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【展覧会感想】 「日本 現代 美術 私観」。東京都現代美術館。2024.8.3~11.10。---「ほぼ理想的なコレクション」。

 自分自身が30代になってから、急にアート、それも現代美術と言われる分野に興味を持って、特に今、制作を続けているような、日本のアーティストが、特に魅力的だと思うようになった。

 それが1990年代の後半のことだった。


急に興味を持ったアート

 自分でも、不思議なのは、それまで、西洋でも東洋でも日本でも、美術やアートにほぼ興味がなかったことだ。

 それが、その頃、もしかしたら父親を亡くしたことなどもあって、心理学者のユングに詳しい人からは、中年の危機などと呼ばれる時期だったのかもしれず、そこに、アートが入ってきやすい余地があった可能性はある。

 さらには、自分自身がライターという仕事をしていて、どうすればもっと人に伝わるのだろうか、といったことを、自身の能力でできるかどうかは別としても、ずっと考え続けてもいた。

 そういった時に、それまであまり見たことがなかったような現代アートの作品を見て、勝手な親近感を覚えたのかもしれない。

 ここにも、切実に伝えようとしている人たちがいる。

 それは無知な人間の勝手な思い込みかもしれないけれど、それから現代アート、現代美術と言われる分野が好きになり、細々とながら、20年以上、見続けることができた。

 意外だったのは、興味を持つ前は、余裕がある人の趣味のように思っていたのに、自分自身が、精神的に追い込まれ、とても辛いときにこそ、アートに触れたくなったことだ。

 うそがないと思える作品を見ると、心が底からさらに底へ落ちそうなところを、支えられた気がした。だから、ある意味では、大げさに言えば、自分にとって必要なものになっていた。

ネオテニー・ジャパン

 おそらく、自分がもっとアートや美術界に詳しかったら、もっと早くから、この「高橋コレクション」のことを知っていたはずだけど、最初にその名前を目にしたのは、全国を巡回した展覧会になった、2009年、上野の森美術館での「ネオテニー・ジャパン」だった。

 それは、日本のアートについて、「ネオテニー(幼形成熟)」という視点で提示する、というテーマのようだった。やや不正確な言い方にすれば「いつまでも大人にならない感じ」は、特にバブル以降の日本では、明らかになっていたはずだから、このテーマは的確だと思ったし、何しろ、そこに展示されている作品が魅力的だった。

 1990年代後半にアートに興味を持ってから、自分の中ではスターだったアーティストが勢揃いしているように思えた。奈良美智、村上隆は、すでに世界的な存在になっていたが、会田誠、小沢剛、加藤泉、伊藤存、さわひらき、加藤美佳、村瀬恭子、山口晃、など、これまで見てきて、また見たいと思うような作家ばかりが揃っているように見えた。

 このときは、こうしたオフィシャルな記事によると、33人の作家で、約80点の展示だった。

 それほど巨大な展示室を持たない場所だったから、規模としては適正だとは思うのだけど、実際に、その展覧会を見ているときは、もっとたくさんの作品に囲まれているような気がしたのは、これも、本当に勝手な思い込みに過ぎないのだけど、もし、自分にお金と保管場所があったら、欲しい作品ばかりだったからだ。

 これだけ、多彩な作家を集めながらも、自分が好きだと思える作品ばかりが揃っている展覧会はあまり記憶になかった。

 それは、自分の好みというだけではなく、この時代の日本の現代美術の歴史にとって、重要な作品ばかりだと思った。しかも、その作家の初期作品も多いから、場合によっては破棄される可能性もあったし、こうして誰かに購入されることで、その作家がアーティストとしての活動を続ける大きな動機になっていたことを考えると、これが個人のコレクションであることへの驚きと、さらには、すでに歴史的な意味が生じているようにも感じていた。

 その会場に、たまたま高橋龍太郎氏本人がいた。

 これだけの質の高いコレクションをしていることと、さらには、大変なのは間違いないのに、こうして一般に公開してもらっていることの御礼を伝えたくて、失礼だとも思ったが、話しかけて、ぎこちなくても、そのことを伝えた。

 高橋氏にしては、知らない変な男性が、熱量だけはあるけど、よくわからないことを言っていた、という印象になってしまい、すぐに記憶からは外れるような出来事であったと思うけれど、そうであっても、私自身は、アート、特に、この「ネオテニー・ジャパン」に展示されているような作品に、辛いときを支えられた恩のようなものを勝手に感じていたので、少しでも伝えられてよかったと思っている。

 しかも、高橋氏が本格的にコレクションを始めたのが、1990年代後半と知り、自分がアートに興味を持ち始めたときと、ほぼ同時で、だから、もしかしたら同じようなタイミングで作品を見てきたかもしれないなどと思った。

