人生のあと片付け。
夏休みにドイツから戻り、東京で幾日か過ごした後、元実家でかつての生活のカケラだった物たちの片付けをずっと続けている。
9歳から18歳までこの家で暮らした。
両親は今はすぐそばの別の家に住んでいる。
その元実家に3年前に奈良から引っ越しをした物をほぼ全部置いた状態になっていた。
「今回は帰国したらちゃんと片付けをして!」と母からキツく申し渡されていた。
奈良に暮らしていたのは、2018年1月から2019年4月までだった。最後の4カ月は私独りだったので家族はもっと短い期間。
家族5人が揃って暮らした最後が奈良。
念願だった助産師学校に通い、子供達は地元の公立小学校や幼稚園に通っていた。
助産師学校は掛け値無しに忙しく、私はほとんど家に居る時間はなかったので、元夫のDがその間主夫をしていた。
Dは日本語が全くできないので、学校関係のお知らせに目を通したり、週ごとの延長保育の申し込み用紙を書いたり、スイミングやソロバンの習い事などの諸々の手筈は全部私がしていた。
看護学校がキツく厳しいのは、一般にもよく知られているようだが、助産師学校の大変さは優にその十倍くらいだった。
さらに私が通った学校は、学位論文を書いて看護学士の資格を取れるのがウリだった。
膨大な座学と試験、演習と実習の合間に学位論文を書かなければならなかったので、その忙しさは殺人的だった。
22歳の頃に勤めていた病院で、日本で始まったばかりのレーシックをモニターで受け(無料だが実験台)ド近眼が治ったのだが、この1年間に勉強とパソコンの見過ぎで視力が一気に下がってしまった。
当時42歳の自分が、21歳の学友と机を並べて学んだ助産師学校のアレコレは、またいつかの機会に書いてみたいと思う。
要はそういう日々の残骸が残った荷物が元実家に3年間放置されていた。
帰省して早々「暑くなる前に早く片付けて!」と冷房の無い部屋で、熱中症寸前まで汗だくになるのがここ数週間の午前中のルーティンだった。
不要でまだ使える物を引き取ってくれる施設があり、そこに渡すもの、置いておきたい物を選別する。
大掛かりな断捨離で、途中、心中色々なことが浮かび止まりそうになる手を励ましつつ片付けを続けた。
ずっとここの片付けをするのが、少し怖くて尻込みをしていた。だって片付けながらきっと沢山のことを思い出すはずだから。
Dが残していった物もあった。
私が彼にあげた高かった自転車やオーブンの最終始末もしないといけなかった。
以前ならもしかしたら“後片付けを押し付けて”と怒りがあったかもしれないが、不思議とそういう気持ちは湧いて来なかった。
「これは自分がやる片付け」そう思っていた。
それだけ時間が経って、それだけ自分の中で折り合いが付いたのかもしれない。
あぁ...別居して3年が経ったんだもの。
物たちは、語る術を持たずとも思い出やその頃の時間の残り香のようなものを、固有にそれぞれが纏っているように感じた。だから物と自分の会話があって、それができたようにも思う。
そして先日、息子二人と奈良を訪れた。
彼らが通った小学校を訪ねて、長男が1年生の時にお世話になった担任の先生とお会いできた。
I先生は疫病禍で早期退職をされていた。
2年前の3月のバタバタで、退職のお別れも出来ないままだったそうだ。
長男は1年生の二学期の終わりにドイツ帰国することになり、その時の別れが今でもとても心に残っていると度々話す。
クラスメートの女子が数名、泣いて惜しんでくれたそうなのだ。その時のことはI先生にとっても特別な思い出になっていると今回教えてくださった。
学校や幼稚園を訪ねるのはよかったが、住んでいた家を訪ねるのには胸がドキドキした。
あまりにも今と過去の状況が異なっていて、自分がどんな気持ちになるか事前にはあまり想像ができなかった。だから実はちょっと怖くって密かにドキドキしていた。
息子達、キミたちにはそんな動揺は一切見せず、でも母はあの時不安だったのだよ。
それで家の前に車が停まっていて、今は別の家族が住んでいるのだなぁと分かった。
表札を見たらローマ字で書かれたものが、母の旧姓と偶然同じで、ふっと緊張が解けた気がした。
そっかぁ...全然馴染みがない苗字じゃなくてよかったよ。
住んでいた頃の我が家の表札のデザインが素敵で、大切にドイツに持って帰ったけれど。
そのあとの怒涛の出来事の中で、ある日やっぱり荷物の整理をしていて、その時に大事だった表札も捨てた。二つの苗字が彫られた表札は、もう決して必要になることはない...って確信した時に。
“ごめんね”って言ってひっそりと捨てた。
人生で色々と処分した中で、胸が今でも痛む物の一つだと思う。
夏休みの子供達の近況の写真もDに送っている。日本での様子を全く知らせないなんて意地悪いことはしたくないから。
私は写真が好きで彼は嫌いだったから、一緒の時もいつも私がカメラを構えていた。
だから子供達とは彼の方が多く一緒に映っている。
今は、私が撮るものの中に彼の姿はない。
子供に頼めば案外上手に、私と残りの子供達の姿を撮ってくれる。そういうことも哀しいとも思わなくなった。
そこに自分がいないことを、彼は送った写真を見て思うのだろうか...?
ふと考えてみるがそれも一瞬。
生まれ故郷にいると彼との距離は遠く遠く、ずっとこういう風でいたい...と心の奥で思っている事に気がつく。
知ってるけど、それが無理だからシンドイのよ...
と、ストレスで荒れていっつもヒビ割れてたはずの掌がキレイになっていて、自分の掌を撫でて想う。
遠い所から親友が訪ねてくれて、二人で温泉に行ったり、散々夜中まで語り合ったりもした。
お互いに会わない期間に大きな別離を経験していた。神戸を、昔まだここに暮らしていた時のことを思い出しながら一緒に散歩もした。
震災前の風景の記憶は、重なる部分と重ならない部分があって、街も人も変わっていくのだと気がつく。
今回、奈良に行けてまたあの地に立てたこと、そして荷物の片付けを出来たことは自分にとってかなり大きなことだった。
やり残した仕事を終わらせたような、少しの切なさと達成感を感じている。
暑い暑い日本の夏。
今年は子供時代の長くドキドキした夏休みの様でもあった。
たくさん泣いて、笑って、汗をかいた夏。
帰国して良かった