【小説】意味を持たない海(後編) (サラとの1か月間~14日目~)

前回までの話
1. 傷に触れない (サラとの1か月間~6日目~)
2.時間の概念と隣町のコロッケ (サラとの1か月間~13日目~)
3.嘘に満ちた世界で (サラとの1か月間~10日目~)
4.意味を持たない海(前編) (サラとの1か月間~14日目~)


概要
元同僚のサラは新卒2年目にも関わらず、容姿と卓越したコミュニケーション能力で人脈を広げ、職場内での地位を確立してきた。高級ブランドのバッグ、アクセサリーを身につけ、上司だけでなく新興企業の経営者や有名デザイナー、御曹司を相手に会員制のレストランでの会食、イベントでの接待をこなす日々。多くの人間が羨む生活を送っていたかのように見えた。だが、突然の音信不通。仕事仲間や関係者を裏切るような形で、会社を辞めていった。
ぼくが彼女と再開したのは、近所の銭湯だった。そこで短い会話を交わしただけだったが、サラが人とのつながりに対して、大きな煩わしさを抱いていることに気づいた。ぼくと同じように。
彼女も共鳴するものを感じたのだろう。一時的な“居場所”として、ぼくのアパートに住み着くようになった。お互い、しがらみのない人間関係を維持するために深入りはしない。表面的で何でもない日々を過ごした。
これは、ぼくがサラと暮らした1ヶ月間のなんてこともない話。映画のように感動も緊迫もない。読み手に共感さえも持ってもらえないかもしれない。ただ、くだらない生活の記録として、ここに残している。


 寂しい海に、わざとらしい波の音が繰り返される。
 8月なのに遊泳客は、ほとんどいなかった。時間のせいか、それとも関東の海で泳ぐ人自体がいなくなっているのか分からない。鈍い光を放つ海面に、ポツポツとサーフボードを抱いた人が浮かんでいる。
「みんな、どこに行っちゃったのかな」
 サラは海を代弁しているようなことをつぶやいて、コンビニで買ったアイスキャンディをかじった。

 電車で見た光景を思い出す。
 ワイシャツ姿のビジネスマンで占められた車内。月曜日の陰鬱から逃げるように、一心にスマートフォンの画面を見つめている人たち。みんな、移動の僅かな時間を現実から逃れることに費やしているようだった。一方、車内モニターのニュースに目をやると、那覇空港では観光客が殺到、伊豆のリゾートホテルは宿泊料金を1.5倍も上げていると映し出されていた。海外からの観光客の影響もあるが、国内でも行楽に使う余暇と金のある人間は一定数いる。例えば、ぼくの勤め先の役員のように。

 サラはディオールのカバンから、スーパーマーケットのロゴが入ったビニール袋を2つ取り出した。
「じゃあ、コレね」と、一つをぼくに押し付ける。
「ピンクの貝殻ね。欠けていたり、小さすぎるのはダメ。いい感じのお願い」
 彼女は早々と波打ち際まで歩いて行った。
 足元を眺める。早朝の雨で湿った砂を靴先で、ほじくってみたが、出てきたのは、ガラスの欠片と黒ずんだ貝殻だった。
 中腰になって砂を掘り続けると小指の爪程度の大きさの白い巻貝が出てきた。宿主はいない。人差し指と親指でつまむと砕けてしまうほど、劣化していた。
 陽光が強くなっていくのを背中で感じながら、しばらく辺りの砂を掻き出していた。花火の燃え殻や青いシーグラス、ヤドカリのような生き物がちらほらと見つかる。
 童心に帰るとは、こういったことをいうのか……
 気づけば海辺に落ちているモノを観察するのに、夢中になっていた。でも、肝心のピンク色の貝殻は見つからない。場所を移そうとして膝を伸ばすと、軽い立ち眩みがした。
 カバンから取り出したミネラルウォーターに口をつけながら、サラの歩いて行った方向に目を向ける。姿が見当たらない。どこまで捜しに行ったのだろう。
 周囲を見まわすが、白いシャツを着た女性はいなかった。彼女の名前を呼ぼうとしたが、気恥ずかしさが勝ってしまった。海辺で女性の名前を叫ぶなんて。今時、朝ドラだってやらない。
 しばらく辺りを歩いてみたが、見当たらなかった。止めどない波の音に交じって、自分の舌打ちが耳に響く。スマートフォンを持っていない彼女が憎らしくなる。
 死角になっている岸辺や簡易トイレの裏を捜してみたが、見当たらない。何度もスニーカーに入った砂を出しながら、嫌になるくらい広い海辺を歩いた。強い日差しが降り注ぐ。体調不良を理由に会社を休んだのに、翌日日焼けした顔で出てきたらウソがばれてしまう。日陰になっている橋の下に移動して、腰を下ろす。どこに行ったんだよ。
 サーファー達が帰り支度をはじめているのを眺めながら、ため息をつく。
水平線は不安になるぐらいに、まっすぐに伸びていた。くすんだ青色の海面は、どこまでも続いていて、決して自分の手の届かない場所があることを思い知らされる。

 もうサラは戻ってこないのかもしれないな。

 そんな気がした。会社を去った時と同様に、広い海を漂うクラゲのように、どこかへいってしまったのだろう。
 覚悟はしていたが、胸の奥を無造作に引き絞られたような痛みがした。彼女の魅力は、誰にも、何にも拘束されない生き方を選んだことだった。

