最高の真実
永遠の本体(自性・スワバーヴァ)=幽体
中観派の基本論理
瞑想の深いレベルに達すると、言葉や論理を超越した世界に入るため、学説や命題は成り立たない。中観派の立場からすれば、どんな学説や命題も成立しないのは当然のことだ。
命題というのは、数学的には真か偽かが確定するものだが、文脈によってどちらにもなり得ることが一般の人には理解されていない。
例えば、「火は熱い」という命題は論理的には真だ。しかし、特定の文脈では「火は熱くない」とも言える。例えば、火の画像を見ているだけの状況では、「その火は熱くない」と言える。このように、言葉の解釈によって命題の真偽は変わる。
また、「世の中に不必要な人はいない」という命題を考えると、これは一見真のように思える。しかし、具体的な職場では、「この人がいなければもっと仕事が進むのに」と思うこともある。そうすると、この命題は偽となる。
別の例として、台風を考えよう。台風は一見災害を引き起こすだけの不必要なものに思える。しかし、台風が海水をかき混ぜることで海洋生態系に良い影響を与えることもある。このように、異なる視点から見ると「不必要なものはない」という命題も成り立つ。
結局、命題の真偽は立場や視点によって変わる。法律も同様で、文章の解釈次第で意味が変わるため、法解釈が非常に重要だ。解釈する者がどのように解釈するかによって、法律の適用が大きく変わることを理解することが重要だ。
徹底的に、厳密に言葉を定義するということになると、AIプログラムの世界のように限定されてしまう。しかし、人間はそのようなレベルだけで生きているわけではない。工学系の人や論理に強い人は、世界がロボットのように動いていると考えがちであり、最終的にはAIが全てを解決できると信じている。確かに、AIは過去のデータをもとに再現することが得意である。例えば、過去の楽曲データを集め、それを組み合わせて新しい音楽を作成することは可能である。しかし、それはあくまで同じ次元のものに過ぎない。
人間が創り出す芸術や、熟練の職人が自動車にスプレーを吹きかけて塗装する技術をAIが完全に再現することは可能かもしれない。しかし、それを超えることはできない。人間は創造性を持ち、それが上から降りてくるものである。論理的な思考に偏りすぎる人は、全てがAIでできるようになり、それで終わりだと信じている。まるで人間もAIのようになれると思っているかのようである。しかし、それはありえないことである。
中観派の「いかなる学説も命題も成立しない」という主張はその通りだ。ただし、すべての学説や学派をただ論破し、矛盾を指摘するだけでは揚げ足取りに過ぎない。重要なのは、彼らの意図を汲み取り、それを整然と解釈して役立つものにすることだ。それを上手に活用するのが本質ではないだろうか。
ナーガールジュナが批判するのは、ひとつの事実を異なる二つの概念で理解する考え方や、人間の一般的な概念的な認識の仕方だ。
「それと対立するものとして設定される火の本体は、他のものに依存せず、変化せず、単一であり、過去・現在・未来の三時にわたって恒存するものとなる。」
ナーガールジュナは自立自存、依存せず、変化せず、そして単一という考え方を持っている。本体は過去・現在・未来にわたって恒存するものとされる。つまり、これら三つ「依存せず、変化せず、単一」が本体だと考えているわけだ。
「そのように考えられた火の本体は、燃える作用という火の特性と矛盾する。それは燃えない火であり、事実として存在しない火であるからだ。」
これは学問的に考え出された反論であり、説一切有部の人々は、ナーガールジュナのように頭で考え出したのではなく、実際に見ている。そもそも見ている次元が違う。考え出された火ではなく、本当に存在して体験して見ている火なのだ。現象の背後に本当に存在している火なので、ナーガールジュナの論は反論になっていないのである。
原因と結果
別異と同一性
この文章には、いくつかの詭弁が含まれており、論理的に矛盾している点を指摘する。
まず、「ものが自身から生ずる」という主張について考えてみる。この文章では壺がその壺自身から生ずることを例に挙げているが、これは本体同一性の理解に誤解を招くものだ。具体的には、フィロソーマからプエルルスを経て伊勢海老になる過程を考えてみるとよい。この変態過程では、フィロソーマがそのまま伊勢海老になるわけではなく、複数の段階を経て成長する。つまり、原因(フィロソーマ)と結果(伊勢海老)は同一ではないが、連続的な変化を通じて結果に至る。したがって、「原因と結果が同一である」という主張は自然界の変態過程においても成立しない。