カオスラウンジ

 そのあと、「高橋コレクション」の名前を聞いたのは、その翌年だった。

 カオスラウンジの作家たちは、その2010年には新しく思えた。

 インターネットが生活と共にあるようになってからの価値観や美学のようなものが反映されているように思えたせいもある。

 そして、「失われた30年」と言われるほど、社会的には下降線になっている時代のことも表現されているようにも見えた。

 現代アートに興味を持ってから、10年以上が経って、急に時代が変わるような作品が現れ始めたと思い、同時に、その展覧会が「高橋コレクション日比谷」で行われたので、高橋氏は、こうした「新しさ」も支えているのだと知り、それもすごいことだと思った。

 その後も、合計で日本各地で、20回以上の展覧会が行われているようだったけれど、自分が行けたのは、地元に近い展覧会だけだった。

日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション

 そして、いよいよ、という言い方は変かもしれないけれど、あの東京都現代美術館でも、高橋コレクションの展覧会を行うことを知ったのは、昨年(2023年)のことだったと思う。

 2024年の夏から秋にかけて、自分にとって、いくつかぜひ行きたい展覧会があるとすれば、今年は、この高橋コレクションは、ベスト5には入っていたと思う。担当学芸員は、藪前知子と知り、あの東京都現代美術館での「大竹伸朗 全景展」を担当していた人だったので、余計に行きたいと思った。あれだけ、全館を使ってくれたことで、大竹伸朗の凄さも伝わったのだと思ったし、1回では見足りずに、2回行った。

 ただ、2024年の東京都現代美術館の「高橋コレクション」には、なかなか行けず、できたら妻と一緒に行きたいと思っていて、でも、体調も含めて、難しそうになり、会期終了間際まで、気持ち的には粘っていたのだけど、あと1週間くらいになり、あきらめそうになったのだけど、土曜日に午後8時まで臨時に開館時間を延長すると知り、仕事の後に清澄白河に行けば、2時間強は、鑑賞時間が確保できると思った。

 本当はもっとゆっくり、妻と一緒に行きたかったけれど、仕方がないので、土曜日に美術館に向かった。なんだか必死に歩いたせいか、美術館に着くまでに、寒くなってきたのに、汗びしょびしょになり、シャツだけは着替えたのだけど、その上のワイシャツは、かなり透けて見えるくらい濡れていた。

 それでも、なんとか着替えて、荷物はロッカーに入れ、必要なものだけをエコバッグに入れて、展示室に向かった。

「若い世代の叫び」

 展示は、いくつものテーマに分かれて展示がされている。

 最初は、第1章「胎内記憶」とあって、戦後すぐという、もう70年以上前の東京現代美術館に収蔵されていた作品と、高橋が初期にコレクションした合田佐和子、草間彌生らの作品が並ぶ。これは、1990年代後半から本格的にコレクションする前の作品らしい。

 こうした、本格的なコレクション以前の作品は初めて見たし、それは、コレクターであり精神科医で、1946年生まれの高橋龍太郎の生きてきた歴史的背景を改めて分からせてくれる展示だった。

 コレクションを見て、まるで自分と同世代の人のような錯覚をすることもあるのだけど、高橋氏が、自分よりも上の世代の人であることを感じて、だからこそ、その後の、1990年代以降のコレクションも、ただ、その頃の若い人たちの作品を集めた、というものではないことにもつながっていく。

 第2章「戦後の終わりとはじまり」では、小さな棚のようにも見える「なすび画廊」が、壁に並んでいた。

 小沢剛の作品で、銀座を中心とした貸し画廊で、かなりの金額を払って1週間程度、作品を発表する。といった方法しかなかったのが、1990年代の現状だったようだけど、そうしたこと自体に異議を唱えるという意味でも、当時、まだかろうじて存在した家の前にある牛乳ビンを置いていくための箱を、とても小さな画廊に見立て、確か、当時、銀座にあった「なびす画廊」の近くに、小沢の同世代の作家を中心に、その中に作品を設置するというものだった。

 それを聞いたとき、すごいと思い、そして、そうした当時では「新しい動き」でもあり、日本独自の環境を背景とした作品を、当時の若手作家が、つくり始めたのが1990年代で、それを象徴するような村上隆や会田誠らの作品が並ぶ。

 何度も見てきて、だから、すでになつかしさもあるけれど、でも、新鮮で、当時の作家の切実さが、作品の中には当然ながらまだ宿っているようだった。

 それを、高橋が「若い世代の叫び」と表現していたようだが、確かに、そうした気配が漂う作品ばかりに感じた。そして、それはコレクションに共通する基準のようにも感じた。

 私も、その「叫び」のようなものにひかれて、現代美術に興味を持てたのかもしれない。

 今回、1993年から1994年に行われた「ザ・ギンブラート」と「新宿少年アート」の記録映像を見た。そこには、この展示室に並んでいる作品を制作していたアーティストの若い時の姿が映っている。

 なんだか不思議な感じがした。

 第3章 「新しい人類」では、奈良美智の作品があり、例えば「Untitled」(1999)は、今も新鮮で気持ちがよく、切実だった。船越桂の彫刻は澄んだ印象のままで、加藤泉の作品は隣町のギャラリーで初めて見たときの印象の強さが変わらなかった。

