- 運営しているクリエイター
記事一覧
「人生を軽やかに楽に生きる」という言葉には十分に注意しましょう
人生を軽やかに楽に生きる!?悟りとか非二元のスピリチュアリストたち、いわゆる、ノンデュアリストの方々が、「人生を軽やかに楽に生きる」というようなことを謳っていたりしますが、その言葉には充分に注意しなければなりません。
どういうことなのか?というなら、
「人生を軽やかに楽に生きる」ということは、「軽やか」ではない人生、「楽」ではない人生、それが良くないことというふうに捉えているということです。
ノンデュアリストとコースの実践者とのちがい
私たちが自我について学ぼうとしない理由非二元の探究者やノンデュアリティのスピーカーさんたちのことをノンデュアリストと呼んでいるわけですが、私がそのノンデュアリストさんたちを見て思うことがあります。
それは、自我について語るノンデュアリストがあまり見られないということです。
まったくいないというわけではありませんが、そのほとんどが非二元や真理や愛やワンネスといったものについてフォーカスして語る
「幻想に順位がある」から「奇跡に難しさの序列はない」へと思考を逆転させる
奇跡に難しさの序列はない私たちは、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践を通して何を修得していくのか?
というなら、「奇跡に難しさの序列はない」という奇跡の第一原理を修得していくのだと言うことができます。
それというのも、それが本来の正気(正しい心)の知覚の仕方だからです。
つまり、イエス/聖霊が知覚しているように、その知覚の仕方を私たちは修得していくのだということです。
その
イエスと共に見るとはどういうことなのか?なぜイエスと共に見るのか?
価値判断なしに見る、あるがままに見るコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践では、自我を咎めずに見るということをしていきます。
「咎めずに」という意味は、価値判断(ジャッジメント)なしに、ということです。
それは、目の前に映るものをあるがままに、目の前で起こっていることをありのままに見るということです。
そのとき、平安と共に見ることができます。
それをコースでは、「イエスと共に見
「真理を幻想に持ち込む」のではなく、「幻想を真理のもとに運ぶ」ということ
幻想を真理のもとに運ぶ「幻想を真理のもとに運ぶ」と「真理を幻想に持ち込む」とは、いったい何のことを言っているのでしょう?
今回はそのことについて書いてみたいと思います。
まず知っておかなければならないのは、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者である私たちがしていく実践は、「幻想を真理のもとに運ぶ」ことをしていくということです。
それは、幻想を直視するということです。
ですが、
ノンデュアリティといっても、「非二元」と「純粋非二元」に分類される
ノンデュアリストも二種類に分かれる非二元とか、悟りとか、目覚めとか、真理とか、そういったものについて探究していくスピリチュアリティ(霊性の道)を、ノンデュアリティ(非二元)、もしくは、一元論のスピリチュアリティと呼んでいます。
そして、そういった探究者たちのことを、あるいは、ノンデュアリティについて語るスピリチュアリストのことを、「ノンデュアリスト」と呼んだりします。
そういう意味でいえば、
「出家」の意味、「この世界からの脱却」の意味
出家について真理を探究する者たちがもっとも陥ってしまう間違いが、「レベルの混同」だといえましょう。
「レベルの混同」とは、霊性の道の訓練(修行)は本来心のレベルでなされるものであるにもかかわらず、物理的(肉体的/身体的/行動的)レベルのものと混同してしまうということです。
例えば、精神修行のために、肉体を痛めつけることをしたり、この世界から離れ、出家するとか、修道院に入るとか、人里を離れると
コースが神聖なのではなく、その内容が神聖なのだということ
コースの学びが深化していくときコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えを理解するようになっていくと、つまりコース形而上学を理解するようになると、かえってコース形而上学を武器にして、兄弟に対して、あるいは自分自身に対して、咎める、裁く、攻撃する、ということをしてしまうことがあります。
実際に、この私もそうでした。
コースの教えを歪曲している他のコース学習者に対して咎めたり、裁いたり、あ
悟り、覚醒、目覚めを求める探究者の誰もがよく陥りがちな勘違い
夢の主人公が目覚めるのではありません真理から言えば、本来私たちは神と一体の神の子であるわけです。
そうであるにもかかわらず、私たちは何をしているのか?というなら、真理とはまった真逆の夢を見続けているだけでなく、その夢の主人公と同一化した状態になってしまっていると言うことができます。
つまり、肉体/身体としての夢の主人公を自分だと信じてしまっているわけです。
真理から言えば、神の子が作り出した
自分の狂気さ、愚かさ、無知さを自覚することなしに、正気に至ることはけっしてあり得ません
霊的探究に潜む罠自我は、ニセの「霊的成長」「霊的向上」が大好きです。
いつも何かになろうとして、ここじゃないどこかに向かおうとする習性があります。
ただ在る、ということができないのです。
自我とはそういうものです、
そして、私たちは今やまさにその状態になっています。
自分とは何者なのか?
自分はどこにいるのか?
何をしているのか?
そのことをまったく忘れてしまっています。
そして、
学びの階梯の一番下に留まらないようにしなさい
コース学習歴の長さとコースの学びの深さは関係ないワプニック博士は、「学びの階梯の一番下に留まらないようにしなさい」とコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいる私たちに警告を促しています。
それが何を意味するのか?というなら、このコースの学びには階梯(のプロセス)がちゃんとあるのだということです。
私たちがコース学習のちゃんとしたプロセスを踏んでいくならば、その階梯を上っていくことに
「心を忘れた状態」から「心を自覚した状態」への完全なるシフトを目指して
このコースの学びのゴールは贖罪ですコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、私たちは何をしていくのか?
というなら、真のアイデンティティーを思い出すこと、さらには、その自己へとアイデンティティーをシフトしていくことだと言うことができます。
そのための実践的な手段が「赦し」だということです。
つまり、コース学習者である私たちは赦しの実践を通して「肉体の自分」から「心(夢