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故郷のような「哲学カフェ」……東京都大田区「わたしも哲学」

 少しでも支援に関わるようになると、結局は、人が生きていくこと、死ぬとはどういうことか。そんなことが常に根底に関わっていると、分かるようになる。

 そんなことを感じ始めると、自分が学んでいる心理学だけではなく、その源流の哲学のことも知っておかないといけないのではないか、と思い始める。

 かといって、「哲学」と思うと、昔、読んだ「哲学者」の本を思い出す。ひたすら難しくて、ページを読み進むのが辛くて重い荷物を持って進んでいるような気持ちになり、油断していると、どこを読んでいるのか分からなくなり、その上で、すごく熱量があるのだけど、同じことを書いているのではないか、と疑うようになり、挫折する。

 という記憶しかなく、だから、再び「哲学」の本を読むには、ためらいが立ちはだかる。

「哲学カフェ」

 いつの頃からは、はっきりと覚えていないけれど、「哲学カフェ」というものが始まり、それが全国に広がっていることを知った。そういう場所なら、「哲学」に少しでも触れられるかもしれない。

 東京都内でも、検索したら、いくつも出てくる。

 映像で見ると、オシャレだったり、若かったり、難しそうだったりして、なんとなく怖い。それは、自意識過剰でもあるのだけど、やはり、またためらいが生じてくる。

図書館のチラシ

 若い頃は、本を読む習慣がなく、そのまま歳をとり、介護を始めて、仕事も辞めざるを得なくなり、このままだと本当にダメな人間になるかと思い、怖くなり、少しでもまともになろうとふと考え、それには勉強をしないと、と感じ、本を読み始め、図書館に通う習慣が初めて身についた。

 図書館には、棚があって、雑誌や、いろいろなチラシが並んでいる。
 そこには、地域の様々な活動などもある。

 その中に、「哲学」という文字が入ったチラシがあった。
 あまり色数もなく、予算もかかっていないように見えたけれど、なんだか、かっこよく見えた。
 そこには、「わたしも哲学」という文字が大きく載っている。
 2016年のことだった。

『第22回 8月28日(日)
 15:00~17:00
 
 今回のテーマ
 ウィトゲンシュタインさんと語りえぬものについても語ろう。
「哲学する」とは、「なぜ?」と疑うことで始まり、答え(真理)を強く欲し、自分自身で考え続ける行為です。
「わたしも哲学」してみませんか?』

 事前準備はまったく不要です、という言葉まであって、ハードルを下げてくれているように感じた。

 それに大田区だから、地元だし、出かけるにしても、そんなに遠くないのも、ありがたかった。

「わたしも哲学」

 こわごわと出かける。
 電車を乗り継ぐけど、そんなに遠くない。
 あまり降りない駅。

 そこから、歩いて数分。
 そこには、普段は、八百屋だったり、いろいろなこと、もしかしたら日本で最初の「子ども食堂」を始めた場所だった。

 居酒屋のような内部。

 そこには、思ったよりもベテランの参加者の方が5人ほどと、想像以上に若い講師がいた。

 「先生」は、酒井佑真さんだった。
 すでに、2ヶ月に1回のペースで、数年が経っていた。
 それだけで、すごいことだと思っていた。

 参加費は、500円だった。
 お菓子や、飲み物も用意されている。

講義

 大きいテレビ画面を使って、映像とともに「わたしも哲学」が始まる。

 今回のテーマは、ウィトゲンシュタインだった。

 少し構えるような気持ちで待っていると、最初は、「クイズ」から始まる。それは、今回のテーマとはほぼ関係ないような、そこにいる人たちが楽しめるような内容だった。

 その上で、発言が出ない時は、最初に簡単に自己紹介していて、名前も分かっているので、その名前を呼び、発言を促すことを、酒井「先生」がしていた。それは、とても気を遣っている姿に見えた。

