解決困難な問題に直面したとき/『あやうく一生懸命生きるところだった』感想
人生において、自力で解決することが困難な問題に直面することが、誰しもあるのではないだろうか。世の中の飲食店経営者は、まさか未知のウイルスが世界に蔓延して、客足の減少、及び営業時間の短縮を余儀なくされるとは夢にも思わなかっただろう。
僕らは人生を望み通りに進められると信じているが、たった一度の波にさらわれる、か弱い存在なんだ。きっと。運命論者ではないが、人生には自分の力ではどうにもできない部分がかなり多いという点には同意するほかない。(P.71)
『あやうく一生懸命生きるところだった』/ハ・ワン著 岡崎暢子訳/ダイヤモンド社
そして自分も今、解決困難な問題に直面している。現在、メンタル疾患を患い実家療養4か月目だが、病気が良くなる兆候が一向にない。むしろ、一時期と比べ少し悪くなっているかもしれない。メンタル疾患には「これさえやっておけば大丈夫」というような治療法は存在しない。そのため、自分の力で病気のすべてをコントロールすることは不可能なのだ。
前回の記事で、人生にはその人なりの速度があり、他人と比べて焦る必要は無いと書いた。
もちろん、人生において解決困難な問題に直面した際、周りと比べて焦る必要は無い。しかし、焦る必要がないからと言って、その問題を放置し続けるのもまた違うように思える。
では、自力では解決困難な問題に直面した場合、一体どのような態度でその問題に対峙していけばいいのだろうか。
能動的に問題解決を図る
自力で解決することが困難に思える問題に直面した際、それで諦めてしまい、ただ時の流れに身を任せるだけでいいのだろうか。
この点に関して、著者のハ・ワン氏は、「人生は『答え』より『リアクション』が重要な試験」だと述べる。
イザベル・ユペールが主演した映画『ELLE』を見た。この映画は、主人公ミシェルが自宅に侵入してきた覆面男にレイプされるというおぞましいシーンから始まる。・・・(中略)・・・この事件の後も、ミシェルには次々と難題が押し寄せる。・・・(中略)・・・しかし、いかなる問題にも彼女は淡白に対応する。・・・(中略)・・・ミシェルはヒステリックに騒いだり、嘆いたりしない。だからといって自らに起きた出来事をされるがまま甘受するような人物でもない。自分を襲った犯人を突き止めようとし、直面した問題を解決しようと能動的に動ける人物だ。・・・(中略)・・・この映画は、問題が解決されていく様子が実に印象的だ。主人公の必死の努力と執念で問題を解決していく一般的なサスペンス映画とは一線を画し、出来事が自然と解決していくように見える。主人公のほんの少しのアクションがきっかけとなったり、あるいは何もせずとも、さまざまな問題が生きて動き出すように解決していく。主人公が意図していない方向に事態が流れて解決したりもする。でも、こんな解決の仕方が荒唐無稽だとか、非現実的だとは思わない。むしろこの状況こそが、より現実に近いのではないか。世の中は、そして人生は、決して一筋縄ではいなかい。すべてが自分ひとりで解決できるレベルの問題ではないからだ。(P.82~P.84)
『あやうく一生懸命生きるところだった』/ハ・ワン著 岡崎暢子訳/ダイヤモンド社
長い引用となってしまったが、解決困難な問題に直面しても、取り乱さず、能動的に行動することが大切だということだろう。
人間はよく、0か100かといった極端な思考に陥ってしまうように思える。問題が起きた際、まずは自分ですべてコントロールして解決しようと試みる。しかし、それが不可能だとわかると、諦めてしまい、一転して何の努力もしなくなってしまう。
しかし、そのような0か100か思考では、人生を進めていくうえで大きく不利になってしまう。なぜなら、上記の引用文にあるように、人の身に降りかかる問題は、そもそも自分で解決できるレベルの問題ではない。よって、自分で100%解決しようとする姿勢がそもそも間違っているのだ。
しかし、自分で解決できないからと言って、何もしないというのもまた間違っている。解決困難な状況でも能動的な行動を起こすことで、結果として自分が意図しない形で問題が解決していくことがあるからだ。
能動的に働きかける姿勢と、問題が解決するまで冷静に待ち構える姿勢。この二つの相反する姿勢のバランスをとっていくことが、解決困難な問題に直面した際、非常に重要なのではないだろうか。
とにかく人生を楽しむ
また、ハ・ワン氏は、人生に降りかかってくる数々の問題について、次のように述べている。
よく人生は「なぞなぞ」にたとえられたりする。目の前に突き付けられた、わかるようでわからない問題を解こうとする点では、確かに似ている。誰もが正解を求めて苦労し、考えれば考えるほど迷宮にはまっていくのも、なぞなぞのひっかけ問題みたいだ。しかも、その答えが正しいか否かも確認させてもらえない。ただ自分で答えを探し続けるだけ。・・・(中略)・・・では一体、どうして答えのない問題に挑み続けるのか?それはきっと楽しいからに違いない。なぞなぞの本質は楽しさにある。そうだ。本来、楽しむことが目的のなぞなぞに、ぼくらはあまりにも死に物狂いで挑んでいるのではないか?答えを探すことだけに集中し、問題を解く楽しさを忘れていないだろうか?なぞなぞは、必ずしも正解しなくていい。間違えても楽しいのだ。(P.79~P.80)
『あやうく一生懸命生きるところだった』/ハ・ワン著 岡崎暢子訳/ダイヤモンド社
人生に降りかかってくる問題に対して、このような視点から考えたことは無かった。例えば自分はメンタル疾患という問題を抱えているが、病気を改善するために必死で病気に関する本を読み漁った。そして、どうすれば治るのかを必死で考え、そこに楽しむという姿勢は無かった。
実際、問題が起きた際には、その問題を解決しようと必死にもがいてしまう人はとても多いと思う。しかし、どれだけ困難だと思える問題に直面しても、人生は楽しむことができるということを忘れてはならない。
霜降り明星・粗品の父親の話
ここで、お笑いコンビ霜降り明星・粗品の話を思い出した。粗品は自身が高校生の時に、父親が医師から「余命1年」であると宣告されたという。
そして、家族で会議が開かれ、父親は粗品を含め家族に対してこう言ったという。
「余命1年と言われたが、悲しんでいても仕方がない。残り1年の人生、家族でいろいろなところに遊びに行って、楽しい思い出をいっぱい作ろう」
これぞ、解決困難な問題に直面したときの、正しい人生のリアクションではないだろうか。余命を宣告されること以上に解決困難な問題がこの世にあるとは思えない。身体的な不調は相当なものだろう。しかし、それでも人生は楽しむことができる。いかなる状況でも、人生は楽しむことができる。
この年になって、人生が一つのジョークのようにも思えてきた。「正解のないなぞなぞ」というジョークだ。ジョークを投げかけられたなら、ジョークで応酬したらいい。深刻になりすぎる必要はない。毎度毎度、真摯に向き合わなくてもいい。答えを探す必要はもっとない。(P.85)
『あやうく一生懸命生きるところだった』/ハ・ワン著 岡崎暢子訳/ダイヤモンド社
解決困難な問題に直面しても、問題を放棄せずに能動的に動くこと。そして、人生はいかなる時でも楽しむことができること。今も、そしてこれからも、自力で解決困難な問題に直面した際には、この2つのことを忘れずに生きていきたい。
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