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中論02/大乗仏教【仏教の基礎知識12】


最高の真実

最高の真実
ナーガールジュナの主著『中論』は、一言でいえば、『般若経』の神秘家が見いだした最高の真実の上に立って、区別の哲学を批判する書物である。われわれはまず、ナーガールジュナの基本的立場を理解するために、彼が最高の真実(勝義 paramārtha)をどのようなものと考えていたかを知ることから始めよう。
『般若経』の思想家たちが彼らの体験した神秘的直観の世界を、ことばや思惟を越えたもの、としていたことはすでに述べた。われわれの目下の仕事の資料は、『中論』第十八章にあらわれるほんのわずかの数の詩頌である。ナーガールジュナはほとんどその個所だけで、彼の見た最高の真実を語っているのである。(p41-42)
クマーラジーヴァ訳の『大智度論』(「大正大蔵経」巻25、96ページ)は、『般若経』の空・無相・無願という三つの三昧を解説するさいに、本章の第7詩頌を引用している。このことを手がかりとして前後を読んでゆくと、ナーガールジュナはこの章において、上述の三つの三昧を念頭におきながら、瞑想によって得られる神秘的直観の世界の真実を記述しようとしたのではないかと思われる(以下、かっこ内の数字は『中論』第十八章の詩頌番号)。
自我の否定
もし自我が身心の諸要素と同一であるならば、それは生滅するものとなろう。身心の諸要素と別ならば、それらの要素の特徴のないものとなろう。(一)
自我がないときに、どうして自己の所有があるであろうか。自我と自己の所有の消滅によって、ひとは自我意識もなく、所有意識もない者となる。(二)
自我意識、所有意識を離れた人もまた存在しない。自我意識や所有意識を離れた人がいると見る者は(事実を)見ない。(三)
内と外とに、「われ」もなく「わがもの」もなければ、執着は滅し、この消滅によって再生も尽きる。(四)
人に自我があるとすれば、それは誰にとってもその存在が明らかである身心と同一であるか、別異であるかである。身心は刹那滅的な無常な存在であるから、もし自我が身心と同じならば無常なものとなってしまう。しかし、哲学者が自我を主張するのは、無常な人間の中にある恒常的な主体——精神・霊魂といったものを考えるからである。してみれば、無常な自我というものはおよそ意味がない。(p43)
かといって、自我は身心と別異な、永遠な存在であるということもできない。身心、つまり物と心とは別な、生滅せず、具体的な特徴をもたないものは存在しないし、存在しないものを自我と名づけることはできない。われわれの認識することでできるのは、無常な五群だけであるからである。
第二の詩頌では、自我の所有物の存在を根拠にして、その所有の主体である自我を論証しようとする反論が予想されている。しかし、ナーガールジュナは、自我そのものの存在が明らかでないときに、どうして身心を自我の所有物と規定することができるのか、と批判するのである。そして、自我意識・所有意識をもたない人こそが、執着を離れることによって、自由の境涯に近づくのだ、というのである。
しかし、自我や自己の所有は存在しないという認識そのものの、現に存在するとしたしかめられている身心というものは自我や自己の所有と無関係であるという思想そのものは、どこかに帰属するのではないか、そのような認識や思想の主体というものはあるはずで、それが自我なのでではないか、とも考えられる。もしそうでなければ、解脱する、解脱するのかわからないから、解脱の主体が失われてしまいはしないか。
こういうかたちの反論を予想して、ナーガールジュナは、第三・四頌において、自我意識・所有意識を離れた人、解脱の主体そのものも存在するのではない。自我をたてようとする人間の根本的な執着を離れてはじめて、人は輪廻から自由になるのだ、というのである。
『般若経』で強調された空・無相・無願という三つの三昧は、それぞれ、存在論的・認識論的・宗教的ないし心理的な意味あいをもっている。無願三昧とは願い、望み、執着するなにものもないことを見る瞑想である。それは無執着の境地である。してみると、ナーガールジュナが自我意識のない境地を説いている第十八章の最初の四詩頌は無願三昧に言及しているのだと考えることができる。(p44-45)
最高の真実の追求
行為と煩悩の止滅によって解脱がある。行為と煩悩は思惟より生じる。それらはことばの虚構による。ことばの虚構は空性によって滅せられる。(五)
心の対象が止滅するときにはことばの対象は止息する。というのは、ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない。(七)
他のものをとおして知られず、静寂で、ことばの虚構によって論じられることもなく、思惟を離れて、種々性を越える。これが真実の形である。(九)
(p45-46)
『般若経』の神秘家たちは真実の世界を求めて瞑想した。一つ一つの対象の形が消え、ことばが消え、意識が消えたあとになおありありと残る真実は、「そこにおいては心さえもはたらかず、まして文字は生じない」(「無尽意経」の一節)ものであった。ナーガールジュナも第七詩頌において同じようにいう。心の対象が止滅するときにはことばの対象は止息すると。それがものの本性(法性)であり、生じたものでも滅したものでもない。それは、対立することばのいずれによってもいい表わされないもの、ことば一般を越えた世界を指示しているのである。
われわれは、自我の否定をとり扱っている『中論』第十八章第1-4詩頌を『般若経』の三三昧のうちの無願三昧に相当するものと理解してきた。それに対して、いまの第五、七詩頌が空三昧の内容を記述していることは説明を要さないであろう。(p48-50)
「他のものをとおして知られない」というのは、その真実は他人の教えによって知らされるというようなものではなくて、自分で瞑想し、直観しなければならない自覚の境涯であることをいう。
静寂とは本体のないこと、すなわち空のシノニムとして使われる。本体を離れているということは、ことばを実体化したにすぎない本体をもたない、したがって、思惟やことばによってあげつらわれ、はからわれることがないことをいう。思惟やことばの対象とならないから静寂といわれるわけである。したがって真実はことばや思惟の特徴である種々性、多様な展開を超越している。こうしてみると、この第九詩頌は三三昧のうちの無相三昧——すべてのしるしを離れている神秘的直観の世界の瞑想の内容を記述しているものであることがわかる。
『般若経』の思想家たちは瞑想の中の神秘的体験からすべてのものの空性という最高の知識に到達した。
神秘的な直観の世界はそれ自体ことばや思惟の多元性を超えた全一なるもの、分けられないものであるとともに、それと対立している合理性の世界の根源にあるものであり、それと区別されないものである。合理性の世界がそのまま神秘的な世界と一つである。上述の第九詩頌においてナーガールジュナが、真実は種々性を越えている、といっているのはそのような世界の風光に言及しているのである。(p50)

