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【短編小説】あの女
くだらない男だと思った。
会社のエントランスで待ち伏せされていた時点ですでにうんざりしたが、強引に連れていかれた飲み屋で延々と愚痴を聞かされて、とうとう愛想笑いすら作るのをやめた。先輩といっても部署は違うし、恨まれたとしても実害はないだろう。
「嫁さんがさ、子供のことすんげー可愛がってるんだよ。いや、いいんだよ? 母親として頑張ってくれてるんだし、それが不満ってわけじゃないんだけど。でもさぁ、おれに対する態度が明らかに冷たくなってんだよ。ひどくない? おれだって毎日仕事行って疲れてんのに、労うどころか邪魔者扱いよ」
慰めてよ、とでも言いたげに眉をハの字にしてこっちを見つめてきた。まともに相手にするのも面倒で、わたしも困ったように笑ってみせたら、「ま、それでも家族は大事なんだけどね」と急に背筋を伸ばした。
これは常習犯だな、と確信する。押しが強いわりには引き時がよくわかっている。お互いまだ二杯目なのに、男は店員を呼んで精算を頼んだ。拒絶したのはわたしのはずなのに、なんだか見放されたような心地で残りの緑茶ハイを飲み干した。
「うち、来ます?」
掘り炬燵に下ろした右足の、脛の部分のストッキングが伝線していた。それを見下ろしながらぶっきらぼうに尋ねると、食い気味に「行く」と返ってきた。
くだらない、本当に。
父が死んだ時、母は泣かなかった。少なくともわたしの前では。代わりに、葬式にふらりとやって来た痩せた女が、遺影を見上げて二粒涙を落とし、そのまま焼香もせず立ち去っていった。
あの女か。
わたしと母は一瞬だけ目を合わせ、それから二人してふくみ笑いを浮かべた。
十年以上も続いた不倫。でも父は家族を捨てなかった。
「大変だったけど、今となってはいい思い出よ」
母は早々に遺品整理を業者に依頼し、たった一人となった家の中で悠々自適に暮らしている。
あの女。母よりも年上で、母よりも身綺麗な女。お金も時間も費やす先が自分自身しかなかったような女。愛されていても、優先はされなかった女。
あの女は、今どうしているだろう。
「家ってどのへんなの?」
店を出ると、近くを流れるドブ川の臭いが湿度の高い空気に染みていた。
わたしはどうしようもない馬鹿男の手を取り、歩き出す。
「先輩、わたしのこと好きですか?」
「えー、なに突然?」
「たぶんわたしは、先輩のことずっと好きでいられますよ。十年だって二十年だって」
握っていた手が強張った。どんな顔をしているのか、見なくてもわかる。
しあわせだったらいい。最低なまま死んだ男なんて忘れて、その分、自分で自分を愛してくれていたら。
空を見上げたら、不気味なほど丸い月がこっちを覗き込んでいた。見てんじゃねーよ。悪態を口ずさんで、欠片も愛してなんかいない男の手を引いた。