 それから、今回のテーマの哲学者のプロフィール。そして、その哲学の内容についての話が出る。そして、時々、質問が出ると、それにも丁寧に答えてくれる。

 講義が進んで、時々、こんなことを考えてみましょう?という設問が入るけれど、それは、ここまでの講義に関係することだし、紙を配られているから、それに書いて、それぞれの人が発表する形で進んでいく。

 私が何かを言っても「いいですね。」「それは、新鮮な視点ですね」と言ったことを、酒井「先生」が評価してくれる。他の人の言葉にも同じようにポジティブな対応をしている。それが、決してわざとらしくないので、その場の空気が柔らかくなるし、発言をしやすくなる。

 知識が足りなかったり、自分で変なことを言ったかも、と思っても、同様な対応をしてくれるので、最初に感じていた、「哲学」に対しての怖さがかなり減っていて、次も参加したいと思えていた。サブタイトルに「高校倫理のおさらい」とあるが、それ以上の内容だと思えた。

 それから、2ヶ月に1回。出られる時は、出続けた。

 毎回、特定の「哲学者」について、どんな人なのか。どんな風に生きていたのか。そして、どんな思想なのか。そうした講義と、その前のウォーミングアップのクイズ。さらには、参加者の独自性を生かしてくれるような話し合い。そういうセットのような時間になっている。

 どうやら「哲学カフェ」の基本は、テーマについて参加者がフリーで語り合う、というものが多いらしく、そう考えると、この「わたしも哲学」は、やや変則的かもしれないが、「哲学」に関して、馴染みがない私にとっては、最初の「哲学カフェ」として、すごくフィットしていたと思う。

早い行き詰まり

 最初の数回は楽しかった。

 そして、そのうち、最初のテーマになっていた「ウィトゲンシュタイン」の「論理哲学論考」という本を読んだ。

 自分にとっては、箇条書きのように並ぶ文章の上に、謎の数字のような小見出しが並んでいて、その法則性も分からず、文章も同じことをずっと繰り返しているようにしか思えず、それでもずっと熱が下がらないまま考え続けているのは伝わってきたような気がして、時間が引き伸ばされるような、だけど、全部を精読みたいなこともできず、最後に「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」とあって、これが「有名」な言葉らしいのだけど、ここまで読んだら、こんなに語っているのだから、それは沈黙もするよ、と思えてしまった。

 同時に、「哲学」に関して、改めて蘇った疑問があった。

「わたしも哲学」の時間の中で、そうした一般的な質問をしてもいい時間もあるので、聞いてみた。

 2つの疑問だった。

『どの「哲学」も、難解で、特に「新しい思想」であればあるほど、広く理解されるのは不可能ではないかとも思えるのですが、どうして、その「思想」が凄いのが、分かるのでしょうか?』

 酒井「先生」は、少し考えて、丁寧に答えてくれた。

『その人にとっての「師匠」にあたる人とか、あとは、すでに認められている「哲学者」といった人とか、そういう人に「評価」されることによって、その「新しい思想」が難解だとしても、広く認められていくのだと思います』。

 やはり、そういう存在が必要なんだと納得がいった気がした。

もう一つの疑問

 そして、もう一つの疑問は、とても個人的なものだった。

 「哲学」の本を読んで、何を言っているのか分からなかった。知らないスポーツの最新の戦略について、延々と書いてあるようだった。これが理解できる日が来るような気がしない。それは、10代、遅くとも20代のうちに、「哲学的思考」の習慣をつけたことがある人でないと、それ以降、自分のように中年以降に触れるようになった人間には、哲学をこれからやっても無駄なことにならないだろうか、といったことだった。

 これについても、酒井「先生」は親切に答えてくれた。

『まず、最初から原著に当たるのは難しいと思います。入門書のようなものから入った方がいいかもしれません。それに、若い時でなく、歳を重ねてから哲学のようなものに触れる、といったことを始めると、それは若い時からとは違う、価値というか、意味があると思います』。

