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静謐なる深淵——禅語と和歌が誘う、東洋神秘の闇


私が東方の古文献に触れるたび、胸を蝕むのは得体の知れぬ戦慄と畏敬の念である。なかでも禅語という簡潔にして深遠なる言葉の数々は、我々が慣れ親しんだ薄暗き西洋神秘とはまったく異なる次元の扉を、音もなく開いてしまうかのようだ。その余白に潜む静寂と、かすかな囁きの如き真意――それらは時として、背筋に氷柱を走らせるほど神秘的でありながら、同時に不気味なほど親密な慰めを与える。

例えば「日々是好日(にちにちこれこうにち)」という禅の言葉を目にしたとき、私は即座にこの短い句の奥に広がる得体の知れぬ深淵を感じとった。まるで測り知れぬ異空間から這い出し、悠久の闇の中で蠢く無数の意識――その一つひとつが囁き交わす不明瞭な言語を、わずか五文字程度の縮図に押し込めたかのように、凝縮された意味の奔流が人の心をかき乱す。たとえ日常がなすすべもなく崩れ去ろうとも、それを受け止める精神がありさえすれば“好日”となる、という含意は、あまりに静謐でありながら、どこか冒涜的な宇宙的諧謔を孕んでいるように思えてならない。

和歌もまた、この世の儚さと無限なる異界を同時に照射する、一種の詩的呪文のように見受けられる。五・七・五・七・七という定型の制約こそ、禅語と同様の凝縮を生み出し、読む者の想像を限りなく膨張させるのだ。ある和歌には、森閑とした夜闇に沈む月の光が描かれ、そこに浮かぶ薄白い影は、もしかすると常世の闇からしのび寄る異形の生物かもしれぬ、などという妄想を拭うことができない。それは西洋の呪典にこそ見られそうな、狂気の片鱗をうっすらと帯びている。

こうした「言葉を削ぎ落とし、隠された恐るべき深層に肉迫する」技法は、東洋思想の代表たる禅の教えに深く通じていると言えよう。禅師たちがしばしば口にする不可解きわまる公案も、まるで計り知れぬ奈落に住まう存在をちらりと垣間見せる恐怖譚のようで、その真意に近づこうとすればするほど、人智を超えた知覚の奔流に呑まれかねない感覚に襲われる。論理では説明しきれぬ領域に直接触れようとする禅の実践は、一歩間違えば人を正気の境界へ追いやる危険も孕んでいるのではないか――私は時折、そんな不可解な推測にさえ捉われるのだ。

思えば和歌も禅語も、人間の言語体系を越えた扉の前に、静かに人を導き、その戸口で振り返る暇すら与えないかの如く、我々を奥深く引きずりこむ。欠片のように短い文字列と余白、それだけが織り成す闇の狭間から、途方もない“真理”や“空”が浮上してくる。そこには何とも言えぬ静謐と、同時にぞっとするほどの無常観が漂っているのだ。こうした禅の精神性は、人が日常という薄膜の裏側に潜む、より巨大なる畏怖の世界に辿り着くための一助となりうる。ほとんど宇宙的な狂気や未知の領域に接続されているかのような感覚は、往々にして理論を超え、悟りにも似た瞬間的認識をもたらすのである。

このように考えると、禅思想が東洋文化を代表するという見解は、あながち誇張ではないと思われる。見かけの単純さは、背後に広大な深淵を携えているのだから。もしあなたがこの不可思議な領域へ自ら足を踏み入れ、静謐さと狂気が紙一重の狭間に生まれる啓示を、ほんの一瞬でも体感してみたいと願うならば、どうぞ禅語や和歌の短い文句を、怯むことなく眺めてみてほしい。言葉の裏には形容しがたい闇が息づき、それは時として感性を凍らせ、あるいは魂を高みへ押し上げる翅となるやもしれないのだから。

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