次に、「他のものから生ずる」という主張についてだが、壺が粘土から生ずることを原因が結果にとって他者であると考えているが、この考え方も不完全だ。例えば、壺は糸からでも創れるという事実を考えてみよう。現代の織りの技術では、糸を使って気球を作り、水も漏らさないようにする技術も存在する。したがって、壺が粘土からのみ生じると限定することは不合理だ。原因が結果に対して他者であっても、適切な技術や工夫により、結果を生じることは可能である。以上の反論から、元の文章の主張は詭弁に過ぎず、論理的な矛盾を含んでいることが明らかだ。原因と結果の関係性を一面的に捉えることは誤りであり、より広範な視点で物事を理解する必要がある。
ヴァイシェーシカ学派では、原因が集まることで結果が生じると説いている。ただし、どんな原因でもよいわけではなく、結果を生み出す可能性を持つ原因が必要だ。例えば、粘土が壺を作り、糸が布を作るのは、それぞれがその力を持っているからである。この考えは「自他の二」と呼ばれる第三の原因に関連する。「自他の二」とは、第一の自因(自分自身の原因)と第二の他因(他の原因)を合わせたものを指す。つまり、「自分の力」と「他の力」が結びついて結果を生むという考えだ。しかし、「自他の二」には問題があると指摘する者もいる。その理由は、第一の自因と第二の他因がそれぞれ異なる特徴を持つため、二つを合わせると矛盾や問題が生じることがあるからだ。
アレクサンダー・ヴィレンケン(Alexander Vilenkin)の「量子トンネル効果による無からの宇宙の生成」という理論に基づいて反論する。
無からの宇宙の生成: ヴィレンケンは、宇宙が量子的トンネル効果によって「無」から生成されたと提唱している。この理論によれば、何もない状態(「無」)から宇宙が生じることが可能だ。これにより、「原因なくして生ずる」という考えが物理的に支持されることになる。
量子的トンネル効果: 量子的トンネル効果は、通常の物理法則では通過できない障壁を、量子力学的には通過できる現象だ。この現象は微視的な世界で観察されており、原因が明確に存在しない場合でも結果が生じることを示している。
因果関係の再定義: ヴィレンケンの理論は、因果関係を再定義する必要性を示唆している。従来の因果関係の概念では、すべての結果には必ず明確な原因が必要とされるが、量子力学の観点からは、結果が偶然に生じることも可能だ。
このように、ヴィレンケンの説を用いることで、原因が明確でない場合でも結果が生じることがあり得ると反論することができる。これにより、「原因なくして生ずる」という考えが因果関係の合理的な解釈として問題があるという主張に異議を唱えることができる。
ナーガールジュナは原因と結果が同一であるか別異であるかの二択を提示し、そのどちらも矛盾するとしている。しかし、この二択が唯一の選択肢であるとは限らない。例えば、原因と結果が時間的に異なるが関連性を持つ存在であると考えることができる。つまり、原因があるからこそ結果が生じるという関係性を持っていると考えれば、原因と結果は独立して存在しつつも、その間に明確な因果関係が成立する。
具体的な例として、種(原因)が土に植えられると芽(結果)が出るという現象を考える。種と芽は異なるものであり、同一ではないが、種が原因となって芽が出るという因果関係は明確である。この場合、種と芽は別異であるが、因果関係を説明することができる。
また、現代の科学においても、因果関係は実験や観察によって検証される。例えば、薬が病気を治すという因果関係は多くの実験によって証明されている。薬(原因)を服用すると病気が治る(結果)という現象は、原因と結果が独立して存在しつつ、その間に明確な因果関係があることを示している。
このように、原因と結果が独立しつつも関連性を持つ存在として捉えることで、ナーガールジュナの主張に反論することができる。因果関係は経験的な観察と科学的な検証によって説明可能であり、その存在を否定することはできない。
去ることと来ることとの考察
行くものは行かず
あらゆる現象は本来一つのものであるが、言語で表現するには主体と動作に分ける必要がある。例えば、映像を送信する際、一旦分解して信号に変え、受信側で再び組み立てるように、言葉も同様の手続きを経て伝達される。ナーガールジュナはこの過程を言葉に適用して考えた。
参考文献
仏教の基礎知識シリーズ一覧
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