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

永遠の本体(自性・スワバーヴァ)=幽体

滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来たりもせず、去りもしない依存性(縁起)は、ことばの虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた。その説法者の中の最上なる人を私は礼拝する。(礼拝の詩頌)(p51)
「依存性」とここに思いきって意訳したことばは、ものが必ず原因によって生起することを意味する。ものが原因・条件によって生じることであるから因果関係と理解すれば、原意に近い。(p52)
しかし因果関係というと、一般には、時間を異にして存在する二つのものの間にある生成の関係を意味する。ところが縁起はそのような因果関係に限らないで、われわれのことばでいう、同時的な相互作用や共存の関係、さらには同一性や相対性などの論理的関係をも含む。したがって、縁起とは因果関係というよりも、それは関係一般のことだというほうが比較的には正しいといってもよい。
説一切有部的な立場からすると、ほんらいは恒常的な本体である多くの実在要素が同時に共同して現象し、そこに現在一瞬しか持続しない経験的なものがあらわれることが縁起である。中観派は恒常的な本体が刹那滅的なものとして現象することを認めない。彼らの不満は基本的には説一切有部の哲学的立場に向けられていたのであろう。(p55)
中国の三論宗の伝統の影響にもよるのであろうが、われわれは時として、『中論』は縁起を説く書物である、とか、ナーガールジュナは、相対性を教えた、というようないい方を不用意にすることがある。けれどもこういういい方はかなり基本的な誤解につながることがあるので、注意しなければならない。彼がいったことは本体を固執する立場では因果関係も論理的関係もなりたたない、ということである。本体をもったものの間にある依存関係を否定して、関係一般というものは同一とか別異とかの本体をもたないものの間にしかなりたたない、というのである。(p57)
もとより、いったん否定された依存性がもう一度回復される場面がある。それをナーガールジュナはかなり詳しく説明している。けれどもその場合にも、その依存性は本体のない、空なる依存性としてのみ回復されるわけである。その特殊な縁起が非仏教者や小乗仏教の説く因果関係と異なった、大乗独自の縁起であり、『中論』の主題なので、というのである。(p58)

