インテグラル理論と最新哲学、究極型パラダイム「最新哲学を導入したVerのインテグラル理論を作ってみよう」
インテグラル理論はメタ理論であり、スピリチュアル的な視点も持っていて、哲学とは異なる。そのため、インテグラル理論は「もっとも統合的な理論」だと言う割には、全く受け入れられなかった(このせいで、社会的にはインテグラル理論は、アドラー心理学のような自己啓発の一つのような扱いだった。そう思われていたら、ティール組織で実際に使える理論と再評価された流れがある)。
そういう背景があるけれど、本質的には最新哲学と矛盾するものではないようである。ということで、最新哲学を導入したVerのインテグラル理論を作ってみよう。今回はそういう思考実験であり、あくまで引用元が正しいかなど、正しさに基づくものではない。この点は注意喚起しつつ、思考実験を始めて見る。
※この動画を参考にして本記事を書いております。
インテグラル理論の土台が哲学によって吹き飛ばされたのは、「全体性」という考え方が、脱構築によって否定されてしまったから。
脱構築とは、これまでの固定観念などの構造を取り払って、新たに考え直そうということ。脱構築をし続けた結果、「普遍的・絶対的な真理や道徳は存在しない」という相関主義にたどり着いた。
インテグラル理論は「統合的な構造を作る」ことを目的としていたから、「普遍的・絶対的な真理や道徳は存在しない」という相関主義によって土台が崩されてしまった。
しかし、インテグラル理論の屋台は「統合的な構造を作ること」ではなく、「物事は部分的に正しい、部分的に間違っている。だからこそ固定観念に縛られず、視野を広げる必要がある」という相関主義にあった。インテグラル理論を潰した、相反するものだと思っていた相関主義こそ、インテグラル理論の本質だったのだ。
なので、インテグラル理論と脱構築は矛盾するどころか、脱構築の考え方をインテグラル理論は参考にしている。
脱構築は、「脱構築という思想そのものもまた、つねに脱構築され、つねに新たな意味を獲得していく」とし、「広義の意味での脱構築は、ありとあらゆる対象に向けて行われる、固定化された既成の観念の相対化を促す作業であると同時に、それを乗り越えようとする、新たなる地平への可能性の提示である」としている。
しかし、脱構築は凄まじい火力?でインテグラル理論どころか、一度これまでの哲学界隈を更地にしてしまったらしい(自分が調べた範囲では)。その結果、「みんな違ってみんないいが、それに干渉しようがない」という「結構何でもあり」の相対主義的な態度になってしまった。
しかし、そんなことをすれば、そもそも真理を追求してきた哲学をする意味がなくなってしまう。ということで、一度更地になった哲学界隈に新しく構築する形で、現代哲学ができているという(とてつもなくざっくりとした説明だと)。そこで、「視野を広げる必要がある」の部分に着目して、先に進むために相関主義の先を作ろうとした、というざっくりとしたイメージだ。
こうした考え方こそ、インテグラル理論らしさがある。特に「視野を広げる」というのはインテグラル理論的と言えるのではないだろうか。
インテグラル理論の四象限は現代哲学と相反していない。
現代哲学では、思弁的実在論と、新実在論を主に扱っている。
実在論とは、「人間の認識に関係なく実在は存在する」である。これは、インテグラル理論の四象限が、内面と外面を分けていることに一致する。
思弁的実在論では相関主義の考え方を受け継ぎつつも、その中から真理を見出す
相関主義では「見えている世界のことしか語れないのだから、その全貌を把握することは不可能であり、それは自身(主体)ですら同じ」「境界を見極められないので、自身(主体)も対象も自立して実在してはいない」とした。さらに、相関主義では「理性の上では、主観を超えた真理や価値に到達することはできない」つまり「お前の中ではそうなんだろ、お前の中だけではな」以上のことができなくなってしまった。これでは「真理追求といってきたのに」と哲学も屋台が揺らいでしまった。
そこで思弁的実在論では、「相関主義的な思考を徹底することで、相関主義の中にある絶対を見つけて、絶対はないと言ったくせに、絶対があるからおかしい」と、相関主義自体を揺さぶることにした。そして、その絶対となった部分は、真理だから哲学だ、ということにした。
