去年の小説現代新人賞で落選した作品を投稿サイト「ステキブンゲイ」にてちょっとずつ公開しています。 https://sutekibungei.com/my/c3ce6232-ca85-4ada-8563-338f05db394b/episodes 久々に読み返してみて、「あー、これ書いてた時めちゃくちゃ楽しかったなあ」としみじみ思った。ほんと、とにかく楽しくてしょうがなかったんだよね。 ここ最近は、苦しさしかなかったように思う。 求められているテーマ、独自性、表現
去年は三次落ちだったから、最終まで残れなくてもせめて三次までは…!と思っていたのだけど、だめだった。見事、後退です。 講評はつまるところ、「盛り上がりに欠ける」ということだった。うん、大事だよね、盛り上がり。エンタメだしね。盛り上げんとね。 たしかに、そこが自分の中でも課題だった。いまいち盛り上がらないまま話が終わるから、たぶん読み手からしたら「え、これで終わり?」となるんだろう。 だけど、去年と違って今年はちゃんとプロットを練ってから書いた。推敲もめちゃくちゃ
Wordの白紙ページを目にしただけで、 「ああ!文字で埋め尽くしたい!」 という衝動に駆られるのだけど、これって創作好きな人にとってはあるあるだと思う。 ふと、この衝動はどこから生まれているのだろう、と気になった。 そこでよくよく考えてみると、私はスマホのメモ帳を開いても、原稿用紙を手にしても、それと同じような衝動は感じないことに気付いた。 ということは、私のこの欲求は、「物語を紡ぎたい」というより、「ひたすらタイピングをしたい」というものなのかもしれない
凪良ゆう先生の「滅びの前のシャングリラ」を読んで、素晴らしすぎて胸が震えたんだけど、それと同時に自分のセンスのなさを改めて感じて、ぽっきり心が折れてしまった。あー、面白いってこういうことだよなぁ、逆立ちしたって自分には書けないなぁ、と。 物語の構成についての指南書を読んだりしたけど、上手く自分のものにできないというか、なんだか余計に混乱して、書くことが苦行になってきた。だからと言って、感覚だけで面白いものが書けるわけでもない。詰んでる。 小説現代長編新人賞に応募した
書いてる時はあんなに楽しいのに、いざそれを一から読み返し、誤字脱字や矛盾点等々を見つけて直していくこの"推敲"という作業が、正直怠くてしょうがない。 しかも、何度読み返しても必ず訂正箇所が見つかるから、終わりが見えなくてしんどくなってくる。 でも、この作業を省いたら、とてもじゃないけど人に読ませられない。だからやるしかないんだけど、いやもうほんとに面倒くさい。代わりに推敲してくれるAIが早く開発されないかなぁ、とか考えるけど、実際出来たら出来たで、自分の作品を委ねられ
川上未映子先生の作品は、中学生の時に「乳と卵」を読んだぶりだった。 大学生の時に人から薦められて「ヘヴン」を読もうとしたけど、内容の重さに耐えきれず、序盤で脱落してしまっていた。 「黄色い家」もまた、なかなかベビーな話だった。というか、心理描写や情景描写が、ここまで書くかってくらい生々しくて、それが余計に重みを増しているように思う。一気に読み進めるのはしんどくて、中盤で一回休憩を挟んで別の本を読んでから、意を決して最後まで読んだ。 テレビのインタビューで、川上先生
やっとこさ、「成瀬は天下を取りにいく」を読み終えた。読みやすい文章で、キャラ造形もしっかりしていて、共感できるところがいくつもあって、万人ウケするのも納得の内容だった。 テレビ番組の特集なんかを見ていると、成瀬もしくは島崎について語られることが多いように思うが、わたしは圧倒的に大貫ちゃん推しだ。 高校入学当初の、あの思春期の終わりきらない感じとか、不器用なくせに自分を達観していると思い込んでいるところとか、周りを気にして目の前の相手を蔑ろにしてしまっているところとか、
ここしばらく、文藝賞に出そうと思って純文学系の話をこつこつ書いていたけど、最後まで書ききったところで「あれ、これ面白くねーな」と思ってしまった。いや、本当は途中から薄々気付いていた。この話、くそつまんねぇって。 もともとわたしは純文学作品を読むことが多くて、だから自然と、自分も書くなら純文学だと思っていた。でもいざ書いてみると、途中から書くこと自体が退屈になってきて、ただただ苦しい作業になってくる。書きはじめた頃はあんなにも楽しかったのに。 昨年の小説現代長編新人賞
