般若心経01/大乗仏教【仏教の基礎知識15】
苦の根源(無明)
私たちは、この世界の外側の価値や地位を追い求め、それによって幸せになれると考えている。しかし、この外的な価値を追求している限り、どれだけ上に行こうが下に行こうが、一度その場所に身を置いたら、内情は同じだ。誰もが自分の置かれた状況の中で、苦しみと戦っているのだ。
そして、とにかく「上」へ上がり、それらの目標に到達さえすれば、幸せになれるのではないかという期待を捨てきれずに、私たちは自分の今までの生き方を続けている。しかし、その期待は常に裏切られるのだ。
ブッダは、私たちのこうした状態を「無明」(無意識の思い込み=無知=無自覚)と呼んだ。そして、それを「苦」の根源にあるものと見なした。
我々は、この世の外的な事柄、つまりお金や地位、名声などを追い求めることで幸福になれると思っている。しかし、このような外的な価値を追い求める限り、それが上であろうと下であろうと、一度その場所に到達すれば、内情は同じだ。誰もが自分の置かれた状況の中で苦しみと格闘している。
そして、何とかして上へ上って行き、それらの目標に到達すれば幸福になれるのではないかという期待を捨てきれずに、私たちは駆り立てられるように生き続けている。しかし、常にその期待は裏切られる。
ブッダは、このような私たちの状態を「無明」(無意識の思い込み=無知=無自覚)と呼んだ。そして、それが「苦」の根源にあるものと考えた。
般若の智慧
我々は完全に条件づけられた存在であり、自分でコントロールできない力が常に働いている。それらの力に振り回されながら生きている。
この状態を仏教では「空」と表現している。これは、自分だけの力で動いている独立した存在ではなく、他の力の影響を受けないものではないという意味だ。
仏教を深く掘り下げていくと、この「空」という一言に集約される。しかし、この「空」という言葉の意味を頭で理解したり覚えたりしても、それだけでは生き方に変化は起きない。深く理解すると、生き方がどうしても変わってくる。それが「空」なのだ。
般若心経でも「空」という言葉は「苦」という言葉と一緒に出てくる。観自在菩薩が、般若の知恵を深く実践し、この世のすべてのものが「空」であると悟ったとき、そのおかげであらゆる苦しみから解放された。
般若の知恵とは、もっとも簡単に言えば「自分自身に気付く」働きのことを指す。この知恵がなぜ重要かというと、この知恵だけが「自分とは何者か」という問いに対する答えをもたらしてくれるからである。
自分が不当に扱われたと感じるとき、瞬時に怒りが湧き上がる。この感情は無意識に始まり、怒りを感じている最中は自分が怒りそのものになっているように思える。「気付く」や「知る」という行為は、その対象と一体化しているときには難しい。知るためには、怒りから一歩距離を置く必要がある。
自分の感情は「自分の中」で生まれ「自分のもの」と感じがちだが、実際には感情は外の世界や外部の出来事、つまり「自分ではないもの」との関係で生まれる。「自分の感情」は「自分ではないもの」に触れなければ生まれないのだ。
ここでのポイントは、我々を条件付けるもの、つまり引き金となるものが、必ずしも現在の外界に存在するものや出来事である必要はないという点だ。実際、我々は外界のものを見たとき、それを単なる情報として受け取っている。視覚的なイメージに反応しているだけで、物理的な力に反応しているわけではないのだ。
たとえば、色から得られる視覚的イメージという情報は、情報である限り、それが外界にある実物から来たものであろうと、記憶のイメージとして内界から来たものであろうと、我々を条件付ける力、つまり身体に変化をもたらす引き金としての力に違いはない。
つまり、我々が反応しているのは[本当に実在するもの]ではなく、[色と形]を初めとする[情報]に過ぎない。しかし、我々にはどうしてもそうとは思えず、自分が[本当に実在しているもの]に対して反応していると思い込んでしまう。実際には、自分の身体に現実の反応が起こるという事実そのものが、その対象の[現実性]を形作っているにすぎないのだ。
今まで述べてきたことはすべて、[色即是空]と[空即是色]の説明である。
人は心配しているとき、その原因が外界にあると感じる。だから、不快感を覚えると、自動的に外の状況や他人の行為が原因だと判断する。言い換えれば、身体がそう決めつけてしまう。そして、その原因を作ったとみなされる他人に怒りを覚える。したがって、自分の心が乱されずに幸せに生きるためには、この世から嫌なやつが消えるしかないと思うのだ。逆に、喜びの原因も外界にあると無意識に思い込んでいる。