 人間を描いた作品は、人によって、これだけ違うことを改めて感じる。

 それも、ベテランだけではなく、最近見て印象に残っていて、文句のつけにくい完成度を見せて、しかも新しく思えた1999年生まれの友沢こたおといった若い作家の作品にも、幅の広く、でも納得のいく選択をしているように見えるし、私は恥ずかしながら知らない作家だったけれど、1992年生まれの村上早の作品も、うそのなさがあって、この展覧会に並んでいる作品と同じく、とても魅力的なリアルさを感じるものだった。

 本当にコレクターの選択眼が一貫していると思うから、あまり盲信するのも失礼なのだけど、高橋コレクションは、世代に関わらず、新しさがあったとしても、どこか切実な気配は変わらずに、いい作品ばかりだと改めて思う。

 そして、人間の描き方は、とても豊かで、だけど、同時にこれだけの可能性を見せてくれるアーティストの人たちの凄さと、それをきちんと見逃さずにコレクションして、こうして一堂に見せてくれる可能性を残してくれた高橋龍太郎氏も、これだけの年数と数が揃うと、やはりすごいと思わせる。

 ここまでで、1階の展示室。まだ、地下2階の会場がまるまる残っている。

歴史と瞬間

 当たり前だけど、ずっと同じようには時間が流れない。

 そして、時代に影響を受けない人はいない。

 ハンドアウトによると、東北地方にルーツを持つ高橋氏は2011年の東日本大震災と福島第一原発事故によって、大きな感覚の変化があった、という。

 その災害と事故を、かなり生々しく、というか、今見ても、そして、東京にいて、直接その被害にあっていないとしても、そのときの緊張感と不安のようなものが直接、伝わってくるような作品も、4章「崩壊と再生」の展示には並んでいた。

 そして、アトリウムという広い空間に並ぶ、あのときの感覚を思い出させるような巨大な作品が並び、そして、そこには、作品の巨大さによって、圧倒される気持ちよさのようなものもあった。

 その後も、5章「私の再定義」、6章「路上に還る」と続き、それは時代によって変わった自分の感覚にも忠実に、だけど、切実さのようなものを感じさせる作品が並んでいる。

 これでもか、と作品が並んでいる。歴史と瞬間がそこにある。厚みはあるけれど、新鮮さを失わない。

 これで終わりかと思うと、終わらない。

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(『東京都現代美術館』サイトより)。

 ここに並ぶ固有名詞の、それぞれの作品を見たと思うだけで、再び、気持ちが盛り上がるようだ。

 全部で約230の作品が出展されているらしいのだけど、体感としては、もっとあった。そして、2時間弱で見たのだけど、それは午後8時の閉館時間を意識して、少し早足の鑑賞になってしまった部分も多くて、本当だったら、もっとゆっくり見て、一度、お茶をしてから、またゆっくりと見て、最低でも半日をかけたい気持ちがした。

 充実した展覧会だった。

 そして、人が思ったよりも多くて、さらには若くておしゃれでセンスの良さそうな人が目立ったのも、なんだか心強かった。

個人的な収穫

 ここ何年かで、もっともすごい作家の一人で、これからの未来もつくってくれるだろうと思っているのが弓指寛治という現代美術家だった。2024年も、上野の国立西洋美術館で行われた初めての現代美術の展覧会でも、本当に凄さを見せていた。

 その弓指寛治のデビュー作ともいえる「挽歌」が、アトリウムで、他の巨大な作品群の中に並んでいた。

 これだけの作品を最初に描いてしまったら、後が続かないのではないか、そんな心配さえさせるような、どれだけの心身をここに注ぎ込んだかはわかるような作品があった。

 すごかった。

 そして、高橋コレクションの中にあったことに安心感もあった。


 さらに、地下2階の展示は、これでもか、と作品が並んでいて、最後の展示室になって、ずっと見たいと思っていた大きな作品も見ることができた。

 この本を読んでから、ずっと見たいと思っていたことを、根本敬の「樹海」を目の前にして、改めて思い出した。

 濃密な作品だった。長いキャリアの全てを惜しみなく注ぎ込んだような必死さがある絵画だと思った。

 この展覧会の紹介で、弓指寛治の「挽歌」や、根本敬の「樹海」に正面から触れた記事などに記憶がなかったから、この2つの作品を見ることができたのは、意外でもあったけれど、自分にとっては収穫だった。

 そして、どちらも高橋コレクションの中にあるのは、どこか納得感もあった。


 仕事の後で、少し疲れていて、清澄白河は遠いし、歩くし、と思って、一瞬ひるんでしまったけれど、会期終了間際に来られて、そして見ることができて、本当に良かった。

 帰ってから、展覧会のことを妻にも伝えた。

(すでに終わってしまった展覧会ですが、高橋コレクション、として、これからも、さらにコレクションを増やしつつ、全国で展覧会をしてくれると思っていますので、この記事で、興味を持ってくれた方は、そのときは、ぜひ鑑賞をお勧めします)。





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おちまこと
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