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

中観派の基本論理

中観哲学の性格
『中論』は27章よりなっている。大部分の章は他学派のある教義を主題に選んでこれを批判している。彼の批判の方法は、多種多様の主題に向けられているけれども、じつは比較的少数のタイプに還元しうるものである。そして、そのいくつかのタイプの批判の論理というものの結局は一つの基本的な論理に基礎づけられている。中観派の立場からすれば、およそいかなる学説も、いかなる命題も成立しえない
以下において、この思惟の類型の批判を、主として『中論』の中から選んだ主題を例にとりながら逐次紹介してゆく。しかし、これらの論理の基礎に横たわるものはナーガールジュナの本体の批判であり、また彼のことばの哲学である。(p59-60)

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

瞑想の深いレベルに達すると、言葉や論理を超越した世界に入るため、学説や命題は成り立たない。中観派の立場からすれば、どんな学説や命題も成立しないのは当然のことだ。

命題というのは、数学的には真か偽かが確定するものだが、文脈によってどちらにもなり得ることが一般の人には理解されていない。
例えば、「火は熱い」という命題は論理的には真だ。しかし、特定の文脈では「火は熱くない」とも言える。例えば、火の画像を見ているだけの状況では、「その火は熱くない」と言える。このように、言葉の解釈によって命題の真偽は変わる。
また、「世の中に不必要な人はいない」という命題を考えると、これは一見真のように思える。しかし、具体的な職場では、「この人がいなければもっと仕事が進むのに」と思うこともある。そうすると、この命題は偽となる。

別の例として、台風を考えよう。台風は一見災害を引き起こすだけの不必要なものに思える。しかし、台風が海水をかき混ぜることで海洋生態系に良い影響を与えることもある。このように、異なる視点から見ると「不必要なものはない」という命題も成り立つ。
結局、命題の真偽は立場や視点によって変わる。法律も同様で、文章の解釈次第で意味が変わるため、法解釈が非常に重要だ。解釈する者がどのように解釈するかによって、法律の適用が大きく変わることを理解することが重要だ。

徹底的に、厳密に言葉を定義するということになると、AIプログラムの世界のように限定されてしまう。しかし、人間はそのようなレベルだけで生きているわけではない。工学系の人や論理に強い人は、世界がロボットのように動いていると考えがちであり、最終的にはAIが全てを解決できると信じている。確かに、AIは過去のデータをもとに再現することが得意である。例えば、過去の楽曲データを集め、それを組み合わせて新しい音楽を作成することは可能である。しかし、それはあくまで同じ次元のものに過ぎない。
人間が創り出す芸術や、熟練の職人が自動車にスプレーを吹きかけて塗装する技術をAIが完全に再現することは可能かもしれない。しかし、それを超えることはできない。人間は創造性を持ち、それが上から降りてくるものである。論理的な思考に偏りすぎる人は、全てがAIでできるようになり、それで終わりだと信じている。まるで人間もAIのようになれると思っているかのようである。しかし、それはありえないことである。

中観派の「いかなる学説も命題も成立しない」という主張はその通りだ。ただし、すべての学説や学派をただ論破し、矛盾を指摘するだけでは揚げ足取りに過ぎない。重要なのは、彼らの意図を汲み取り、それを整然と解釈して役立つものにすることだ。それを上手に活用するのが本質ではないだろうか。