 それは穏やかだけど、本気で言ってくれていた、と思う。

 さらに、その時は、参加者の方からも、「講義」が終わってから、言われた。

 もったいないから、続けてください。大丈夫ですよ。

 力強くて、ありがたかった。

 だから、続けることにした。

「哲学カフェ」の武者修行

 この「わたしも哲学」は2ヶ月に1回だったから、そして、もう少し、ガッツリとフリーで議論するような「哲学カフェ」に行こうと思えるようになったのは、この場所で「哲学」に慣れてきたからだった。

 何ヵ所かに行った。

 申し訳ないのだけど、ちょっと退屈で、一回だけで行かなくなったところや、とても新鮮で、すごく面白くて、数回参加させてもらったところもあった。

 誰も知らないところへ行って、ある意味では、とてもプライベートで、しかも本当に考えていることを話し合うような場所に、自分が行けるようになるとは思えなかった。だけど、こういう対話こそが、実は生活に必要ではないかと思えるようになった。

 こうして「武者修行」のように、「哲学カフェ」に行ったり、あとは、ちょっと違うのだけど「読書会」に出かけたりも、できるようになったのは、最初のスタートが「わたしも哲学」のおかげだった。

気がついたこと

 そして、「哲学カフェ」も「読書会」も、どのような場所が面白くなるのか、には気がついた。

 それは、個人的な感想に過ぎないし、とても当然なことなのだけど、その場所を仕切っている司会やファシリテーターの人による、ということだった。

 「わたしも哲学」は、酒井「先生」が常にサポーティブ(支持的)で、肯定的な空気を崩さない。

 こちらがどんな変なことを言っても、否定しないようなことを本気で思っていてくれるから、発言も支持的なのだと思う。だから、時々、論争のようなことが起きても(それは、私には起こってほしいことでもあるが)、空気がとがる前に、無理矢理ではなく、巧みにおさめてくれるのは、この場所が心理的に「安全」であることを、酒井先生が、守ろうとしてくれていることを、他の場所に行くと、より思うようになる。


 だから、もっと刺激を得たい時には、他の場所に行きたくなるけれど、「わたしも哲学」は、私にとっては、安心できる場所で、言ってみれば、故郷に近いのかもしれない。そして、そこから始めたから、今でも「哲学」に興味を持ち続けていられるように思う。

コロナ禍

 こういう場所だったら、普段は難しいことを好まないけれど、実は考えることが好きではないか。と、私が思っている妻も大丈夫だと思い、義母の介護を続けている頃から、ショートステイや、妻のお姉様に留守番を頼める時は、妻も一緒に「わたしも哲学」に参加するようになった。そのうちに、介護が終わってしまい、より一緒に出かけられるようにはなった。

 アダム・スミス。マルクス。プラトン。マキャベリ。アウグスティヌス…。

 酒井先生は、私だけでなく、妻にも、肯定的な言葉をかけてくれるので、一回行っただけで、妻は「楽しい」という感想になり、何度も行った。毎回、終わった時に、先生が制作してくれたレジュメも渡してくれる。参考文献も載っている。

 さらに、違う場所でも、さらに若いメンバーで行うようになった。そこで「ソクラテス」が40歳になってから、本格的に「哲学的な行為」を始めたことも、改めて知った。恥ずかしながら、そういうことに無知なままだったが、当時の「40歳」はおそらく完全に老人の扱いのはずで、自分と比べることはできないけれど、そのことに秘かに励まされたりもした。

 そうした2つの「わたしも哲学」の場所に行けるようになって、時々、別の「哲学カフェ」にも出かけて、楽しかったのだけど、コロナ禍によって、2020年頃から、「わたしも哲学」の開催は止まり、今も再開のメドが立たないままだ。

 それは、かなり寂しいことだし、リモートでも再開してほしい気持ちもあるけれど、あの集まりには、それも何となくそぐわない感じもするし、だから、そういうことを思うときは、コロナ禍の終息を、強く願うような気持ちになる。

「わたしも哲学」の再開を、妻と一緒に待っている。

(※見出し写真は、過去のものです。現在の開催日時とは無関係ですのでご注意ください。)




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おちまこと
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