夜風と流れ星が奏でる歌 -プッチーニの魅力【エッセイ#58】
『蝶々夫人』や、『トスカ』といったオペラで有名なプッチーニは、最もロマンチックな夜を描写できる音楽家の一人だと思っています。お涙頂戴のオペラ作家と思われがちですが、とてもそれだけには収まり切れない、濃密なロマンと高度な音楽性を持っている、非常に面白い作曲家です。
プッチーニ作品の夜は、二種類あります。一つは、人々が夜の街路に出て思い思い歩いている雑踏の夜。何といっても、『ボエーム』の第2幕、クリスマス・イブのカフェ前の街路。物売りや子供連れの母親や、恋人たち、子供たちがそれぞれ歩き回る場面。
さっと一筆書きで描かれたような見事なコーラスの連鎖と描写。その人々の浮足立った様子から、雪の日の夜の寒さまで伝わってきます。『マノン・レスコー』第1幕の、夕暮れ時に宿屋の前で、学生や市民たちが思い思いに話す場面も、同趣向です。
他にも『トゥーランドット』の、古代中国の宮殿広場前で、女帝と見知らぬ外国の若者に右往左往する臣下たちや民衆の場面も、活気づいた夜となっています。であるからこそ、その後、一瞬不思議に静まり返った夜の中で、異国の若者カラフがひとり歌う『誰も寝てはならぬ』の旋律が、実に効果的に響くことになります。
そして、もう一つの夜が、まさに一人きりで、孤独を抱えながら、思いを歌い上げる夜。『誰も寝てはならぬ』や、『トスカ』で一人処刑を待ちながら、カヴァラドッシの歌う『星は光りぬ』が有名でしょう。
あるいは、『蝶々夫人』で、蝶々さんがピンカートンを待ち、夕闇から月夜に変わる場面。おずおずとした彼女の不安をそのまま表しているかのような、ピチカートとハミングコーラスによる、あの絹の着物のような肌触りの、美しい間奏。
そして『外套』で殺人をする前に「誰もいない、静かだ」と孤独に歌うシーンは、プッチーニ作品の中でも最も陰鬱な場面でしょう。
群集場面であれ、一人の場面であれ、なぜこんなにもプッチーニの夜は魅力的なのか。それは、まず、オーケストラが柔軟だからです。歌の伴奏を務めるオーケストラが、決して咆哮せず、歌にデリケートに寄り添っています。
しかもそれが、単に旋律を補強するだけでなく、ふわふわと歌に纏わりつくように、変幻自在に形を変える音楽になっている。まるで暗い夜に、頬をかすめる夜風のようです。昼の陽光と木々の息吹を浴びた風ではなく、火照った肌を冷ます涼しい風のような音楽。
プッチーニは、ヒット作が多いため、大衆受けを狙った作曲家と思われがちですが、ヴェルディより年少で、亡くなったのは、1926年ですから、現代音楽に片足を突っ込んでいます。現代音楽の雄シェーンベルクの難解な『月に憑かれたピエロ』を絶賛し、自分でも楽譜を取り寄せて研究したりしています。
こうした彼の感覚は、細かい譜割りを伴った意外と複雑なリズムや、ところどころ出てくる不思議な和声感覚にも表れています。それゆえに、『蝶々夫人』や『トゥーランドット』で、日本や中国の民謡の旋律を滑らかに取り込むことができたのでしょう。
この現代的なオーケストラの感覚が、登場人物に繊細に寄り添った音楽を可能にし、静寂の中に夜風を感じさせるような、魅力的な夜を創りあげています。例えば『誰も寝てはならぬ』の歌が入る前の、ほんの数秒の弦の美しい響き。こうした細部に蠱惑な夜の感覚が宿っています。
プッチーニの夜が魅力的なもう一つの理由。それは、登場人物にあります。彼らは、ヴェルディやワーグナーのような、祖国や神々の宿命を背負った英雄ではありません。どこかひ弱で、運命に押しつぶされていく、近代社会の個人です。
『トスカ』は良い例でしょう。カヴァラドッシが、今生の別れに歌い上げる『星は光りぬ』は、感動的なアリアではあります。しかし、画家にして政治活動家でありながら、崇高な死を覚悟どころか、歌姫トスカとの愛欲の日々を回想して未練たらたらに歌う、ある意味妙にリアルな歌になっています。政治は一体どこに行ったのか。
しかし、『トスカ』は決して例外ではありません。プッチーニ作品の主人公たちは、自分たちのささやかな夢が破れて死んでいく存在です。『マノン・レスコー』、『ボエーム』、『トスカ』、『蝶々夫人』。主人公やその恋人たちは、儚い幻影のようなひと時の夢を壊され、その中で衰弱していく。
その唯一の例外となって、愛の勝利を自らの手で勝ち取る筋書きだった『トゥーランドット』を完成させることが出来ず、プッチーニ自身が亡くなってしまったのは、とても暗示的に思えます。
そして、そんな主人公たちを優しく包むのが、夜風です。英雄たちのように、自分たちの朗々たる歌で、世界を変えるような存在にはなれない。だがその分、自分たちの周りのこの世界の美しさを感じ、夜風を浴びながら、自分の想いでこの夜を美しく染め上げることはできるということなのでしょう。
私が好きなプッチーニオペラの中の瞬間は、ありきたりではありますが、『ジャンニ・スキッキ』で、ラウレッタが歌う『私のお父様』と、『トゥーランドット』の『誰も寝てはならぬ』です。
(伝説のオペラ歌手、マリア=カラスの歌うコンサートでの『私のお父様』)
前者は、自分の愛する人と結婚したいと父に訴える娘。後者は、自分こそが異国の美しい姫を手に入れたのだと告げる歓喜の歌。どちらも、自分の強い意志が感じられ、同時に、どこまでも甘美な滑らかさがあります。
まるで、運命に抗う彼らの意思が、流れ星となって、夜空を一瞬彩るかのような瞬間。だけど、それは、決して徒花ではありません。
この世界の美しい夜風を感じながら、流れ星となって自らを燃やし尽くして光を放ち、夜の闇の中に消えていく存在。それは、私たちの人生以外の何物でもないでしょう。そしてそれがプッチーニのオペラの本質であり、素晴らしさでもあると言えると思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。
楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。