事実として、私たちの感情を揺り動かしているのは、外界の物や出来事そのものではない。むしろ、それら外界の情報に対して反応する私たち自身の[自我](心と体の複合体)が原因。このことに気づかせてくれるのが[般若の知恵]。
さらに、[外界にある]という表現自体、繰り返し述べているように、[私たちにとってある]だけであり、客観的に、つまり誰にとっても同じ反応を引き起こすものとして[ある]わけではない。外界で起こることは、私たちの感情や行動の引き金にはなるが、それ以上の意味を持つわけではない。
怒り、悲しみ、喜びといった感情はすべて[自我]から生まれる。[自我]が変われば、外界への反応も変わる。つまり、我々の反応が変わることで、[外界]そのものが変わるのだ。なぜなら、[自我]と[外界]は互いに影響し合っているからだ。
この関係性には[救い]の可能性がある。もし外界を自分の思い通りにすることでしか[自我]が幸福になれないとしたら、我々は永遠に幸福を感じることができない。しかし、外界を変えずとも、自分の感情を変えることは可能である。
幸福の条件
我々の心に怒りが生まれるのはなぜか? それは他者の行動や言葉が我々を傷付けたと思うからだ。これは意識的に思うのではなく、無意識に感じるものだ。
我々は自分では自分を大切にしているつもりだからこそ、他者が自分を受け入れてくれないときに傷付くと感じる。しかし、これは自分で自分のやっていることがわかっていない典型的な「無明」の状態。そういう考えでいる限り、心の平安は訪れない。よく思われよう、愛されよう、賞賛を得ようとすることから、外界への執着が生まれる。そして、それが得られないときには怒りが生まれる。
執着と怒りは裏と表の関係にある感情だ。執着しているものを手に入れられないときや、失ったときに怒りが生まれるのだ。
愛と執着
執着の特徴は、自分でそれを止めることができないことにある。誰かを愛すること自体は執着ではないが、相手にも自分を好きになってもらいたいという自己中心的な要求が執着なのだ。さらに、そのような要求をしていることに気付かないことが多く、無意識のうちにその要求をやめることができない。
こういった場合、実際には相手のことをあまり考えておらず、相手と一緒にいることで自分が感じる喜びに執着して、それを失いたくないだけだということが多い。
自由な行為と執着は正反対のものである。本当に自由な行為であれば、いつでもそれを止めることができる。しかし、執着しているときほど、自分で自分をコントロールできないことはない。
正念
[正念]とは、日常生活で自分がしていることすべてに意識を向ける練習のこと。これにより、自分の行動が自動的で機械的、つまり条件反射的になっていることに気づく。
比丘(仏教の修行者)は、歩くときも帰るときも意識してそれを行い、前を見るときも後ろを振り返るときも意識してそれを行い、両腕を縮めるときも伸ばすときも意識してそれを行う。食べるとき、飲むとき、噛むとき、味わうときも意識してそれを行い、トイレをするときも意識してそれを行う。歩くとき、立つとき、座るとき、眠るとき、目覚めるとき、話すとき、黙っているときも意識してそれを行う。
つまり、生きていることのすべてに意識を向ける訓練をするわけだ。これくらい徹底的にやって初めて、自分がどれだけ無意識に過ごしていたかがわかる。普段の行動は、ほとんどが外からの情報に対する自動的な反応であることが、この訓練を通じて明らかになる。
この訓練をそのままやるのは修行者でないと難しいが、自分の生き方を変えたいと思っている人には、これに近いことをやるのが絶対に必要だ。自分の行動や感情がどれほど自動的であるかに、その場で気付くこと以外に、「自分」を知る方法はないからだ。
条件付の解除
何か嫌なことがあって、身体が自動的に怒りの反応をしてしまっても、その怒りを冷静に見つめることができれば、怒りが精神にまで影響を与えることはなくなる。これにより、怒りや執着といった無意識の行為から徐々に距離を置くことができるようになる。
このような人について、[彼がもし楽を感じるなら、束縛を離れた人としてそれを感じる。もし苦を感じるなら、束縛を離れた人としてそれを感じる]と書かれている。「束縛を離れた」とは、身体と精神が特定の条件に縛られなくなった、という意味になる。
ちょっとしたことでさえ怒りを抑えるのは難しいものだ。それが会社の人間関係や家庭内のトラブルとなれば、私たちは気づかぬうちに煩悩に支配された行動を繰り返してしまう。