本体と現象
本体が多くの原因や条件によって生ずるということはできない。原因や条件から生じた本体は作られたものとなってしまおう。(一五・一)
けれども本体がどうして作られたものであろうか。というのは、本体とは他のものに依存せず、作られることのないものであるから。(一五・二)
アビダルマ哲学の考え方では、ものの本体は過去・現在・未来にわたって恒常的に存在する不変の実体である。その本体が現在という時点において作用をもつにいたったのが現象の位である。火の本体は過去にも未来にも変わらずに存在する。その本体が燃える作用をもって現象しているのが現在である。(p60-61)
われわれの知覚に与えられているものは燃えている火という存在だけである。ところが有部やヴァイシェーシカ学派などの実体論的な思惟方法によると、この燃えている火という一つの存在は、本体と現象という二つの概念に分けられてしまう。そして最高の真実としての存在性は恒常的な本体に与えられ、燃えている火はたかだか現象としての、第二次的な存在性を与えられるだけである。(p61-62)
『順正理論』(巻五二)の中で、ある他学派が説一切有部のこういう考え方に対して質問をしている。いったい過去と未来の火の本体というのは燃えるものなのか燃えないものなのか。もし燃えるならばそれは現在の火と区別がなくなるし、もし燃えないならばそもそも火の本体をもたないといわねばならないではないか、と。有部のサンガバドラは答える。過去・未来の火は本体はあるけれども作用をもっていない。本体とは知られるもの(所知法)ということである。知られるという点でそれが存在だといわれるのであって、作用をもっているからではない、と。サンガバドラの定義では、存在とは、対象となって認識を生ずるもの、である。この定義の限りでは、燃えていなくても、眼には見えなくても、火という知識の対象となるものは火という存在、火の本体である。
ナーガールジュナが批判するのは、このように一つの事実を二つの概念によって理解する考え方、人間一般の概念的思惟のあり方である。火の現象・作用は多くの原因によって生じた複合的なものであり、刻々に変化し、やがて滅する流動的なものである。それと対立したものとして設定される火の本体は、他のものに依存せず、変化せず、単一であり、過去・現在・未来の三時にわたって恒存するものとなる。そのように考えられた火の本体は燃える作用という火の特性と矛盾する。それは燃えない火であり、事実として存在しない火であるからである。

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

ナーガールジュナが批判するのは、ひとつの事実を異なる二つの概念で理解する考え方や、人間の一般的な概念的な認識の仕方だ。
「それと対立するものとして設定される火の本体は、他のものに依存せず、変化せず、単一であり、過去・現在・未来の三時にわたって恒存するものとなる。」
ナーガールジュナは自立自存、依存せず、変化せず、そして単一という考え方を持っている。本体は過去・現在・未来にわたって恒存するものとされる。つまり、これら三つ「依存せず、変化せず、単一」が本体だと考えているわけだ。
「そのように考えられた火の本体は、燃える作用という火の特性と矛盾する。それは燃えない火であり、事実として存在しない火であるからだ。」
これは学問的に考え出された反論であり、説一切有部の人々は、ナーガールジュナのように頭で考え出したのではなく、実際に見ている。そもそも見ている次元が違う。考え出された火ではなく、本当に存在して体験して見ている火なのだ。現象の背後に本当に存在している火なので、ナーガールジュナの論は反論になっていないのである。

幽体には目があり、ちゃんと髪もあり、服も着ている。もちろん裸になることもあるが、基本的には服を着ている。それが単一かどうかというと、ある意味では確かに単一と言える。なぜかというと、幽体は絶対に分離できないから。
幽体には目も鼻もあり、それぞれが独立した機能を持っているが、取り外すことはできない。人間のボディの場合、(手術などで)体の一部を取り外すことができるが、幽体はそれができない。一つの塊なのだ。
幽体はどんなに引っ張っても伸びるだけで、ガムのように伸びるが外せない。だからこそ単一だと言える。しかし、目は目の機能、耳は耳の機能として分化している。ブッディーと呼ばれる部分とマナスと呼ばれる部分があり、機能としては分化しているが、絶対に分離することはできない。だから単一だと言いつつも、たくさんの部分が存在している。
物理的な世界では、車の部品が悪くなったら交換できる。しかし、幽体はそれができない。全体が一つの塊であり、どれも外せない。だから単一と言えるのだが、同時に多様でもある。耳は耳、鼻は鼻として別々の機能を持っている。だから、単一と言えば単一だが、単一ではないとも言える。一即多なのだ。

[竹下雅敏]

もし本性として存在することがあるならば、それが非存在となることはないであろう。本性が変化することはけっしてありえないからである。(一五・八)
もし本体というものに第一義的な存在性を与えると、ものの変化というものが説明できなくなる。それでは、なによりも無常を特徴としている事実の世界は無視されてしまう。けれども、ナーガールジュナはなぜ説一切有部が、というよりも人間の思惟一般というものが、事実の背後に本体を想定せざるを得ないかをよく理解している。変化する火という事実をわれわれが概念的に理解しようとするときには、それを変化しない本体に比較しなければならない。変化性は自己同一性に対比されてはじめて意味をもってくるからである。(p62)

