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「でんでらりゅうば」 第31話
――六人目の子どもを産んだとき、ついに安莉は諦めた。
「逃げることはできないんだ」
――心の奥で、重い錠前のかかる音が聞こえた。かちゃり、というその音を聞いた瞬間、安莉はたった今初めて気づいたように、腕のなかに抱いた生まれたての赤子の顔を見た。初乳を与え、判定役の衆が来れば二、三日中にはどこかの家へ連れて行かれるのはわかっていたが、小さな丸い頭とそれにぺたりと張りつくように生えている産毛、まだ人間のものとは成っていないできかけの顔のムグムグと蠢く様を見て、安莉は正気を失ったような顔で初めて赤子に微笑みかけた。
「お前、可愛いかね」
――――*――――
「でんでらりゅうば、……」
安莉はふと口を突いて出てきた歌を口ずさんだ。いつか、どこかで聴いた歌のようだった。そうだ、この村に来る途中、バスのなかで中学生の女の子たちが歌っていた歌だ。
安莉の口から出たその歌を耳ざとく聞きつけた世話女は、そそくさと近づいてきてこう言った。
「安莉さん、その歌知っとうと? それな、この村に伝わっとうでんでら竜の歌よ」
「でんでら竜」
安莉は眉をひそめた。
「そうよ。竜神さんやけど、ここではでんでら竜て言われとるたい。あっこん、大森様で祀っとらすと。いつからあっかわからん、古~い神様よ」
女は言うと、左手の掌を広げて、右手で握り拳を作り、その上にかざした。
「でんでら竜ば、出てくるばってん……」
そして器用に手の形を変えながら歌い出した。握り拳、親指、折り曲げた人差し指と中指、そして狐の形と、手は決まった形を順に繰り返してゆく。
「こん握り拳はね、石。石つぶての意味たい。手紙で石を包んで投げたり、あと置き石ちゅうてな、昔は手紙で石を包んで道に置いたりしよったとよ」
「人をおびき寄せるための手紙でしょう」
何かに憑かれたような顔をして、安莉は言った。
世話女はその様子に少し怯んだが、気を取り直して話し続けた。
「そんで、これ。親指ね。親指は男を意味するたい」
「美しい男で、女を引き寄せる」
憑かれたような声で、安莉は言った。声が、自分の声でないような気がした。
「それからこれが、お寿司。男女二人ていう意味もあったい」
「二人きりにして、恋を育ませる」
安莉は言う。女は安莉の顔色をうかがいながら、続けた。
「そんでこれ、狐。狐は神様の使いたいね」
「狐は二人の恋の行方を左右する。……または、冥界への扉を開く、案内役」
「……」
「そうでしょう?」
安莉の目に妖しい光の兆候を認め、世話女は身震いした。
……思えばあの瞬間に、自分は本当に気が触れてしまったのかもしれない、と安莉は思う。薄暗い座敷に引き籠もり、畳の黒い縁を指でなぞりながら、反対側の手で持った火箸で目の前の火鉢のなかの炭を動かす。薄暗がりのなかで黒い炭がひっくり返って赤くなる。
安莉は左上の欄間の方向へ眼球をぐるりと巡らし、ひとり考える。長男の康竜がもうすぐ十五……。まだやね。まだやんね。でも、もうじきやんね。そうこうしとったら、じきに年ごろになるったい。年ごろになったら、あん子にも嫁さんば探してやらんとたいね。……ていうことは、ぼちぼち準備にかかっとらんといかんってことたいね。
すっ、と静かに襖が開き、女が入ってくる。薫だった。安莉は昨年から大森の本屋敷に移り住んでいた。そのとき、身の回りの世話をする女として薫を選んだのだった。
「なんね」
気怠そうにひとつ欠伸をして、安莉は聞いた。頭を下げながら、薫は答える。
「あのう、澄竜さんのことなんですが……」
「澄竜が何ね」
安莉の声に、忌々しさが加わる。
「それが、今んとこより、もうちっと居心地んよかところに移してもらえんやろか、て言うとらすとですけ……」
言いにくそうに、薫は言葉を詰まらせる。
「はっ。何を言い出すかと思うたら」
安莉は呆れたように息をつく。
「厚かましか。そんなことをわざわざうちに言いに来たと?」
安莉の怒りを感じて恐れ入った薫は、もはや言葉を発することができない。
「罰を与えんとね」
安莉は荒々しく立ち上がって、襖に手をかけた。薫が沈黙したまま後に続く。
大森の本屋敷は、でんでら竜を祀った大森神社のすぐ裏手にある。ひとりで六人も子どもを持ち、しかも村のすべての家に健康な赤ん坊をもたらしたことで今や〝大奥様〟と呼ばれ村一番の権力を握ることになった安莉が蟄居している奥座敷からは、廊下を通って裏口にある木戸を開けば、澄竜のいるところは目と鼻の先だった。
裏庭の真ん中に、総木造りの頑丈な庵があった。一見、蔵のように見える外観ではあるが、それは明かり取りのための小窓が幾つか開いているに過ぎない特殊な造りのためであった。実際この建物は山の衆がこの一体を跋扈していた時代からあるかなり古いもので、かつては穀物庫として使われたり、村の掟に背いた者を収監したりするのに使われたという。村の創建時と言われる源平合戦の折には、平家の落人を匿っていたこともあると聞いた。今は亡き、星名の当主となるはずだった公竜も生まれたときからここに幽閉されていた。
その庵の鍵を持つのは、村長と安莉ただ二人のみであった。星名家の先代の当主で、澄竜の伯父でもある村長は安莉に鍵を渡すとき、こんなことを言った。
「ここは神秘的な場所でな……。昔、おかしけたな赤子が生まれっと、阿畑ん者が来て、皆取っていきよったんは安莉さんも知っとうやろ……。そん赤子たちはな、実は皆この庵ん裏やら周りやらに、埋められよったとよ。これは星名と阿畑の一部ん者以外、誰も知らん。
死んで生まれた子はよかけんど、おかしけたな姿で生まれて、まだ命のあった赤子たちは、阿畑ん者が殺して埋めた。昔から、こん村には仏教の教えも何も入ってこんやったけんね、墓石も碑も建てんと、埋めてそのまんまよ……。やけん、この庵ん周りは大昔からの死んだ赤子の魂がようけ彷徨いよるたいね。子どもんころからここに閉じ込められて暮らしとった公竜はそれが見えて苦しかったろうと思うたい。
……実際、公竜のことは本当に残念やった。知っとうと思うとやけど、我々は当初安莉さんに公竜と結婚してもらう腹やったたい。……けどあん澄竜の馬鹿が、勝手なことをしおってからに……。でも、公竜が死んでしもうたら、仕方んなかったったい。星名ん直系の血い引く男子は澄竜しか残っとらんかった。あいつに家継がせるしかなかったとよ」
――安莉さん、よう星名にいい子を二人も産んでくれもうした。これだけは、感謝してもしきれんたい……。
そう言いながら、村長は安莉の手を握り、そのなかに握り込まれていた庵の鍵を託したのだった。