サーンキヤ学派の諸原理
八識とサーンキヤ哲学諸原理対応
チッタ(Citta)⇒アラヤ識(阿頼耶識)
チッタはサンスクリット語で「心」を意味する言葉で、非常に広い意味を持つ。仏教やヨーガでは、心の活動全般を指す。この「チッタ」が仏教の阿頼耶識(あらやしき)に対応するという考え方がある。阿頼耶識は、八識説における最も根本的な意識で、過去の経験や業(カルマ)を蓄える倉庫のようなものであり、すべての意識の根源とされる。
アハンカーラ(Ahaṃkāra)⇒末那識(まなしき)
我執:アハンカーラは、サンスクリット語で「自己意識」や「エゴ」を意味する。自分を「私」と認識する感覚を指し、自己同一性を形成する。このアハンカーラは、仏教の末那識に対応する。末那識は、自己意識としての働きを持ち、自我への執着を生む。常に「自分」という観念を抱いている識(意識)で、根本的な無明(無知)から生じるとされる。
マナス(Manas)⇒意識(いしき)
マナスはサンスクリット語で「思考」や「意識」を意味し、心が思考したり判断したりする働きを指す。このマナスが仏教の意識に対応すると考えられる。意識(第六識)は、外界の情報を受け取り、分析し、判断する心の機能で、私たちが日常的に使う「考える力」に相当する。
五知覚器官(Pañca Jñānendriya)⇒前五識(ぜんごしき)
五知覚器官は、インド哲学で視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの感覚器官を指す。これが仏教の前五識に対応する。前五識とは、眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)の五つの感覚的な意識のことを指し、それぞれが感覚器官に対応している。これらの識は、外界の情報を感覚的に捉える役割を持つ。
唯識論の根本的間違い
唯識論(アラヤ識を中心とした仏教の思想)では、すべてのものはアラヤ識から生み出されるとされる。アラヤ識は、心の深層にある無意識的な層であり、外界の物質的なものや自然界のものも、最終的にはこのアラヤ識から生じていると考える。このような考え方において、仏教は無常(すべてのものが常に変化し続け、恒常的な実体が存在しないこと)を強調する。これにより、仏教では「刹那滅」という考え方が重要となる。刹那滅とは、すべての現象が一瞬一瞬に生起しては消滅するものであり、永続する実体ではないという考え方だ。
一方、サーンキヤ哲学は「自性」という不滅の存在を前提とし、それが質的に変わらないまま展開していくという観点を持っている。しかし、仏教ではこのような不滅の実体を認めず、常に変化し続けることを強調する。そのため、仏教徒は恒常的な実体を認めず、あらゆるものが刹那滅するものであると主張する。
ただし、霊的な世界については、現象世界とは異なる見解が存在する。現象世界は刹那滅であるが、霊的世界はそうではないと考える人もいる。そのため、「唯識論が刹那滅の論理に誤りがある」と批判する立場も存在する。しかし、唯識論におけるアラヤ識は実体ではなく、瞬間的に生じては消えるものであり、この論理は仏教の無常観に基づいている。
仏教は、無我や無自性といった概念を無理に押し進めるあまり、
誤りを次々と重ねてしまったのではないだろうか。
その結果、理論の展開において何度も同じ過ちを繰り返し、
道を踏み外してしまったとも言える。(竹下雅敏)
唯識論の成立過程
唯識論・唯心論・唯我論
唯心論と唯識論はどちらも心や意識を重視する考え方だが、その意味合いや哲学的背景には重要な違いがある。
唯心論は、西洋哲学において発展した概念で、現実の根本的な実在を物質ではなく心や意識に求める立場を指す。物質的な世界は心の産物に過ぎず、心や意識が現実を構成するという考え方が中心にある。ジョージ・バークリーのような哲学者が提唱した主観的唯心論では、「存在するとは知覚されること」であり、物質的な実体の存在は否定される。