その結果、分かったことは「すべての存在者は偶然に存在する」ということとなった。「つまり絶対はないのだから、これが存在するかは偶然で決まる、そのことは絶対だ」とした。だからといって偶然なら明日何でも起きてもおかしくないとは言えないから、「数学に基づいていているものは、人間の認識に関係ない」とした。これが思弁的唯物論となる。
インテグラル理論では、実在論的な外面と、「お前の中ではそうなんだろ」の相関主義の感覚的な内面を分けて考えている。このため、内面(感覚)は相関主義だけれど、外面は思弁的唯物論である。
個人的には、インテグラル理論の立場から、「あの世システム、天国と地獄、死んだら異世界転生」みたいなものを100%否定するつもりはないものの、たとえそれが事実あったとしても、いまある実在は、思弁的唯物論に基づいて振る舞っていると言えるのではないだろうか。このように考えることによって、宗教の押し付けなどを信者と対立することなく哲学的に否定することができる。そもそも科学とは、見えているものの振舞いを調べる学問であり、どこまでいっても見えていない世界を明らかにはできない。そういう意味で相関主義である。そこもインテグラル理論的である。
この点において、インテグラル理論の四象限は最新の哲学の一つ思弁的唯物論と矛盾しない。違うのは、最新哲学を導入していないインテグラル理論ではこれら境界を綺麗に分けていたのに対し、導入後では傾向として分けるだけで、絶対的には分けないということにある。これは、集団的知性のような感じで混ざる部分があるという見方だ。もちろんインテグラル理論もその見方であったが、境界としてみるのではなく、あくまで傾向として見た方がよいという形になる。
新実在論
マルクス・ガブリエルの提唱する新実在論は、インテグラル理論の個々人の内面側を切り分けることと対応している。図でいうところの、個人と集団である。
新実在論では主体と実在の関係を再考する形で、実在論を復権しようとする。そこでガブリエルは、シェリング後期の思索を参考にした。
シェリングの思索では、思考以前の存在で、偶然性、必然性、思考、心理が立ち上がってくる課程としての神話の解釈に取り組んでいる。
私達が物事を解釈し、理性を作る上で基礎となる「構成的神話」と、共同体が自己のアイデンティティを確立するために利用する「統制的神話」を区別し、前者こそがシェリングの成果だとした。
ガブリエルの実在論では、「意味の場」と「新実存主義」を用いる。対象が存在するかはそれがどういう意味の場に現れるかに依存すると考えた。
物語のキャラクターは、物語の中にはいるがその外にはいないなど。意味とは対象の現れ方であり、存在とは、何らかの意味の場に現れることだとした。物語られたことによって、その物語の中ではキャラクターが存在することとなったのだ。
しかし、一つだけ存在しないものがあり、意味の場が出てくる場所として定義された「世界」である。意味の場が出てくる場所それそのものは、「意味の場」に登場することができない(そりゃそうだ)。自身はその中に入ることはできず(物語の世界の中に自分そのものが入れないように)、そのため、世界が存在しない以上は、単一の意味の源泉はなく、絶対的となる唯一の意味や価値も存在しない。(インテグラル理論においても、物事は無限の入れ子になっており、すべてを包括するものはないとしている、その中ではできる限り含めたつもりのものをインテグラル理論としていた)
また、ガブリエルはそうした背景から、脳機能を中心とした意識の働きに焦点を当てた「心」と、歴史的文化的に形成されてきた「精神」を区別する。この「精神」に焦点を当てて、人間の行為を明らかにしようとするのが「新実存主義」である。
これによって、集団の内面と、個々人の内面を分けることができた。というわけで、新実存主義では、「心」よりも「文化」からより哲学を深掘りしようという立場を取ることとなった。
割とインテグラル理論に置き換えて行ってしまえば、「お前の中ではそうなんだろ」がまかり通ってしまう「心」の象限を度外視して、思弁的唯物論が通る外面の世界と、内面のうち「文化・集団の内面」に集中することにしたのである。もしも、何か事象に影響を与えるとしても「心」は「文化」や外面を経由しなければならないので、現れてから対象とすればいいという判断なのである。
