もし私が死にたくなったら
私は時々死にたいと感じる。
希死念慮、とか自殺願望、とか。
その言葉ほど重くはないけれど、自分なんか消えてしまえ、と強く思う。
身辺を冷静に考えてみる。
一人娘で過保護に育てられてきたし、死んだら間違いなく家族は悲しんでくれる。葬儀をするとなれば出席してくれそうな友人も何人かいる。先輩や後輩も、ぽつぽつと。
有難いことだ、心の底から思う。
だからこそ本気で、マンションの屋上から飛び降りようとしたり、キッチンにある包丁で刺そうとしたり、麻縄で首を吊ろうとまでは考えなかった。細かく言えば、それらを本気で考えた経験もある。けれど頭を過ぎる微かな幸せを全て捨てることに抵抗があった。恵まれていることは自明で、結果として、生きたくないけど生き延びている。
誰かに死にたいと言われて特段驚かなくなってしまったのは昨今のSNSでそのような言葉が飛び交うからか、ストレス社会に生きる我々にとって必然としたか、はたまた自分の中で当然といった顔で居座る感情にもはや疑問すら湧かなくなったか。
死にたいと口にした時、それが過剰表現か真意かすら曖昧に伝わってしまうようになった。本来簡単に言ってはいけない言葉であるはずなのにも関わらず軽々しく口にする人が多くなってきた。死にたいという感情に理由が見つけにくくなってきたし、理由を明確にせずとも共感が得られてしまうほど、状況はそれぞれあれど皆、つらい。
難しい時代に生きている。
生きたくないのに生き延びていることは、固定電話の保留に似ている。
何の感想も抱けない電子音楽。ある程度のフレーズが終われば、一拍置いて、また同じメロディーが流れる。どこにでもいる一般の人間がこうして生きているというのは、このメロディーのような無価値なものなんだろうなと思うと絶望する。渋谷のスクランブル交差点を渡る中の一人で、夜景の中の一つの瞬く点で、テレビやYouTubeのただ1回の視聴数で、居なくても世界は回るしニュースにも流れないし仕事先でも私一人の穴など平気で埋められる。立て替えられる。
だけどもし、誰かの世界が止まってしまうのだとしたら。
私が死んだという一報を聞いて、暗闇に飲まれ深く絶望し途方に暮れる人がたった一人でもいるのだとしたら。
もしその人が私を追ってしまったら。
色々な人の笑顔が思い浮かぶ。
世界は変わらない。
何をしたとしても明日はやってくる。
必ず日は沈むし、昇る。
だけどその人の世界を壊してしまうかもしれない。1週間前に遊びに行って冗談を言っていた、あの人の時間を止めてしまうかもしれない。その人の中の太陽は何日過ぎても昇らないかもしれない。
そう思うともう少し頑張ってみようかなと思える。死にたい気持ちは薄れないし、生きたくなるほどでもないけど、明日一日を乗り越えるくらいの少しの活力は湧く。もう頑張れないけど、死んじゃだめだなって気がつく。
私は時々死にたいと感じる。
でも本当は、頑張りたい。
君がいるなら死ねない。
君がいる世界で私も頑張りたい。
だから私は、死なない。
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