2021年11月の記事一覧
前田敦子の演技はオノマトペである。
もらとりあむタマ子
前田敦子の女優力に打ちのめされる傑作。就活なんとなく回避女子のリアルと呼吸を、父娘だけの実家風景のなかで体現する。『苦役列車』で組んだ山下敦弘監督の秀逸な采配の下、オノマトペ(擬音語)としての演技表現でアブストラクトな感情の絵筆を存分にふるう。沈黙の豊かさ、あるいは遠雷のような心象の響き。現代日本映画が辿り着いたミニマルな情緒のひとつの結晶体。必見!
瞳を閉じたままアイコンタクトする。ホン・サンス『自由が丘で』
自由が丘で
加瀬亮に内在するコスモポリタンな浮遊性を、ホン・サンスがかつてないほどの柔らかさ、豊かさで引き出した逸品。好きな女に逢うために韓国に降り立った男が過ごす待機、探索、放浪、彷徨、忘失、呆然、それらすべてあり、そのいずれでもない時間。切れ切れの、散らばった、かけらの端と端とが、瞳を閉じたままアイコンタクトするような、世界で最初で最後の愛らしさ。
人生に結論はない。だから豊かなのだ。前田司郎『ジ、エクストリーム、スキヤキ』
『ジ、エクストリーム、スキヤキ』
人間には五感以外の感覚がある。そのことに気づかされる映画である。
おそらくそれは記憶と無関係ではないが所謂郷愁と呼ばれるものとは違っている。忘れない。あるいは憶えている。それはよみがえるのではなく現前にあるこの肉体にあらかじめ埋め込まれていたということなのではないか。もうひとつ別の目と耳と舌と鼻と皮膚がわたしたちには内蔵されていてそこから取り出してい
左利きの季節。『もらとりあむタマ子』に寄せて。
左利きの季節
山下敦弘は、とても日本的な監督である。彼は、季節というものを、彼ならではの方法で映し出すことができる。
『どんてん生活』は、妄想としての「花見」が出現することで終わる。『天然コケッコー』は、ある「供養」がおこなわれることで転換点を迎える。
季節は、可視化されるものばかりではない。それは、あたまのなかだけにあるものかもしれないし、目に見えないものかもしれない。
つまり、桜が咲
恋をすれば傷を負う。『箱入り息子の恋』
<想い出の2013年シリーズ>
『箱入り息子の恋』
恋とは何か。ひとそれぞれに答えを隠し持っているはずだ。この映画にはその答えのひとつがあると思う。
◎
恋とは何か。それは「素っ裸で落下すること」だとまずは言える。
星野源演じる息子が全裸で夏帆扮する娘の家の二階から落っこちる最終盤。彼が大きな事故に遭うのを目撃するのはこれが二度目であるにもかかわらずいや二度目であるからこそわたしたち
そこに人間がいる。大森立嗣『ぼっちゃん』
<想い出の2013年シリーズ>
『ぼっちゃん』
凝視する前に直視せよ
そこに描かれた人間を
日本人であればほとんどの人が記憶しているはずの秋葉原で起きた2008年の事件。その犯人をモデルにした映画である。
何が起こったかははっきりしている。彼がどのような状況下で暮らしていたかも大方判明している。事件当日ネットの掲示板に綴られた犯行声明と呼ぶにはあまりにも「ひとりごと」めいている言葉もさら
ひとつの曲の誕生は、微粒子の青春が終わっていくことに他ならない。三宅唱『THE COCKPIT』
『THE COCKPIT』は想像していた映画とはかなり違っていて
なんとも普遍的な「青春映画」で、その潔さに胸打たれた。
青春とはものすごく小さなものだということが、大上段に構えることなく、
かといってしみったれた手つきとも無縁のままで、言ってみれば、
彫刻刀を用いずに、あえて大屶で、木彫りの熊を彫っているような、
「でも、やるんだよ」的精神で、静かに疾走しながら伝えられていく。
ひとつの曲の誕生
紅茶のような珈琲。女優キム・ミニについて。
『逃げた女』
公私にわたるパートナー。という紋切型の言い回しがあるが、女優キム・ミニと監督ホン・サンスの関係は、そのようなクリシェの枠内におさまるものではない。ふたりの私的な間柄は、不倫として糾弾された。
スキャンダルとなってからもホン・サンスの作品制作ペースはまったく衰えず、キム・ミニをキャストの中核に据え続けている。そのことが、既に世界的な映画作家であった彼に、想定外の新展開と円熟さえもたら
「ワインの時間」としての映画『マチネの終わりに』
あの一杯が忘れられない。あるいは、一本のボトルが永遠に記憶に残る。
ワインを愛している方なら、きっとそのような経験がおありだと思う。
人生を彩るというよりも、人生の色彩をまざまざと浮き彫りにしてしまうワインの魔は、時間というものの有限性をあかるみにしながら、けれどもその時間にかけがえのない価値を与えてくれる。あの一杯が、あの一本が、心象に染みついているのは、ワインと自
これからどうなるかわからないから、恋をする。未知の現象、未知の時間を分かち合うこと。『窮鼠はチーズの夢を見る』
告白、ということについて、深く考えさせられる映画だ。
告白するということ、のみならず、告白されるということ、さらには、告白したあと、告白されたあと、について想いを馳せることになる。
告白というのは、片方の意を決した行為だが、ひとたびその行為がおこなわれてしまうと、一方のものではなくなる。望む、望まないにかかわらず、双方のものになってしまう。
ひとりのものだったものが、ふたりのものになる
意味を意味として。無意味を無意味として。伊勢谷友介『セイジ-陸の魚-』
「セイジ 陸の魚」を観る。あの「カクト」以来となる伊勢谷友介監督の長編第二作。まず、のびやかな筆致のなかにサム・シェパード的風土を隠し持つ悠々たる文体に、八年という歳月の豊かさと喪失を同時に感じる。しかしながら本作がほんとうにわたしたちに語りかけてくるものは、そのような映画的文脈に属するものではない。
言葉にも映像にも意味というものがある。混同されがちだが、意味とは説明でもなければ、メッセージでも