あの頃、すべてに必死だったね・・・6
こんにちは。精神障害ピアサポート専門員の愛音です。時間が出来たので連載「あの頃すべてに必死だったね・・・」更新したいと思います。
前回、15歳で学校の最後の居場所=保健室、B先生を失いました。そして完全に心が崩れたところまで書いたので今回は引きこもってからの生活になります。
・周りが怖い、そして逃げきれない
居場所がなくなり家の中に引きこもるようになりました。それを心配した家族は買い物に一緒に行こうと優しく声をかけてきます。スーパーまでは15分くらい歩きますが、親と手を繋いで頑張っていたと思います。
だけど壊れてしまった私は些細なことも刺激になりました。自転車のベルがどこかで鳴れば『このベルは邪魔な私に向けてだ!!』当時はスマホでなくガラケーでしたが、携帯を持って楽しそうにしている人がいれば『キモい女(私)が外にいると連絡してる!!』
この被害妄想はまだいい方です。辛かったのは幻聴です。頭の中に直接クラスで起こっていた笑い声が届く、学校のチャイムが鼓膜から離れてくれない。
部屋の中で必死に耳を塞ぎ「もうやめて!許してよー!」何度も、何度もそう言って本気で泣いていました。
幻聴にはかなり長い事苦しめられました。
・精神科のD先生と女性カウンセラーE先生とF先生
そして15歳で今も通院している精神科に行きました。D先生は男性です。緊張をしていた記憶はありません。病院までの10分電車に乗っていることで、やはり周りの目が怖くて、ぐったりと診察室の椅子に座っていたからです。
D先生はこんな言葉を両親と私に伝えました。
「愛音さんに頑張れは言わないでください。頑張っているから今ここにいるんです。これ以上頑張ることはありません。だから頑張ってとか、頑張ってみようと言わないでください」
びっくりしました。児童相談所では何一つとして心に残る言葉は言われなかったのに、D先生は数回診察をして私がずっと頑張っていることを認めてくれた。そしてこれ以上頑張る必要が今はないことを両親へも伝えてくれたんです。
そしてカウンセリングも受けることになりました。若いE先生は仕事に真面目な雰囲気でした。でもそれは児童相談所のあの職員とはまったく違って、真剣に私のグチャグチャの気持ちを沢山メモに取ってくれて「一緒に考えていきましょう」それが伝わる先生でした。
ただ残念なことに2年ほどカウンセリングをしてくれたE先生は産休に入ることになります。その時も「これからを一緒に考えていきたかったです。愛音さんの大切な時期にこうなってしまってごめんなさい」と言ってくれたんです。
産休に入ることに「裏切り」を感じませんでした。ちゃんとE先生の意思を引き継いでくれるカウンセラーがいることを説明してくれたからです。
後任のF先生も女性で、柔らかな方。いつも笑顔が素敵で明るい声が聴いていると元気になれるんじゃないか?そこまで感じたんです。
学校運はありませんでした。児童相談所運もなかったです。
だけど医師は最高の出会いばかり。守るだけじゃなくて「今」を認めてくれるんです。
カウンセリングはE先生に2年間、F先生には10年くらい診てもらったかな?
主治医、D先生は19年今も変わらず診てくれています。
・私服で学校へ
3年は一度も授業を受けていません。でも部活には顔を出していました。演劇部に入っていて、部員の友達とは仲が良くて部活だけは行きたいというまあ、ちょっとしたわがままになるのかな?
でも歓迎会で制服を脱ぎ捨ててから袖を通していません。だけど学校に(部活)行きたいときはどうすればいいだろう。考えて、考えて、教師と交渉しました。
「私服で行かせてください」
教師らもそれで来れるのならと特別に許可をくれました。デニムとTシャツという派手ではない格好だったので一度も怒られず、気が向いたときに部活に顔を出せました。
私服で校内を歩く私を見て振り返る人はいた気がします。部活の後輩も「なんで愛音先輩は私服なの?」といった目で見てました。でも心には「逆に聴くけど、どうしたら制服を着れるの?」この思いがありました。
ただ教師とも約束があり、授業に出るときは私服は却下でした。クラスメイトから私へ反感をかうことや、クラスの輪を乱すことが理由でした。
授業に出るなんて考えません。たとえおもちゃ箱でなくても、嫌でしたから。
*愛音*
あの頃、すべてに必死だったね…1〜5はマガジンから読めますよ