またインテグラル理論的に言えば、実在論界では宇宙という意味での世界があるが、意味の場としての新実存主義(心・文化)では世界がない、ということができる。こうして、思弁的唯物論に基づく「身体・世界(社会)」と、新実存主義に基づく「文化」、自由な「心」と分けることができる。
とはいえ、これらの象限の境界は絶対的なものではなく傾向であるため、集団的知性などを通じて、哲学は個人の心の問題もある程度、解決することができる。
しかし、勝手にその人が妄想した世界で勝手に傷つかれても、その人の外でに問題がなければ対処のしようがないとも言えるわけだ。ようは「お前の中ではそうなんだろ」を否定できないことを残しつつも、もしも集団的に、実在的に問題が起きたら対処しなければ、という立場を取ったことになる。
インテグラル理論から考えれば、やはり「心」の世界だけはあなたのものなので、あなたで管理するしかない。外を変えるよりも、「心」を変えたほうが遥かに簡単ということになる。身体としてシンクロしてる部分のは「心」と比べると変えられない。
またインテグラル理論は「世界=宇宙かつ、科学で見えるところだけが世界という」「自然主義」よりも、新実存主義的な立場であることも間違いないだろう。虚構の世界だってたしかに意味としてはある。そういう風にフィクション作品だってあると捉えるほうがインテグラル理論的である。
インテグラル理論的な見方をすれば、たしかに世の中は、自然主義的に振る舞うが、新実存主義的に解釈したほうがより実際に適していて、究極的である、つまり自然主義を、新実存主義が含んで超えていると見る。
インテグラル理論は特に最新哲学に土台を壊されるほど矛盾するものではないが(無理やりすべてを成り立たせた感こそあるものの)、四象限と比べて、発達段階や、ブレイクスルーなどはかなりレイヤーが浅い。つまり、インテグラル理論の骨は最新哲学でもいいが、使う場合のインテグラル理論は哲学よりは浅く、あくまで社会学的な傾向をまとめた一つの指標だったり、アドラー心理学、マズローの欲求段階のような自己啓発、インテグレーティブ・シンキング、PDCAサイクルのような経営理論だと思う方がいい。しかし、特に最新哲学を否定していない以上、これらの発展を通じて、都合よく乗り換えて進むことが可能だ。
これがインテグラル理論の強みである。大事なのは、四象限や脱構築を大切にする姿勢、相関主義的立場と比べて、ティール、グリーンみたいな発達段階がレイヤーが浅い(つまり、ビジョン、戦略と戦術みたいなレイヤーの違い)であることに注意したい。これが一色淡になっているところが、インテグラル理論の注意点である。
究極型パラダイムと最新哲学 インテグラル理論の発達段階は真理ではなく、あくまで統計的なまとめと、How?的な方法論に過ぎない。
そして、実のところここからがちょっとした本題だ。哲学よりは浅いレイヤー(つまり、世の中が実際にどうなっているのか?Why?よりは浅くて、じゃあ実際に使うとしてどうするの?How?)としてのインテグラル理論において、これらの哲学がどう使えるか?という部分だ。
①「心」象限は哲学が放棄したのだから、自分で管理するしかない。逆に言えば自分で「心」はかなり自由に管理することができる。
心象限に焦点を当てた哲学もあるが、相関主義と脱構築によって、脱構築して考えその中で主観的な答え・真理を出せ、しかし、その答えだって部分的にしか正しくないし、あくまで主観的である。つまり、他の人間に対しこれが真理だと言い張ることができない。私がそう思うは、私がそう思うとだけ。しかし、文化社会、深層心理や、共感などによって影響を与えることができる。しかし、それはその時になって始めて哲学・倫理的な査定対象となる。そもそも、あなたにあなたの世界があっても、哲学のほうからは気にしない「世界はない」という立場となる。
「心」は自分のものであるから、「文化・社会」などを変えるよりは遥かに簡単である(これはインテグラル理論や哲学以前の当たり前の話)、もしもそうできないなら、それこそが重大な問題だと認識できる、といった構図がHow?的なインテグラル理論の本質である。
②インテグラル理論の発達段階を上げる方法として、そもそも現代哲学は非常に高い発達段階のブレイクスルーである。これらを導入することで、インテグラル理論的な方法論How?での解決策を見出すことができる。
