【展覧会感想】 『111年目の中原淳一展』 渋谷区立松濤美術館 2024.6.29~9.1。----「美意識の本物」
どこかで必ず見たことがある。
同時に、そのためか、わかっていたような気になっていた。
中原淳一。という名前と共に、その作家の描く女性は目にしてきたのだけど、展覧会を行うのを知って、しかも、渋谷の松濤美術館という、ある意味では、特徴が強目の場所で開かれるから気にはなっていた。
できたら妻と一緒に出かけたい展覧会を、いくつか相談して決めた。
その中に中原淳一の展覧会も入っていた。
7月には、竹久夢二展を見た。
思ったよりも良かった。
そして、時代的にも、竹久夢二の影響を受けたに違いない中原淳一の展覧会に、8月の終わりに出かけることになった。
ハチ公バス
コロナ禍以来、今も外出をなるべく控えるようにしているのは、まだ収束していないからだけど、さらには人が集まるところも避けるようにしてきたから、妻と一緒に渋谷に行くこと自体が久しぶりだった。
妻は私よりも、もっと渋谷はごぶさたしていたはずだった。
快適な季節であれば、気持ちよく、しかもいろいろなものを見ながら歩けるはずの渋谷から松濤美術館のルートも、今年の夏は特に暑いので、ちょっと遠くに感じてしまい、行くまでに疲れてしまうのではないか、といったことを考えてしまうようになった。
そこで、「ハチ公バス」という存在を知って、渋谷駅から松濤美術館まで、そのバスで行くことにしていたのだけど、東横線の渋谷駅で降りたら、渋谷駅西口がどこかわからなかった。ホームの案内板で探して、焦って、でも右の上隅に渋谷駅西口バス停という文字を見て、A8を目指した。
エスカレーターをいくつも上って、何度も曲がって、歩いて、どこを進んでいるのかよくわからなくて、だけど、地下から地上を目指しているのだけはわかって、そのうちに、昔も知っているような場所に出たと思ったら、渋谷駅西口はハチ公がいるところだった。
なんだか、そのあたりの様子はかわっていて、それを強く感じたのは妻の方で、でもハチ公バスのバス停がどこかわからないので、そこにいる警備の男性に尋ねて、西武デパートのそばだと知った。
そこからスクランブル交差点を渡って、バス停を見つけ、そこには3種類のハチ公バスが来るらしく、そういえば、警備の男性はやや聞き取りにくい話し方だったのだけど、オレンジ色の車体と言ったのは覚えていた。
時刻表もプリントアウトしていたのに乗れなかったのは、駅から、ここまで来るのに、思ったよりも時間がかかったから、次のバスまで約20分。歩いたら松濤美術館に着くかも、と思ったのだけど、温度も高いので、やはり待つことにした。バス停の前のショッピングビルの冷房が外まで漏れてくるので、それで少し涼みながら待った。
バスが来て、乗り込む。思った以上にコンパクトで、一番後ろの席は、特に座面が狭いため、とても薄く見えたが、それでも妻と並んで座って、そのバスの経路は、駅の周りをぐるぐる回って、想像以上に長い距離を走って、東急本店の前を通ったら、建物がなくなっていてBunkamuraの裏側を初めて見た。などと思っていたら、松濤美術館前に着いた。
久しぶりに来たけれど、松濤美術館は、やはり独特の有機的な雰囲気のある建物だった。
111年目の中原淳一展
館内には、平日なのに、思ったよりも人がいた。
展示は2階の会場からだった。
中原淳一は、1913年生まれ。
10代で自作の人形で注目を浴びて、活躍を始めたらしい。そういうことも、今回の展覧会を見なければ知らないままだった。
若い頃から、才能を発揮していた人のようだった。それは、中原が影響を受けたという竹久夢二と同様に、独学で若い時から活躍していたことと重なるものの、それができる人はごく限られているのもわかる。(中原は、10代で美術の学校にも通っている)。
私が知っている中原淳一の作品は、戦後の「ソレイユ」の表紙絵に代表される、オードリー・ヘップバーンにも似ている女性だった。それは、戦後に、より西洋化が進んだ証のように思っていた。
だけど、初めて見たはずの戦前の中原淳一の描いていた女性は、不思議なたたずまいだった。竹久夢二の影響も受けているのだろうけれど、でも、それとは違って、竹久夢二が、あくまで大人の女性を描いていたとしたら、中原は明らかにもっと若い女性、少女といっていい年齢の人物を描いていたし、それは、不思議な不安定さもあったから、どちらかといえばホラーの登場人物のようにも見える。
ただ、それが思春期なのだろうし、だから、戦前といっても、魅力的で、鮮やかで、ただ男性に依存するような姿には見えなかったから、10代の女性に人気があったのだろうと想像ができた。
ガラスケースに並んでいる、カルタや、ノートなど、そのデザインされたものも、手に入れて、そばに置いておくと、自分の毎日の暮らしが変わるような、ただピカピカに明るいわけではないのだけど、やはり希望を持たせてくれるような光を感じさせるものだった。
