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私たちはみな、哀しみの戦士たち

YouTubeを見ていたら、表示されたこちらの動画。前にも見たことのある、川瀬統心さんの切り抜き動画でした。

家系図の書き方には二種類あります。ひとつは先祖から始まり、たくさんの子孫が増えていくという、枝分かれ式の裾広がりの家系図であり、これがいわゆる普通の家系図です。

それに対して、もうひとつの家系図は自分から父母、祖父母と、過去に遡るほどに関わる人が多くなっていくというもので、これを逆家系図と呼んでいます。

普通の家系図においては自分はその他大勢の中の一人に過ぎず、いなくても誰も困らないような気さえします。しかし、逆家系図においては自分は唯一無二であり、全てであり、絶対的な存在であるということになります。

この逆家系図の方が本来の主観的生命感覚につながるものではないかということです。普通の家系図は客観的であるが故に、自分の存在意義さえ希薄化し、他の可能性との間で比較しながら、ついには迷子になってしまいそうです。

だからこそ、すべては必然なのでしょう。命は途切れず、ずっと繋がってきたと知ること。人はみな、あらゆる可能性を捨てて、唯一の今の自分を選んできたからこそ、心の一番奥底にあるのは悲しみであるのでしょう。

本来、みながそれぞれ唯一無二であり、純粋記憶=純粋持続を保持している存在であります。そのような「われ」を認めるところから、ようやく舞踏は始まるのだというところに繋がると思いました。

バリスという踊りにはかなり長く取り組みましたが、この踊りはまさに「哀しみの戦士」の踊りであったと思います。子どもに踊らせるには、(いや誰にとっても)酷な踊りですが、でもだからこそ誰もが取り組むべき、普遍的価値のある踊りとも言えるのだと思いました。

「われここにあり」と宣言した後においては、どのような踊りであっても、それはバリスに等しく、すべからく戦士の踊りということになるでしょうから。

下の動画は2004年(43歳の時)にバリのお祭りで踊らせてもらった時のもの。この時以外にもバリで何度か踊る機会がありましたが、動画で残っているのはこれだけです。後から見るとあちらこちらなかなかにひどくてあちゃーと思いますが、それでもこうして残っていて良かったと思います。これもまた僕の生きてきた軌跡であり、純粋記憶の一部ですから。

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