取し、それを自分の心の器のなかに注意深く集めなかればならない」

同書pp166

そしてフーコーはカッシアヌスは二つの側面を掲げていると指摘する:

1 指導とは他人の意思への服従によって自分自身の意思を放棄することとしての従順を、教え込もうとするものである。
2 (1のためには)たえざる(魂の)検討および不断の告白

入門者には以下のことが教えられる。「自分の心を苛むいかなる思考も偽りの羞恥によって隠さないようにすること、そうした思考が生まれたらすぐにそれを上長に対して現し出すこと、そしてそれについて判断を下すために自分の個人的意見を当てにせず、何が善く何が悪いかということを、上長が検討の後で明言したとおりに信じること」

同書pp168

そして、この告白により「自己自身も知らない秘密に関する『真理陳述』」を行い、この「真理陳述」が「根本的に、自己の放棄に結びついている」としている。カッシアヌスの影響下で書かれたベネディクトゥスの会則の第4章にも類似した告白が述べられていました。すなわち、
告白すること: 「心に悪い思いが起こるや、ただちにそれをキリストに向けて投げ砕き、これを霊父に知らせること。
文章はよく似ています。カッシアヌスの文書はベネディクトゥスに取り入れられたというだけあります。
この告白は上長による大きな拘束を修道士に課しているように見えます。フーコーは「主体の解釈学」(筑摩書房)で

自己についての<真実を語ること(le dire-vrai)>という課題は、救いのために不可欠な手続きとして書き込まれ、この義務は主体の自己練磨や自己変容の技術として書き込まれ、そしてこの義務は司牧的な綱領に書き込まれます。・・・少なくとも一年に一度告解をすることを拒否することは、破門の理由となる。

主体の解釈学p412

と指摘している。
 フーコーは時代をさかのぼってセネカやエピクテトスなどのストア派でも自己の心の動きを書き留めたりといったことが行われてきたが、それは「人が自己規制を保って、結局は、完全な自己享受に到達することができる手段としての、すべての実践とすべての鍛錬を展開することの重要性」(性の歴史 3巻自己への配慮 pp311)であって自己への配慮に基づく自己の陶冶が繰り広げられるが、自己放棄をするためのものではないとしている。
 この「自己への配慮」と「自己放棄」はキリスト教の時代に逆説の関係に入り込み、自己への配慮の概念は弱まってしまった、とフーコーは指摘する。この「自己への配慮」と「自己放棄」については長くなってしまうし、アベラールとエロイーズの修道生活の核心から遠ざかってしまうので別記事にて展開する。その内容として、アベラールとエロイーズの第一書簡のセネカとエチエンヌ・ジルソンの講義などを引用して下記のことを展開するつもりである:セネカにも自己を陶冶するにはすべてを放棄するという概念があり、自己放棄という概念も古代からの借用であってキリスト教の発明ではない。中世にはそれが屈折して修道院で服従する・告白するという意味や実践が加わったことをレポート予定。
 フーコーのこの見解で、もう一度アベラールを見ると、アベラールの自己の放棄は極めて一般的な内容を持つが、フーコーは「肉親を捨てる」ことは分析していないようなので、そのことについてはあまり重視していないかもしれない。
 また、アベラールは使徒的な生活に親近感を示します。フーコー「肉の告白」でもディダケーをよく引用したり(巻末に索引の一つとして有り)、「生者たちの統治」(p336)ではカッシアヌスが修道会の「共住制が使徒を起源とする」と報告していることを紹介している(ただしフーコーは懐疑的である。)ため使徒的な生活は分析に値する重要な考え方としている。その時代から4世紀にかけて告白という概念ははストア派からキリスト教に入ってきたことをもう少し詳しく引用してみよう。

実は、古代の哲学者たちが練り上げた良心の指導および検討の実践は、修道性によって初めて、つまり修道制の制度内部において、修道制を出発点として初めて、キリスト教に受け入れられ、そこで発展して新たな形態と新たな帰結を得たのだった。

肉の告白 pp163

フーコーはストア派について下記のように述べている:

後者(ストア派)の狙いは、本質的には、意志が自己自身に対してその至上権を行使するための諸条件を打ち立てることであった。

肉の告白 pp175

そのための評定として、下記の3点をあげている。

・指導者は、自らの意志の管轄に属するものと自らの領分ではないものとを区別する術を学んだ
・その意志を、そうした分割を定め、世界の秩序との適合を明らかに
・情念の無秩序ないし欲望の過剰を引き起こす臆見の誤りを一掃

肉の告白 pp175

一方、キリスト教では

キリスト教の指導は逆に、意志の放棄に照準を定める。その指導は、もはや欲しないようにしようとする熱意という逆説に依拠している

肉の告白 pp175

意志の放棄とセットなのは「従順」な「服従」で、そのために必要な態度は「謙遜」です。

指導に不可欠な道具である師への服従は、決して、自己自身に対する至上権が打ち立てられるような地点へと導くのではない。そうではなくて、それは、修練者が、あらゆる統御を奪われて、もはや神が欲することしか欲しえないようになる地点へと導く