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

原因と結果

原因と結果の否定
ものは、いかなるものでも、どこにあっても、けっして自身から、他のものから、自他の二つから、また原因なくして生じたものではない。(一・一)
ものが自身から生ずる、というのは、たとえば壺がその壺自身から生ずること、いいかえれば、原因と結果とがまったく同一である場合をさしている。他のものから生ずる、というのは結果がそれと別々なものから生ずること、たとえば壺は粘土から生ずるが、その粘土は壺にとって他者であると考える場合である。
原因が結果の自体であり、結果と同一であるならば、壺はその壺自身から生ずるという不合理になる。またその同一性が生起という作用の本質ならば、壺はつねに、無限にそれ自身から生じつづけることになってしまう。けれど原因が結果と別異なものでならば、別異とは無関係ということであるから、壺は糸からも生ずることができるはずである。糸も粘土も壺に対して他者である点では等しいからである。(p64-65)

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

別異と同一性

この文章には、いくつかの詭弁が含まれており、論理的に矛盾している点を指摘する。
まず、「ものが自身から生ずる」という主張について考えてみる。この文章では壺がその壺自身から生ずることを例に挙げているが、これは本体同一性の理解に誤解を招くものだ。具体的には、フィロソーマからプエルルスを経て伊勢海老になる過程を考えてみるとよい。この変態過程では、フィロソーマがそのまま伊勢海老になるわけではなく、複数の段階を経て成長する。つまり、原因(フィロソーマ)と結果(伊勢海老)は同一ではないが、連続的な変化を通じて結果に至る。したがって、「原因と結果が同一である」という主張は自然界の変態過程においても成立しない。
次に、「他のものから生ずる」という主張についてだが、壺が粘土から生ずることを原因が結果にとって他者であると考えているが、この考え方も不完全だ。例えば、壺は糸からでも創れるという事実を考えてみよう。現代の織りの技術では、糸を使って気球を作り、水も漏らさないようにする技術も存在する。したがって、壺が粘土からのみ生じると限定することは不合理だ。原因が結果に対して他者であっても、適切な技術や工夫により、結果を生じることは可能である。以上の反論から、元の文章の主張は詭弁に過ぎず、論理的な矛盾を含んでいることが明らかだ。原因と結果の関係性を一面的に捉えることは誤りであり、より広範な視点で物事を理解する必要がある。


ヴァイシェーシカ学派は原因が集まったときにそこに存在しなかった結果をまったくあらたに作り出すと考えている。だから粘土は壺にとって、糸は布にとって他者である。けれどもこの学派も結果がまったく無関係な他者から生ずるといいはしない。かえって結果を生ぜしめる可能性、潜在効力をもった他者から生ずるというのである。 してみると、それらは第三の原因である「自他の二」に一致するというたほうがよい。
「中論」の……に対する注釈者は、「自他の二」という第三の原因は、第一の自因、第二の他因、のもっていた離点を二つとも備えることになるからなりたたない、というのが常である。(p65-66)
多くの原因・条件の集合の中になかったものが結果として生じてくる、というば、それは「原因なくして生ずる」という第四の場合と等しくなる。原因なくして生ずる、ということは、自でもなく他でもないようなものから生ずる、と解されるが、それは非存在から生ずることと同じである。ものが非存在から、または偶然に生ずるということは、因果関係の合理的な解釈としては問題にならない。

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

ヴァイシェーシカ学派では、原因が集まることで結果が生じると説いている。ただし、どんな原因でもよいわけではなく、結果を生み出す可能性を持つ原因が必要だ。例えば、粘土が壺を作り、糸が布を作るのは、それぞれがその力を持っているからである。この考えは「自他の二」と呼ばれる第三の原因に関連する。「自他の二」とは、第一の自因(自分自身の原因)と第二の他因(他の原因)を合わせたものを指す。つまり、「自分の力」と「他の力」が結びついて結果を生むという考えだ。しかし、「自他の二」には問題があると指摘する者もいる。その理由は、第一の自因と第二の他因がそれぞれ異なる特徴を持つため、二つを合わせると矛盾や問題が生じることがあるからだ。


アレクサンダー・ヴィレンケン(Alexander Vilenkin)の「量子トンネル効果による無からの宇宙の生成」という理論に基づいて反論する。

  1. 無からの宇宙の生成: ヴィレンケンは、宇宙が量子的トンネル効果によって「無」から生成されたと提唱している。この理論によれば、何もない状態(「無」)から宇宙が生じることが可能だ。これにより、「原因なくして生ずる」という考えが物理的に支持されることになる。