「マイ・ブロークン・マリコ」めっちゃ面白かった。 話の核となる部分は激重なのに、淡々としてるというか、むしろシュールで笑えるところが多かった。 主人公のシィちゃんがいい感じにやさぐれてて、セリフも独特で好感が持てる。個人的には、「直葬」「産地…?」ってところと、「死んでちゃわかんねぇだろ!」ってところがたまらなく好きだった。 回想のマリコが、最初は他愛ない会話や微笑ましい姿が描かれているのに、記憶が掘り起こされていくうちに彼女の癒やしようのない傷やゾッとするほどの
息子がまだ小さいので、本屋に立ち寄ると必ず絵本コーナーもチェックしている。 自分が子供の頃に持っていた絵本を見つけて懐かしくなったり、最近出たものでも気に入って衝動買いしてしまったり、とにかく絵本コーナーはこの歳になってもわくわくする場所だ。 先日も絵本コーナーをぷらぷらしていて、「SNSで話題沸騰!」みたいな感じの帯が目に留まった。表紙の絵が可愛かったこともあり、手に取って読んでみたのだが、そこで私は衝撃を受けた。 こんな絵本、自分の子供には読ませたくない。
小川洋子は天才だ。 私がそう肌で感じたのは、「薬指の標本」を読んだ時だった。 いったいどういう話なのか?と聞かれても上手く説明できる自信はないし、じゃあなぜ小川洋子を天才だと思ったのか?についても同様だ。私はこの作家の良さを切り取って表現するだけの言葉を残念ながら持ち合わせていない。 今回、「人質の朗読会」を読んで、改めて私は小川洋子の凄みに触れた。 柔和で繊細で、誰にとっても理解しやすい言葉が使われているのに、「この表現しかない」という堅固な意志を感じさせる。
今村夏子先生の「星の子」がすごく好きで、映画も見に行った。主演の芦田愛菜さんも他の俳優さんたちも演技力が高くて、原作読んでないと理解しづらい部分もあるけど面白かった。 私はこの小説を、まだ「2世信者」という言葉が広まってない頃に読んだ。そして、面白い以上に、悔しくて、救われた。 私はとある新興宗教の3世として生まれた。私の意思とは無関係に、祖父母と両親がそれを信仰しているからという理由で、当然のように私も入信させられた。 身を滅ぼすほどの献金を要求されたり、詐欺
私は未だにプロットをどう書けばいいのかわかっていない。 さあ、プロット書こう!と意気込んでみても、起承転結の"承"でもう詰まる。だからと言っていきなり本文を書き始めても、想像は膨らむが途中で収拾がつかなくなる。 最近、どうにかこうにかラストまでプロットを書いてみたが、なんか面白くない。道筋を通すことばかりに気が散って、キャラクターの心情や物語の起伏がおざなりになっているのが自分でもわかる。 プロットの段階で細かな設定を決め、物語を構築するにはどうすればいいのか。
私の父は大の酒好きで、毎晩飲み潰れるまで飲んでは翌日二日酔いのまま仕事へ行く、という生活を長年過ごしていた。 家で飲む分にはまだよくて、外で飲んできた日なんかは夜中に騒々しく帰ってくるわ、トイレと間違えて寝ている私の部屋に入ってくるわ、機嫌が良すぎてうるさいわ、鬱陶しいことこの上なかった。 そんな父に似て私もアルコールには強い方だけれど、胃腸が弱いため、記憶を無くしたり我を忘れたりするほど飲むことはなかった。 昨年の大晦日、私は初めて日本酒を飲むことになった。
9月末締切だった文學界新人賞になんとか一作送ってからというもの、うだつの上がらない日々を過ごしている。 書きたいものも、最後まで書けそうなものも思いつかず、小説読んだり漫画読んだり寝たりしながら、たまにノーパソに向かって中途半端にプロットらしきものを書いたりした。 小説現代長編新人賞の講評が出て、お褒めの言葉も厳しい言葉もいただいて、なんだか満足してしまった。 小説を書き始めて1年、「書かなきゃ」という使命感に近い思いで書き続けてきたけど、それが今やもう「書かな
くだらない男だと思った。 会社のエントランスで待ち伏せされていた時点ですでにうんざりしたが、強引に連れていかれた飲み屋で延々と愚痴を聞かされて、とうとう愛想笑いすら作るのをやめた。先輩といっても部署は違うし、恨まれたとしても実害はないだろう。 「嫁さんがさ、子供のことすんげー可愛がってるんだよ。いや、いいんだよ? 母親として頑張ってくれてるんだし、それが不満ってわけじゃないんだけど。でもさぁ、おれに対する態度が明らかに冷たくなってんだよ。ひどくない? おれだって毎日仕事