八正道の中でも「正念」と並んで重要なのが「正定」、すなわち瞑想だ。瞑想の目的は、普段の生活で外界に条件付けられ自動的に反応してしまう私たちの行動を、その条件付けから解放することにある。条件付けは過去に形成されたものだから、それを解体することで「今、ここ」に生きる訓練をするのだと言える。
自分を愛する
一度、自分の条件付けに気付き、その解体に取り組み始めると、人はまるで別の種族になったかのように、多様な能力を発揮できるようになる。重要なのは、現在の自分をありのままに受け入れることができるかどうかだ。今の自分を受け入れることで、外界に依存することがなくなり、自然に条件付けも解消されていく。
これまでの人生で、私たちは外界の価値に頼りすぎてきた。様々な競争に負けた経験が傷となり、多くのやりたいことを実現できなかった無力感が残る。そうした傷が深いほど、心の癒しを求めてまた外界の競争に身を投じるという悪循環に陥ってしまう。その結果、[出世した自分]や[愛された自分]ならば受け入れられると考えてしまうのだ。
我々は自分自身にも多くの要求をし、執着し、怒りを抱えている。「こうであったらよかったのに」という理想によって自分を裁き、その理想からほど遠い自分を許せないのだ。これはつまり、自分に対して[執着]しているが、[愛]してはいないということだ。
ここで多くの人が勘違いをしている。自分を可愛いと思わない人はいないが、それは自分が喜びの対象である限りの話だ。だからこそ、[競争に負けた自分]は[怒り]の対象になってしまうのだ。我々はそのようなとき、自分の中に[裏切り者]を抱えているような気持ちになる。期待に応えられなかった自分を許せず、自殺に至る人さえいる。
我々は自分に執着しているだけで、本当の意味で自分を愛していない。このことに気づかなければ、いつまでも幸福にはなれないだろう。もし自分が自分を愛さなければ、誰が愛してくれるというのか?
「態度」というものは一貫している。自分を可愛いと思いながら、他人をどうでもいいと感じることは、人間にはできない。自分に対する態度と他人に対する態度は表裏一体だ。自分を許し(自分への過度な要求を捨てる)という行為は、奇跡的な効果をもたらす。その瞬間、初めて人は自由になれる。なぜなら、その時点で他人への過剰な要求も捨てられるからだ。自分に都合のいいことを期待せずに他人と接することができれば、我々は他人から傷つけられることもなくなる。
執着とは、自分の欲求に固執することだ。なぜそうするのかというと、その欲求が満たされれば自分が幸福になると信じているからだ。しかし実際には、その欲求に固執することが、かえって幸福を遠ざけている。欲求を手放せば、幸福は自然と訪れるのだ。
私たちは、幸福になるために何かが足りないと感じ、それを求め、それが手に入れば幸福になれると考えて生きてきた。しかし実際は、その「求める」行為そのものが不幸を招いているのだ。今この瞬間、私たちは何一つ欠けていない。幸福になるために必要なものはすべて既に持っている。何も追加する必要はない。
合理性の限界
色不異空 空不異色
五蘊・十二処・十八界・十二縁起の否定
般若心経は、説一切有部や小乗仏教で実体として見られていた五蘊、十二処、十八界、さらに十二縁起も否定する。
五蘊:色・受・想・行・識
六根:眼・耳・鼻・舌・身・意
六境:色・声・香・味・触・法
六識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処=六根+六境
十八界=六根+六境+六識
名づけの問題
例えば物理学や数学のように、言葉がきちんと定義されているから誤解が起こりにくい。これらの分野では、計算や理論が厳密に定義されており、誰が考えても誤解が生じないように工夫されている。数学や物理学の世界では、特に計算の仕方に誤解が生じないように様式が整っており、非常に厳密な定義がなされている。
言葉が定まっていると、計算式があることでそれがまるで実体として感じられるようになる。これが科学者や理系の人々にとっての落とし穴で、論理が優先されるあまり、頭の中で作り上げられた宇宙論や量子学の方程式などが、実際に見たり触ったりするものよりもリアルに感じられることがある。これらの数式や理論はすべて人間が作り出したものであり、心の中でしか存在しないのに、それが実在するもの以上にリアルに感じられることが怖い。
物理学者や科学者、工学者などの理系の人々は、虚構の世界、つまり心の世界に逃避しているとも言える。彼らにとっては、そのバーチャルな世界が現実以上にリアルに感じられることがあるということだ。
四諦もない~孤独を味わう
全文解釈
参考文献
仏教の基礎知識シリーズ一覧
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