一方、唯識論は、仏教特に大乗仏教の瑜伽行唯識派で展開された思想で、「すべての現象は識すなわち心の働きに他ならない」とする立場を取る。唯識論では、私たちが経験する現象や世界はすべて心の識によって構成され、外界の独立した実在を否定するが、その背景には、心がもたらす錯覚や執着を乗り越えて真理に至ることを目指す宗教的・修行的な意図がある。
要するに、唯心論は心を実在の基盤とみなし、哲学的に物質の存在を否定することに重点を置くのに対し、唯識論は心の働きを解明し、それによって悟りに至る道を示すことを目的とした仏教的な教えである。このため、唯識論は宗教的・実践的な側面が強く、唯心論は純粋に哲学的な探究に根ざしている点が異なる。
唯我論は、哲学において極端な形の主観主義であり、自己の意識や経験だけが唯一確実なものだとする立場。唯我論を採ると、自分自身の心や意識だけが存在することを確実に知覚でき、それ以外の他者の存在や外界の現実は、自己の意識の中にしか存在しない可能性があると考える。
例えば、自分が見たり感じたりする物や人々は、実際には自分の意識が作り出したものに過ぎず、他の人々が本当に存在しているかどうかは確かめようがない、とする考え方である。このため、唯我論は他者の存在や外部の現実を確信することを否定し、最終的には「私だけが存在する」という結論に至る。
唯我論は哲学的に非常に極端であり、多くの哲学者はこの立場を避けるか、批判している。なぜなら、もし唯我論が正しいとすれば、他者とのコミュニケーションや外界の理解がすべて無意味になってしまうからである。このため、唯我論はしばしば思考実験や批判的な議論の中で扱われるが、実際に採用されることは少ない。
五位説
善悪の種子
唯識の八識説
輪廻の主体
阿頼耶識縁起
唯識派の哲学的な立場は、認識論と存在論に深く関わっている。
まず、唯識派は「存在とは何か」という問題に対して、外界が独立して存在するという考え方を否定する。通常、私たちは外の世界が存在し、それを私たちの意識が認識していると考える。しかし、唯識派では、外界が実在するという仮定自体が不要だと主張する。外界が存在するかどうかに関わらず、私たちが経験しているものはすべて心の中で作り出された「表象」に過ぎないと考えるからだ。
次に、唯識派の認識論的な立場では、認識のプロセスが重要視される。唯識派によれば、意識は瞬間ごとに消滅し、その瞬間の意識が次の瞬間の意識を生み出す。これが連続的に続くことで、私たちは絶えず世界を認識し続けている。この意識の連続性の中で、過去の経験や記憶が蓄積され、それが「種子」となって新たな認識を生み出すとされる。このように、認識とは過去の意識の蓄積が表象として顕在化したものであり、それが私たちが知覚する世界だというのが唯識派の主張だ。
つまり、唯識派においては、世界の存在や認識はすべて主観的な意識の中に閉じ込められている。外界の独立した存在を否定し、すべてを意識の表象に還元することで、彼らは存在の本質を心の働きそのものに見出そうとする。これが唯識派の哲学的な立場だ。
自己の存在証明は不可能
自己の存在について考察する際、最も厄介なのは、その存在を証明することが本質的に不可能であるという点だ。「私」という概念は直感に属するものであり、論理によって証明することができない。論理的証明は、前提として絶対的に自明なものを仮定し、その仮定の上に演繹的に組み立てられるものである。しかし、「自己の存在」は、そのような仮定を必要としない、直感的に認識されるものであるがゆえに、論理の枠組みでは捉えきれない。
哲学的に考察すれば、絶対的に自明なものとは何か、それは「私の存在」である。これは他のいかなる前提を必要とせず、自らが自明であると感じられるものであり、哲学的思索の出発点として位置づけられる。しかし、唯識論においては「自己」は虚構とされ、その代わりに「識」や「心」が絶対的な基盤として仮定される。「私」という存在は虚構であり、ただ「識」のみが究極的実在として存在するとされる。