  2. 量子的トンネル効果: 量子的トンネル効果は、通常の物理法則では通過できない障壁を、量子力学的には通過できる現象だ。この現象は微視的な世界で観察されており、原因が明確に存在しない場合でも結果が生じることを示している。

  3. 因果関係の再定義: ヴィレンケンの理論は、因果関係を再定義する必要性を示唆している。従来の因果関係の概念では、すべての結果には必ず明確な原因が必要とされるが、量子力学の観点からは、結果が偶然に生じることも可能だ。

このように、ヴィレンケンの説を用いることで、原因が明確でない場合でも結果が生じることがあり得ると反論することができる。これにより、「原因なくして生ずる」という考えが因果関係の合理的な解釈として問題があるという主張に異議を唱えることができる。


原因と結果とが同一であることはけっしてありえない。また原因と結果とが別異であることもけっしてありえない。(二〇・一九)
原因と結果とが同一であるときには生ぜしめるものと生ぜしめられるものとが同じになってしまうであろう。けれど原因と結果が別異であるならば、原因は原因でないものと同じになろう。(二〇・二〇)
ここでナーガールジュナは因果という主題を経験的な立場で考えるのではなくて、本質的な立場で考える。原因・結果というものを本体としての存在と仮定すると、それは単一、独立、恒常的な本性であることになる。そうすると原因と結果との関係は同一であるか、別異であるかという二つの選択肢しかありえない。
原因は結果と同一の本体か、結果と異なった本体かのいずれかしかもちえないが、そのいずれの場合も因果関係を説明できない。原因が同一と別異の複数の本体をもつことは不可能である。それは本体は単一であるという前提にそむくうえに、本質の世界において矛盾した二性質の同一物における共存を許す誤りになるからである。このように吟味して、ナーガールジュナは、原因にせよ、結果にせよ、それは本体の空なものである。もしそれが本体をもつならば、原因としても、結果としてもなりたたないし、それらの間の因果関係も成立しない、というのである。(p67-68)

ナーガールジュナは原因と結果が同一であるか別異であるかの二択を提示し、そのどちらも矛盾するとしている。しかし、この二択が唯一の選択肢であるとは限らない。例えば、原因と結果が時間的に異なるが関連性を持つ存在であると考えることができる。つまり、原因があるからこそ結果が生じるという関係性を持っていると考えれば、原因と結果は独立して存在しつつも、その間に明確な因果関係が成立する。

具体的な例として、種(原因)が土に植えられると芽(結果)が出るという現象を考える。種と芽は異なるものであり、同一ではないが、種が原因となって芽が出るという因果関係は明確である。この場合、種と芽は別異であるが、因果関係を説明することができる。
また、現代の科学においても、因果関係は実験や観察によって検証される。例えば、薬が病気を治すという因果関係は多くの実験によって証明されている。薬(原因)を服用すると病気が治る(結果)という現象は、原因と結果が独立して存在しつつ、その間に明確な因果関係があることを示している。
このように、原因と結果が独立しつつも関連性を持つ存在として捉えることで、ナーガールジュナの主張に反論することができる。因果関係は経験的な観察と科学的な検証によって説明可能であり、その存在を否定することはできない。