あの時代に、こんな美しいものを享受していた人たちはいるはずで、それは、やはり豊かな層が中心だったのかもしれないが、雑誌などを通して、こうした作品を発表し続けたということは、中原淳一は、より広く届けようとしていたような気がする。
戦争とは縁遠く見える作品で、気持ちが浮き立ち、そこに魅入られてしまうような魅力もあるから、観客の想像通り、太平洋戦争が開戦する前年の1940年からは、軍部の圧力があったせいか、表立って仕事をしなくなったらしい。
そうした社会の都合で、この作品が目に触れなくなったら、それは、ある種の豊かさを排除した、ということにはなるのだろうけれど、読者にとっても、毎日が暗くなってしまうのに、とは思った。
それでも、その時代のことは私は知らないし、中原は1933年に20代を迎え、そこからの10年以上が、戦争が激しくなってくる時代になるから、早くに才能を認められ発揮し始めたのにやっぱり残念というような言葉で表現できないくらい、無念さは深かったのだろうと、想像するしかない。
こんな歴史を持つ作家であることを、恥ずかしながら、これまで全く知らなかった。
戦後の太陽
展覧会の第1会場に入る前の壁面には、『ソレイユ』創刊号の中原淳一による編集後記のこの言葉↑が掲げられている。
ただきれいとか、可愛いとか、少し心が浮き立つようなことなどを、こうやって主張したのが、1946年に『ソレイユ』という女性誌を創刊した時だったのを知ると、その信念は本物だと改めて気づかされる。
今まで知らなかった人間が言う資格はないのだけど、1945年が終戦だから、まだ1年後、多くの人がまだ飢えていたような時代に、美しい暮らしを主張することが、どれだけ覚悟がいることだったのかを想像すると、それはすごいことだと思う。
それも、これまで『ソレイユ』は、私にとっては、戦後にいち早くおしゃれな女性誌として創刊された、というような知識しかなかったし、確かに、そのような側面は間違いなくあったのは、今回の表紙に中原によって描かれた女性が、あこがれを集められる存在なのを見ると、わかる。
ただ、今回、私にとっては初めて知ったことだけど、1948年頃の『ソレイユ』には、まだ生活が貧しいことを前提にした記事も少なくなかったようだ。
空いたビール箱(当時は木製)を使って、塗装することによって、かわいく使える。押入れも、工夫しだいではおしゃれな勉強空間にできる。掘りごたつでその熱源はまだ木炭を使っていたとしても美しい部屋にするのは可能。洋服も古くなった服の生地をアップリケのように使えば、すてきになる。
いろいろなことがまだ不自由なはずの時代に、その制約があったとしても、生活の中の美しさを諦めてほしくない、といったメッセージが、そうした記事の中にこめられているようだった。『ソレイユ』では、そうした暮らしの中にいるのは中原淳一の描くような女性だったから、魅力的な人がいたら、それだけで生活は明らかに輝くのだけど、それだけでなく、あこがれの暮らしは、知恵と工夫と美意識で可能になるとも伝えているようでもあった。
そういう信念の人であったのを知らなかった。
生活を照らす戦後の太陽として『ソレイユ』は存在し続けたのだろうし、展覧会場には、『ソレイユ』を若い時に読んで、その光を浴び、あこがれていたと思われる女性も多くいたようだった。
地下1階の第2会場には、中原淳一がデザインしたファッションも並んでいた。生活に関わるすべてのことに美しさを持ち込もうとしていた人なのだと思った。
中原淳一は、会場の説明によると、過労によって心臓の発作を起こし、その時期は、40代の半ば。今の40代よりは年齢的には晩年に近いとも言えそうだけど、とはいっても、まだ活躍できそうな時に病いに倒れ、その後も、療養生活が長くなってしまい。バブル前夜の1983年に70歳で亡くなった。
この展覧会だけで分かったようなことを言うのもちょっと恥ずかしいのだけど、自分が美しいものが好きなのは前提としても、戦後直後から、まるで使命感のように社会を美しくすることを続けてきて、それを達成した人なのは、私のように無知な人間にも伝わってきた。
来てよかった。
本当に知らないことばかりだった。
ミュージアムショップ
2階が第一会場、地下1階が第二会場。
それで展示が終わって、1階に戻ると、ミュージアムショップがある。
最初に入ってきた時も、人が多くいて、あれからかなりの時間が経っているはずだけど、まだそのショップの前に人がたくさんいた。
そこにいる人は、みなさん、とても前のめりに見えて、そして、一緒に行った妻も、同じように熱心にあれこれ見て、そして、楽しそうに買っていた。それは、そこにいる多くの人と一緒だった。
いろいろな意味で、充実した時間だった。
中原淳一の願いは、現代にも届いていると思った。
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