この観点から、唯識論は「識」や「心」が世界や自然を構築していると主張するが、その論理を突き詰めると、世界は「私」のアラヤ識によって構築されていることになる。唯識論は「私」という存在を否定するが、アラヤ識が存在する以上、そのアラヤ識が世界のすべてを作り出していると考えるならば、「私」が唯一の実在であるという独我論や唯心論と類似した結論に至る。
アラヤ識が究極的な実在として世界を創造しているのか、それとも「自性」が意識や物質を含むすべてを生み出しているのかは、言葉の違いに過ぎないとも言える。したがって、哲学的な説明としては、よりわかりやすい概念を採用する方が有効である可能性がある。例えば、「アラヤ識」ではなく「自性」がすべてを創造していると説明する方が、より明瞭で説明しやすいという視点も提起される。
末那識
四分説:四種の心的領域
因縁変と分別変
種子はコーザル体にある
三性説
三性とは、妄想された存在形態(逼計所執性)、他に依 存する存在形態(依他起性)、完全に成就された存在形態(円成実性) と名付けられる世界の三種のあり方を指す唯識思想の根本真実である。
有形象唯識論・無形象唯識論
無形象唯識論では、アラヤ識が最終的には否定され、最高の実在(光り輝く心)が個体に現れ、見る者と見られる者が分かたれることなく、絶対知に到達すると説いている。
一方、有形象唯識論は、アラヤ識を実在する識体と見なし、その識体が変化して、見る者と見られる者が生じると主張する。この説によれば、たとえ絶対知に達したとしても、アラヤ識そのものが否定されるわけではなく、アラヤ識内に潜んでいる煩悩の力が根絶されるだけである。したがって、悟りを得た後でも見る者と見られる者は存在し続ける。
このような思想の流れを、後に「有形象唯識論」と名付けた。それに対して、アラヤ識を否定することで、最高実在が二元性を離れて絶対知として輝くことを強調する唯識説が「無形象唯識論」と呼ばれるようになり、最終的には中観派および中観学説と結びついていくことになる。
三分説
形象虚偽派と形象真実派
三性と三無自性の対応
三性
遍計所執性(妄想されたもの)
依他起性(他によるもの)
円成実性(完成されたもの)
三無自性
相無自性(表象された相自体をもたない)
生無自性(自体が生起するものではない)
勝義無自性(言葉や表象を超越する)
三身説と仏の四智
法身 - 自性身(常住)……コーザル体
受用身 - 報身……幽体
変化身 - 応身・化身・応化身……肉体
中辺分別論
中辺分別論の作者は、マイトレーヤ菩薩。彼は霊的な存在であるため、霊能力を持つアサンガ菩薩が、マイトレーヤの教えを伝える役割を果たす。
次に、ヴァスバンドゥ(世親)というが、マイトレーヤの教えを解釈し注釈を加える役割を果たす。マイトレーヤは「無形象唯識派」に属し、ヴァスバンドゥは「有形象唯識派」に属するため、同じ教えであっても解釈が異なる。
ある駐車場を考えてみよう。その駐車場に車が一台も停まっていないとき、その駐車場は「車がない」という意味で「空」と見なされる。しかし、その「空」であるという状態を観察しても、駐車場そのものが消えるわけではない。駐車場は依然として存在し、車を停めるスペースがそこにある。
この状況を通じて、「あるものが特定の場所に存在しないとき、その場所はその『あるもの』に対して『空』である」と認識できる。しかし、「空」であると認識されたとしても、その場所自体、つまり駐車場という存在が消えるわけではない。駐車場という実在そのものは依然としてそこにあり、その存在が否定されることはない。
これが「空」の本質を示すものであり、あるものが欠けている状態を「空」として理解する一方で、その背後にある実在の存在を見極めることが「空性」の正しい理解となる。
空性
参考文献
仏教の基礎知識シリーズ一覧
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