「居たいときまで居ればいい。去りたければ、勝手に出て行ってくれ」

 ぼくのアパートに荷物を運んでいるとき、彼女に告げた。
 恩義とか、愛着とか、そんなの感じる必要はない。一緒に暮らし始める前と同様に、自由でいてほしかった。
 でも、いざ自分の視界から消えると割り切れない想いがあった。そんな自分の弱さが情けなかった。

 陽は高くなり、波が近づいてきた。

 潮風で目は痛み、つばを飲み込めないほど喉は乾いていた。いつまでも、ここにいるわけにはいかない。自分に言い聞かせても、脚は溶けた鉛に覆われたように固く、重たくなっていた。
 延々と繰り返す波の音を聞いていると、小学生のサラが「海に呼ばれている」と思い込んだ理由が、少しだけ分かる気がした。

 やがて空が青からオレンジ色に変わり始め、足元に迫る波に気づく。

 海水が砂をさらい、色とりどりの貝殻を運んでくる。ふと目に留まったのは、親指の爪ほどの大きさの、白地に薄い紅色が混ざった一枚貝。彼女が求めていた桜色に近いものだった。
 もう、サラと会うことはないのに。そんなことを思いながらも、空になったペットボトルに貝殻を入れる。

 一日の終わりが近づいてきたことを告げるようにウミネコが鳴いていた。
 靴先をかすめる波をきっかけに、ようやく立ち上がることができた。少しついたジーンズの砂を払い、砂浜を離れるべく駅に向かって歩き出す。

「貝殻、見つかった?」

 振り返ると、ずぶ濡れになったサラが立っていた。前髪がおでこにへばりつき、顎から海水が滴っていた。羽織っている白いシャツは透けて、インナーの黒いタンクトップと華奢な鎖骨が露になっている。安っぽいホラー映画に出てくる怨霊のような姿に、何と言葉をかけていいのか分からなかった。

「ちょっと泳いでた」
 質問する前に、サラは小さく肩をすくめて言い訳をした。

「あぁ、今日は暑かったからね。海水浴日和だよ」
 戸惑いを押し殺しながら、ぼくはできるだけ自然に微笑んだ。
 この反応に安心したように彼女も笑みを返す。

 駅に直結しているスーパーマーケットで着替えを購入した。店員は、サラの姿に目を見開いて驚きを表していたが、すぐに呆れたようにため息をつく。
 後先を考えずに海ではしゃいでしまった若者だと思ったのかもしれない。
「おまたせ」
 ディズニーキャラクターがプリントされたティーシャツと綿のハーフパンツ姿のサラがトイレから出てきた。脚にはビニール製のサンダル。おそらく下着も替えているだろう。
「総額3,400円」と軽く両手を広げてみせた。
「ブランド物のスーツより似合うよ」
 職場で見かけたブルーのブラウス姿の彼女を思い出しながら、ダッフィーのイラストに目をやった。
「お腹すいた。ラーメン食べて帰ろ」
 彼女は、手に持っていた濡れた服が入っているビニール袋をごみ箱に放り込んだ。
“ご家庭からお持ちになったゴミは捨てないでください”という貼り紙を気にする様子もなく。

 アパート帰る途中ディスカウントストアで きりを買った。原始人が火を起こすように手のひらをこすり合わせる動きで、貝殻に穴を空ける。力を入れ過ぎて割れないように、少しずつゆっくりと。その様子をサラは頬杖をついて眺めていた。
 麻ひもを通して、彼女に渡すと顔をほころばせた。わがままで計算高く世間を渡ってきた女性が、こんなにも無垢で屈託のない表情をできることに驚きを感じる。「今まで着けていたヤツはどうしたの?」
 以前はシルバーのチェーンに、エメラルドをポイントにしたネックレスを胸元に光らせていた。
「あげた。前に隣に住んでいた女の子に」
 どうせ質屋にでも出したのだろう……と思っていたが、意外な返答だった。
「あの、先日引っ越した騒がしい親子の?」
「そうだよ。お守りに良いかと思ってね」と彼女は、新しいネックレスに恍惚とした瞳を向けた。
 小太りで、暗い表情をアパートの階段を下りている女の子を思い出す。
 毛玉だらけのトレーナーと陰鬱な顔を覆う伸びきった髪。貧相を表した姿に、あのエメラルドはどう想像しても似合わなかった。
「高価なものは見せかけの自信を与えてくれるの。きっと、あの娘に必要なものは、そういうものなんだよ」と、貝殻に息を吹きかける。錐で削った際にできた粉が舞う。

「自信って……例えば、誰にも左右されない自分の価値観を持ったり、目標を達成することで得られるんじゃない?」
 ぼくは頭からひねり出した言葉を口にした。でも、それが絶望的につまらない一般論だと気づく。

「バカなことを喋った」
 前言撤回。自分に嫌気が差した。

「そうね」と、片頬を釣り上げて笑みを浮かべるサラから目を逸らす。
ベランダから見える桜の木が夜風に吹かれていた。濃い植物の匂い。
 擦れ合う葉は、波の音と似ていた。

つづく


いいなと思ったら応援しよう!

アメミヤ
リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。