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存在論あれこれ。
「存在を語れるのか」というテーマこそが、現代哲学における根源的な問いだ。
現代の、乱立する存在論が存在の在り方としてのみ語れてしまうことがなによりの証拠だ。
存在が多元化しており、見方をかえれば、哲学は普遍性を志向した著述や思索の保全が自己目的化した段階に入っている。見つけるものが変わったのだ。
哲学が存在の本質や意味を直接的に捉えようとする試みているうち、言語や認識の限界に直面したという、歴史的な流れが反映されているためだ。
つまり、20世紀の後半あたりから、哲学は存在そのものよりも言語や意味、解釈の問題に焦点を移し、存在を扱うことが難しくなったのである。
イギリス経験論、アメリカ実用主義、分析哲学、そしてフランス現代思想やドイツの新実在論などの潮流は、いずれも存在を異なる方法で扱うことになる。
労働者であり近代的な市民でもある、現代の万人によって、かつての放っておいても至れるようなものから、再現の対象になった同一律が、存在を直接語ることの困難さの原因となる。
自然が哲学から独立したため、有限から語らねばならなくなったのだ。存在をかたれなくなった哲学は、形而上学としてギリシア化するか、存在を間接的に語ることになる。
たとえば、ロック、バークリー、ヒュームに代表されるイギリス経験論は、知覚や経験を通じてのみ世界を認識できるとし、存在そのものよりも「経験されたもの」としての存在の用法に焦点を当てた。
これによって、哲学の思索から存在そのものへの直接的な問いは退き、パースに代表されるアメリカ実用主義になると、存在を語る用法を担う言語を語ることで、存在の追求は記憶的なものから語義としての効力を探ることとなり、存在の真理や意味が、行為や実際の効果に依存するものへと変質した。
イギリスが歴史を用いる状況論を包括する立場ならば、アメリカでは歴史や状況を作る側として、恒常性を志向している。
そこでは、抽象的な問いだった存在が、実用的な文脈でのみ輪郭を得て意味を持つことになる。しかし、語られた存在の範疇を持たせた意味を、意義論に回収することで、存在と問いの双方を意義性の犠牲にすることと引き換えに、存在を直接的に問う行為自体が実効性を欠いたものになる。
通史的に言えば、アリストテレスの言う、在るものを、ただ在るということにしておきなさい。という知恵から始まっているのだ。
次に、言語を通じた論理的分析を重視し、存在の問題を言語的枠組みの中で捉えようとしたのが、ラッセル、ウィトゲンシュタインなどの分析哲学である。
アメリカ実用主義が持つ能動的な回答を、問いに用いられる言語と文章から、その集合としての論理の構造でもって物事を問えるが、必然的に存在論的な問いそのものは、論理の分析の中に埋もれてしまう。
ここでも、存在を語る際に媒介となる言語を問えば、存在は言語によってふるいにかけられるため、問える言語が問える存在の代わりとなるため、存在そのものは問えなくなったと言える。外堀りを埋めるしかないのだ。
フランス現代思想となると、構造主義やポスト構造主義の影響を受け、存在の問いは権力、歴史、文化的な文脈に依存することになるが、
存在の本質を直接的に問うことはむしろ不可能であるとし、多様な文脈の中で変遷する、流動的な解釈として物事を捉えることとなるため、それ自体が文脈的であり、ついには問いそのものを不必要とし、そもそもが結果の原因化から始まっているため、存在論の顛末が結論となってしまう。
思想の内容としては、ハイデガーの仕事がどのように終わったかしか述べておらず、問われない存在が既存の権力と文脈に依存する人間の解釈となるため、むしろ存在は流動的な本質に過ぎなくなる。
つまり、本質を見いだす主体を保守する理論でありさえすればよく、その野放図な本質を抑制するものは建て増しされなければならない。
そして、ドイツの新実在論は、実在を媒介に、存在を再び哲学の中心に据えようと試みるが、従来の形而上学的な存在論から距離を置き、人間がどのように実在にアクセスできるのかを問う、関係論の手法を取る。