インテグラル理論における発達段階では、統合と脱構築を類似のものと扱い、相関主義的立場を取って、これを構造や権力に対して行うことで、発達段階を高められるものとしている。相対主義(みんな違ってみんないい、ゆえに先に進めない)ではグリーン型パラダイムであり、相関主義では(だからこそ、より視野を広めて先に進む、真理を追求し理論構築しよう)という立場である。これはターコイズや、インディゴの発達段階で見られる傾向だ。つまり、現代哲学も発達段階を上げている、ようはクリアライト的、ひいては究極型パラダイム的なものがインテグラル理論的には推しの哲学となる。発達段階のほうが哲学よりレイヤーが浅い以上、あくまで傾向として推しているだけであるが。
脱構築はクリアライト的であることがインテグラル理論の著書内で記されている(矛盾するものではなく、むしろ支持している)。
あくまで個人的な見解でしかないが、究極型パラダイムでは「その人や、その集団、文化にとっての究極を目指すという意味で究極を目指そう」という立場である。これは見えている限り究極を目指そうという立場であり、これはそれが正しいから、真理だからといったWhy?レベルのレイヤーではなく、How?としての活用として使うことができる。なぜなら、究極を目指したところで本当の意味での究極ではない、相関主義だからである。
「単一の意味の源泉はなく、絶対的となる唯一の意味や価値も存在しない」のように考えることで、発達段階を高めることができる。それは集団レベルでできれば、これまでの組織からティール組織へのブレイクスルーとなり、強いては更に先の発達段階の組織への足がかりとなる。
「自分中心的→集団中心的→世界中心的→再帰的な集団・自分中心→究極・本質的」という順になる。この意味において哲学はやはり先を行っている。
哲学でも、この順で進んできた経緯があり、特に脱構築によって一度更地になったので建て直したという流れは、世界中心的からの再帰的な流れ、および究極・本質的な影響を持つ。
③インテグラル理論がやはり積極的立場を取るべきなのは、すでにティール組織という実例のある集団的真理、つまり組織の発達段階である。
個人の内面、スピリチュアルにも影響を与えるのがインテグラル理論であるが、あくまで個人の発達段階をどうするのかは、やはり個人に委ねられる。相関主義を啓蒙するのはいいが、それだって一度は組織の発達段階を経由する。必ず人は「構成的神話」も「統制的神話」を得るまでに、組織の影響を受けるからだ。組織の発達段階を変えることで、個人の発達段階に影響を及ぼすことができる。
その意味で、インテグラル理論は組織の発達段階的な立場を取るべきである。私も今後は究極型パラダイムは、ティール組織の先にあるあくまで組織方法論How?として説明するべきだ、ということだ。これも哲学的な背景から説明することができる。
④インテグラル理論における世の中の課題は、発達段階の不一致と、人に共通する傾向によって苦しむ人間が傾向的に発生していることに尽きる。
マゼンダでは生贄が生まれ、レッドでは暴力が生まれ、アンバーでは隷属が生まれ、オレンジでは過剰労働が、グリーンでは意見の不一致により先に進めないことによる停滞が発生した。これら致命的な傾向を解決する思索としてインテグラル理論はあくまで傾向的に、社会現象を捉えることができている。これはあくまで、社会学のHow?レイヤーであり、より本質的な心理学や哲学のレイヤーではない。
細部の細かな説明を省いているため、本当の意味でじゃあそれがどうして起きるのかを単純化しすぎているからだ。本物の哲学はその細かな所と永遠に議論するため難しいのだ。
しかし、単純化できるということはHowとして使い勝手が素晴らしいということになる。実際、インテグラル理論を理解しなければ私も脱構築や相関主義などの哲学を理解するのは難しかっただろう。そういうHowレイヤーとしてインテグラル理論は極めて有用な理論である。
あくまで簡易的な物差しなのだ。それも今回説明したように明確に線引きできるタイプの物差しではなく、傾向をあぶりだす物差しだ。
しかし、ゆえに使えるのである。というわけで、イノベーションを生み出すツールとか、自己啓発としてのアイテムとして、インテグラル理論を使いこなす、どう使うか?という方法論からの立場がインテグラル理論には欠かせないようだ。