ことがポイントだというのである。「神が欲することしか欲しえないようになる地点」というのは意味がわからないが、しばらくいくと意味する文に出会える

魂の平安は、自己自身によって欲するのを放棄してしまったことによってもはや自分の力を神の力からしか得ていないという点、神の力を目の前にしているという点にある。観想生活が、このとき開始可能となるのである。

肉の告白 pp175

自分の力を神の力からしか得ていない、というのは具体的にはどのようなことだろうか?最後の「観想生活が、このとき開始可能となるのである。」は重要であるが、カッシアヌスが述べたというより、フーコーの解釈ではないかと考えられる。
 そこでその観想生活について「アベラールとエロイーズ」で確認すると、第8書簡にアベラールがアルセニウスのエピソードを紹介している。せっかくなのでラテン語からChatGPTで日本語を生成してみよう。

Et nos ergo, ut coram Domino stare, et ejus obsequio parati magis valea-
mus assistere, tabernacula uobis erigamus in solitudine, ne lectnlum nostræ
quietis frequentia hominum concutiat, quietem turbet, ingerat tentationes,
mentem a sancto evellat proposito.
 Ad quam quidem liberam vitæ tranquil-
litatem beatum Arsenium Domino dirigente omnibus iu uno manifestum
datum est exemplum.

そして、御前に立ち、主に仕える用意ができるように、私たちも荒野にあなたのための幕屋を張りましょう。私たちの安息の床が人々の騒がしさに揺れ動いたり、安らぎを乱し、試練をもたらすことがないように。
 聖なる目的から心を引き裂くことなく、聖アルセニウスの導きにより、生活の穏やかな平和が与えられる、その自由な平穏のために。
(畠中訳 神に導かれて自由な静観生活に入った聖アルセニウスは、我々すべてに対して輝かしい前例を示している)

Unde et scriptum est: « Abbas Arsenius quum adhuc
esset in palatio, oravit ad Dominum, dicens : « Domine, dirige me ad salu-
tem. » Et vemit ei vox dicens : « Arseni, fuge homines, et sanaberis. » Idem
ipse discedens ad monachalem vitam rursum oravit cumdem sermonem,
dicens : « Domine, dirige me ad salutem. » Audivitque vocem dicentem
sibi: «Arseni, fuge, tace, quiesce. Hæc enim sunt radices non peccandi. »

「そして、こう書かれています:『アルセニウス修道院長がまだ宮殿(邸宅)にいる間、主に祈りをささげ、言った:「主よ、私を救いの道に導いてください。」すると声が返ってきて言った:「アルセニウスよ、人々から逃れ、そしてあなたは癒されるでしょう。」彼は同じく修道生活に戻ると、同じ言葉で再び祈りました。言って:「主よ、私を救いの道に導いてください。」そして声が彼に語りかけ、言った:「アルセニウスよ、逃げよ、黙れ、安らか(畠中訳 避けよ、黙せよ、静観せよ)になれ。これが罪を犯さないための根本です。」』


Ille igitur hac una divini præcepti regula instructus, non solum homines
fugit, sed eos etiam a se fugavit.

この聖アルセニウスは、この一つの神聖な戒めの規則によって教えられ、ただ人々を避けるだけでなく、彼らもまた自分から遠ざけました。
〜中略
Hic quoque, sicut scriptum est, a Marco abbate requisitus cur
fugeret homines, respondit : « Scit Deus quia diligo homines, sed cum Deo
<< pariter et homimibus esse non possum. »>
また、彼は聖書に書かれているように、マルク修道院長から彼がなぜ人々を避けるか尋ねられたとき、次のように答えました: 「神は私が人を愛していることを知っており、しかし私は神と同時に人と共存することはできません。」

第八書簡 岩波版p251該当

 神から直接言葉をいただき、観想生活に入ると評判をよぶ。大司教やローマから信心深い女性が会いにくるがすべて退けることになる。これが、フーコーの指摘する自己放棄についてのストア派との最大の違い:ストア派では修練が深まるにつれ人々との絆が深まるようになっていくのに、キリスト教修道士では閉じこもり房に孤独になっていく(性の歴史3巻 自己の陶冶、キリスト教については主体の解釈学p215など。直接的な出典を失念)。なぜこのような結論が導かれたのか?実は、次回の「沈黙」でアベラールは預言者、偉大な修道士、キリスト自身の例を示しているのでそこで確認しましょう。
 さて、具体的な修道士向けの告白の技術、告白をうまく聞き出す技術の教示についてはアベラールとエロイーズには出てこないように思います。エロイーズの「衝撃的な」告白はあるのだけど。修道院の生活の中で告白するタイミングとして、復活祭、聖霊降臨祭、クリスマスに行われる聖体拝領の3日前から「告白」と「相応する贖い」をしなければならないとあります(畠中訳p296)。これが贖罪規定ですね。具体的には出てきてません。グレゴリウスの司牧論の原文でconfessioを検索すると5つくらい出てくるのですが告白させる技術や告白後に統治する具体的な技術は述べられていないようです。フーコーの「異常者たち」(1974-1975年講義 筑摩書房 慎改康之訳)によると12世紀になると告白は定期的になり(先ほどの年3回)、前回の告白から全ての罪を話す、罪を決めるのは上長なので罪の代償に関わらず全て話すようになっていったそうです(pp191)。