どのように関係しうるかを模索するため、実在と人間の関係そのものは消えてしまう。
このように、現代の哲学におけるテーマとしての存在は、経験により実態化し、歴史的文脈により状況となり、語られる存在の乗り物である言語を問い、言語的用法における効力の方を意義化し、存在が担うべき内容の代わりに、実在と人間の関係を問うことで、模索対象にした関係が消えるという、並列的な手法となる。
存在は、生成の論理では本質の揺らぎとなり、構築の論理としては、人と存在を媒介さする言語を以て、存在はほぼ概念の本質として扱われ、あとは用法の問題となっているのだ。
個々の存在には実体を持たないのものがあり、有との対比で無としての存在の実体の非実在性を埋めることで、存在の消息を追わねばならなくなったからだ。
存在そのものが存在するためには、存在が実在してはならないため、不可視なものとしての存在は、ときに固有の名を持つ概念語となり、ときにその在り方の変遷を確認する必要があるのだが、問題は、哲学はなぜ、実体を持たないとするハイデガーが冒頭に書いたような、存在形態のままではいられないかだ。
存在はどこで生じ、いつ消えるか。という問いをくぐらないと、なぜあるか。という問いは、なんらかの無との対比でないと、問いの答えになってくれないにもかかわらずだ。
それは、存在論は、人間が語りうる存在に神を含む余地を残そうとし、倫理への回路を志向しているため に、語られた存在は別の普遍性の材料でなければならず、存在の定義そのものが存在の存在形態を示すことで普遍性を持っては困るからであり、
無神論的な存在の場合においてもそれは同様で、普遍性を志向しながら、根拠において普遍性を持たれては困るからだ。
西洋哲学で語られる存在は、たとえば、ハイデガーの言う"存在の存在するもののうち、実体を持たないもの"というだけでは、秩序とならず、当のハイデガーにおいてすらも、存在の形態を示す定義から先を語らねばならなかった。
なぜならば、普遍的な存在の完成は、存在の定義を普遍的に完成させてしまえばむしろ、在るものが在るだけだという混沌しか産み出さず、その秩序と普遍性は論理的に語れたということでしかないため、
存在それ自体が合目的的な存在として語ることがでしなくなり、裏を返せば、存在を問い続けることしかできなくなっているのだ。
歴史的文脈や経験、言語とその効果に乗せられる存在ならばそれは存在の実態であり、存在にはハイデガーの言うような存在形態の分類しか存在せず、それは人間側の秩序とは無関係だと認めるしかない。
現代の哲学における存在が、その普遍性を志向しながら、普遍的な完成をしてはならないのは、存在には時間によって左右されるものがある。
ならば哲学は、存在が、語られたことで存在価値となり、利用価値となる回路を持たない存在を語るような存在論を問う必要があるが、それは不可能だろう。
なぜならば、普遍的な存在の定義だけでは、存在は、ただ、在ると言えば根拠無しで在るものになりうるため、多様な存在を可能にしてしまうからだ。
それゆえ、存在論は、存在形態を越えて真の存在なるものを、その在り方にまで拡張して求め続けるが、存在の定義が達成された定義のままではならないという二律背反を抱えていると言える。
また、ハイデガーの存在と時間の論理では、歴史そのものが生じなかったりするが、一方で、現代の存在論では、実際にはハイデガー批判に用いた言葉が自らに跳ね返ってきている。
例えば、絶対的な無はない。というが、死ねば認識は消えるし、その無は気分だと言えば、直接的に存在を論じる後世の存在論も気分だと言い返せるのだ。
現代の存在論者との指摘と反論の要素のねじれの原因は、ハイデガーの存在論が、存在を認識する主体を俯瞰する視点で書いていることに起因する。
ハイデガーが正しいとか間違っているというより、彼が書こうとした存在には内容があり、後の批判で指摘される限界もまた内容である。と、いった状態だ。
結論としては、存在論で語られる存在は、秩序から独立しており、存在の使い道に本来の姿がないことになる。