絵画
突然ふと、太陽が隠れたら
ふと、この道を行く意味を失って
そうして、ぴたっと足を止めたくなる
でもこの世界で足を止めることは
心臓を止めることに似ているから
力が抜けそうな体を
重怠い足を
とりあえず交互に出している
そんな瞬間がふとやってくる
脳が何かを拒んでいる
心が脱力している
この道を行くために
路傍の店で欲を満たす
けれど十分に満たせる程の
対価を持ち合わせていない
明日が遠くなる
いや、衣食住は足りている
そこに何の不満があるというのだ
生命を維持するための欲求は
満たされているというのに
では私は何であるのか
生きるに足る私の足は
なぜこんなに重いのか
もはやヒトではないのだろうか
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ヒトはなぜ絵を描く生き物だったのだろう。
絵を描くことと文字を書くことの起源が同じなのだとしたら、絵を描くという行為ができたからこそ、文明が起きたのだろう。
ただ、絵を描くことは、生物が生命を維持するために必要な根本的欲求を満たすものではないように思う。なのになぜヒトは絵を描いたのか。
そう問うてはみたものの、ここでその問いの答を出したいわけではない。
言いたいことは、現代においては、それが生命を維持するために必要なことである、ということだ。
もちろん「絵を描くこと」に限ってはいない。人によっては、こうやって文章を書くことだったり、読書、音楽、スポーツ、ゲーム、買い物をすることだったりする。
これらは本来、生命維持という目的においての根本的欲求を満たすものというより、付加価値的欲求を満たすものに思える。けれど、現代において、この欲求を満たすことは最早必要不可欠なことだと言える。
つまり、簡単に言ってしまえば「ストレス発散」である。
ストレスコントロールがいかに出来るか、がこの社会を生きて行く中で重要になっている昨今。自己表現や運動、趣味などで自分の中に溜まったものをアウトプットできるかどうかが、大袈裟ではなく生命維持に関わってくるのだ。
そう思うと、ヒトが絵を描く生き物だったことは必然に思えてくる。
神様は現代までを見越して、ヒトの脳をつくったのだろうか。
いや反対に、そもそも絵を描く生き物だったからこそ、文明を築き社会が出来、ストレスコントロールが必要になったのでないか。
卵が先か鶏が先か、である。
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冒頭の詩にもある、「道」。
私たちが歩く「道」というのは、本当に存在するのだろうか。
根本的欲求を満たして生きる世界に、そもそも「道」など無いのではないか。
私たちは只、果てしない道を描いた大きな絵画の前に、立っているだけなのだろう。
絵を描けるのはヒトである。
だからこそ、その道に圧倒される必要もないし、自分の思う様に描き足すことだって自由なのである。