 フーコーの告白についての議論をまとめておこう。

 検討ー告白は、その永続性において、やはり永続的なものである従順さの義務に結びついている。魂のなかで起こることのすべてが、そのほんの些細な動きに至るまで[他者に明かされねばならない]としたら、それは、完璧な従順さを可能にするためである。
中略
 従順さの一般的形式と、検討 - 告白の永続的義務は、必然的なやり方で対をなしているのである。
中略 
 それは、主体の意志を他者の意志に従わせるものとしての指導という一般的形式をとるものであり、自己自身の奥底に〈他者〉、〈敵〉の現前を暴くことを目標とするものであり、さらには、心の完全なる清らかさにおいて神の観想に到達することを最終目的とするもの
中略 
キリスト教的霊性の実践に本質的な逆説、それは、自己自身に関する真理陳述が、根本的に、自己の放棄に結びついているということである。

肉の告白p193-195

と検討ー告白は従順、心の清らかさ、神の観想をへて自己の放棄に至る。
 論理の展開法として、アベラールではすべてを捨てることからすぐに服従、従順に進むが、フーコーでは指導について述べ始め、従順、従順させるための告白、それから自己放棄の概念にいたる。
 フーコーの議論では告白とはどのように自らの内面を言語化して語るか(エクサゴレウシス)、従順になるかということは強調されるが、告白させるため=従順になってもらうため、という方法論まで踏み込んでいない。どうやらそういう方向ではなく「羊飼い」と「羊」の「相互性」は「同一化」することのようである(肉の告白pp512)。
 また、告白の実践の起源はエピクロス派にあるということをフーコーはパレーシアという、以前取り上げた「率直な語り」という分析の中で取り上げています(主体の解釈学p441)。さらにディダケーの4章14、14章1に告白が出てくる(生者たちの統治p200, 231)。エクサゴレウシス(自己の真理の言表行為)と対になるエクサモロゲーシス(自己の真理の現出化)という言葉を使っている。このことはエピクロス派からキリスト教へ告白が取り入れられたことを示唆している。
 最後に、結局のところ、自己放棄の概念をエロイーズに説明するということは、アベラールやエロイーズのような修道院長にとっては、アベラールが修道院内での統治の仕方をエロイーズに指導しているということになる。

<キリスト教会>に特有の権力、他の社会や他の宗教のなかにその等価物を見出すのがおそらく非常に難しい・・・(中略)・・・信者たちの生を悔い改めの生として導くこと、そして真理の手続きの展開をーエクソモロゲーシスもしくはエクサゴレウシスをー悪の代価として絶えず要請することを、その最も重要な役目のうちの一つとする権力

肉の告白 pp500

修道院内での管理、組織や運営についての詳細はアベラールとエロイーズの岩波文庫では260ページ、280ページから286ページに。セクハラ防止策については276、279、280ページにある。お手元に本がある方は是非参照ください。

まとめ
 フーコーはカシアヌス(カッシアヌス)を引用し、指導ー服従について説明している。告白による真理陳述の重要性。4世紀ごろ自己の放棄に基づく師弟関係はギリシア=ローマのストア派の流れの友愛に基づく師弟関係をかなり変えてしまった。自己への配慮という重要な古代の哲学の流れは自己放棄の服従の要素で混乱に陥れられ消え去り「汝自身を知れ」におきかわってしまった。服従により魂の平安が得られる。自己の放棄により孤独になる。

執筆後記
 今回のトップ画像もサン=ジール=デュ=ガールのファサードから。使徒が力強くフロントに配置されています。いただいた画像です。
 全てを捨てるや告白の記述はできるのだけど結論が作れなくて、また、次々と疑問が湧き起こり、ずっと書いたり削ったりを2週間以上していました。やっとストーリーができました。すべて捨てるとどうなるのか?ということですね。
 興味深いことにジョン・レノンもイマジンで次のように歌っている"Imagine no possessions" 無所有を想像してご覧。興味深いことにこれは共産主義のテーゼでもある。共産主義そのものはギリシア時代から文献に残されている。ジョンレノンの無所有は何を導いただろうか?レノン死後の若者の連帯といっていいか?

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