去ることと来ることとの考察

行くものは行かず

「中論」第二章の議論は純世俗的ともいえる議論である。
この章では「行く」という極めて平凡な動作がとりあげられている。ナーガールジュナは「行く」という動作はないと主張する。かれは、このことを主張するにあたり、動作の存在を過去、現在、未来の三時にわたって検討する。過去に「行く」という動作はない。過去の動作はすでにおわっているから。未来に「行く」という動作はない。未来の動作はまだおきていないから。ここまではだれもが納得するだろう。しかし、ナーガールジュナは、現在にも「行く」という動作はない、とつづける。(p100)
なぜ「行くものは行かない」のか
一般人の考えは「行くものは行く」である。ナーガールジュナはこれを否定する。
行くものが行くということが
どうしてありえよう
行くことなしには
行くものはありえないのだから。(第九偈)
一見わかりにくいこの言葉の意味は、つぎのとおりである。
「行くものは行く」という考えには、「行くもの」と「行く」とは二つの独立した事象であるという前提が含まれている。
したがって、「行くもの」はそれ自体のうちにすでに「行く」を含んでおり、あらためて「行く」と結びつけられる必要がない。「行く」ことをしない「行くもの」など、そもそもありえないのだから。
だから「行くものは行く」という立言には、「行く」が二重に存在するという矛盾が生じる。このことはつぎの偈にのべられている。
もし行くものが行くというならば
二つの「行く」が存在する結果になる。(第十偈)
第一は「行くもの」と呼ばれうるゆえんの「行く」であり、第二は「行くもの」がおこなう運動としての「行く」である。
そしてまた二つの「行く」があるならば、二つの「行くもの」が存在するというおかしな結論が生じるだろう。なぜなら、「行くもの」なしに「行く」ことだけがあることは不可能だから。このことは第六偈にいわれている。
二つの「行く」があるならば
二つの「行くもの」が存在する結果になる。
なぜなら、「行くもの」なしに
「行く」ことはありえないからである。(第六偈)(p103-104)
現象は常に全一なもの
これは言語の本質をするどく洞察した議論である。あらゆる現象は、それ自体分割できない全一なものである。しかし、それを言語で表現しようとすると、われわれはまずそれを主体と動作に分割し、あらためてそれを結合するという手続きをとらねばならない。その結果、「行くもの」(主語)が「行く」(述語)という言表が成立する。
伝達というものは、すべてこのような性質をもつものらしい。われわれは映像を電送するとき、映像をいったん分解して無数の濃淡の信号に変え、信号を順次に送りだす。受信側は信号を受けとって組み立て、もとの映像を復元する。このことは現代人ならだれでも知っている。しかし、かれらはその知識を言葉に適用することを思いつかない。ナーガールジュナはだれもが気づかないこの事実に言及したのであった。(p105)

「空と無我:仏教の言語観 」定方晟/講談社現代新書

あらゆる現象は本来一つのものであるが、言語で表現するには主体と動作に分ける必要がある。例えば、映像を送信する際、一旦分解して信号に変え、受信側で再び組み立てるように、言葉も同様の手続きを経て伝達される。ナーガールジュナはこの過程を言葉に適用して考えた。

「太郎」はけっして存在しない
われわれの言語生活は、つぎのような表現から成り立っている。
太郎は行く。
太郎はころぶ。
太郎は笑う。
太郎は泣く。
...................
われわれは右の数々の表現のなかから、「太郎」という不変の存在を抽出してくる。太郎はつねに、行く太郎か、ころぶ太郎か、笑う太郎か、泣く太郎か、......する太郎か、いずれかの太郎であるはずなのに、どの動作とも無関係の「太郎」を抽出してくる。そのような抽象的な「太郎」はけっして存在しない。
それにもかかわらず、われわれはあたかもそのような「太郎」が存在するかのことくに思いこんでいる。
また次のような一連の表現を考えてみよう。
太郎は行く。
花子は行く。
犬が行く。
電車が行く。
...................
われわれは右の数々の表現のなかから「行く」という普通的な動作を抽出してくる。「行く」という動作そのものは決してない。つねに何ものかが行くのである。それにもかかわらず、われわれは黙黙のうちに「行く」という動作それ自体が存在するかのように思いこんでいる。(p106-108)
そして、日常の現象をこう解釈している。種々の実体があって、各実体は任意に個々の動作を選択すると。一群の実体と一群の動作とがたがいに独立に存在し、任意の実体が任意の動作と随時くみあわされる、と。こうして、「AがBする」という日常的言説を通じて、実体の概念がわれわれの頭に深くしみつくのである。
「太郎は行く」において「行く太郎」以外に「太郎」はない。それなのに、ひとは「行く」と無関係の「太郎」をまず指定して、つぎに「太郎は行く」とのべる。これこそ言葉のすりかえというべきである、と。
これまで仏教は、ものに実体性がないことをひとに理解させるのに、かずかずの言葉――空、縁起、中、無自性――を用いてきたが、ナーガールジュナの言語批判はそれらのどれにもましてそのことに成功したようにみえる。そして、無我を悟るには心を探求するよりも言語を探求するほうが効果的であることも、かれの言語批判は教えてくれる。かれは言葉を一種の虚構とみたが、そのことを説明するためにかれが頼るのは飽くまでも言葉である。かれは言葉でみちびけるところまで人をみちびく。そして、どの方角に真理があるかを指し示す。かれは言葉の限界を知る合理主義者、すなわち、徹底した合理主義者である。(p108-109)

「空と無我:仏教の言語観 」定方晟/講談社現代新書

参考文献


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青樹謙慈(アオキケンヂ)
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