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「作者の視点の再現」-----村松佑樹 『日々』。2023.8.26~9.17。LEESAYA。

 以前、初めて訪れたギャラリーは、昔、友人のアパートがあって、よく通っていた街にあった。それも、あまりアートとは関係のない商店街の隅に、急に現れるようにあって、それも含めて新鮮な経験になった。



 そんなことがあって、もしできたら、また行きたいと思っていて、妻ともその話をした。

 そして、そこは比較的、頻繁に企画展をおこなうことも知って、その機会は思ったよりも、すぐ来るようだった。

 毎週、土曜日に出かける場所から、そのギャラリーのある街は、帰りに違うルートを利用すれば寄れる街だということ。個人的には今もコロナ感染に気を使っている自分としても、繁華街ではなくて行きやすいところだったことが、なんだか、ちょっとうれしかった。

 そして、次の企画展の内容も知った。

 その作品の画像を妻に見せたら、興味を持ってくれた。だから、土曜日に用事が終わった後、家に電話をして、もし妻の体調さえ良ければ、待ち合わせをすることにした。

 その日になり、電話もできて、妻も大丈夫そうだったので、不動前の駅で待ち合わせをした。駅の建物自体は、すっかり新しくなって、変わっている。

 その改札で待ち合わせをしたのだけど、座る場所がないので、ホームにある待合室に入ったら、冷房も適度に効いていて快適な空間だったので、そこで待つことにした。電車が来るたびに、降りてくる人に集中し、それでも何本かの電車が来て、もしかしたら見逃しているかもしれない、と思う頃に、妻が降りてくるのがはっきりとわかった。目も合った。

 だから、妻が待ち合わせ室まで来てくれた。
 無事に会えてよかった。

ギャラリー

 新しくなった駅舎と違って、改札を出て少し歩くと、何十年も前に友人のアパートに行くために歩いた、妙に何度も曲がっている道路の曲がり方が、すごく懐かしく思った。
 それは前回と同じ感覚だったけれど、妻はピンとこないようで、私の方が数多くここを歩いたのだとわかった。

 それから広めの道路を渡り、禿頭坂という名前のゆるやかな坂道を上る。
 そのまま大きい道路の歩道を歩いていって、少しかっこいいラーメン屋や天ぷら屋などもあることを知った。そして、目印のコンビニを右折して、微妙に下ったり曲がったりする、それほど広くない道を行くと、人だかりがしていて、それはスイミングスクールで、終わる時刻に保護者が集まっている場所で、そこからもう少し坂道を下ると、急にギャラリーがある。

 この突然の感じは、二度目でも変わらなかった。

『日々』 村松佑樹 

 入り口のガラスには、「日々」村松佑樹 そして会期日程が書いてある。

 前回と違って、今回は、外からギャラリーの中も見えて、並んでいる作品もわかる。

 そこには、絵画があって、10数点くらい、ゆったりと並んでいる。

 描かれているのは、おそらく、誰にとっても身近と言えるようなものだと思う。

 観葉植物。緑。風景。おもちゃらしきもの。

 さらには、その絵画の表面には、何かシールのようなものが貼ってあったりもするが、その絵画は、自分が見た風景とは決してイコールではないのだけど、なんだか懐かしいような、見たことがあるような感じがする。

 室内を含めて風景画は、すでに長い年月にわたって、様々な人が描き続けてきて、その中には偉大と言ってもいい画家やアーティストも少なくない。

 だけど、見ていて、村松の作品は、なんだか若い感じがするし、新しい印象もあった。

 どうしてだろう。

視点

 穏やかな明るさの静かな絵画。

 どの作品も、そうした印象は共通している。

 育てている観葉植物、遠くに見える山々、雑木林の土の匂い、子供の集めたトミカ、静かな暗い夜、どこかで鳴っている雷の音。
 身の回りのモチーフに目がいく様になったのは、コロナ禍で地方に移住し、何てことのない日々の瞬間と向き合うことになったからかもしれない。
 部屋の片隅にあった切れ端を手に取り、無作為に貼り始める。その合間に脈絡のないモチーフを並べていくと、意図しない完成がやってくる。
 この数年、儘ならない状況の中で制作と向き合うことが「セルフケア」になっていた。
 とても私的な動機で作られた作品群であるが、誰かをケアするものになっていたらとても嬉しい。    (作家ステートメント  「LEESAYA」サイトより)

 こうして目の前に見ている作品は、ただ、身近な光景が描かれているだけではない。

 作者の村松が見ている風景というか、その視点が再現されているはずだ。作者が移住をし、コロナ禍もあり、改めて、身近な風景を新鮮な気持ちで見ていて、その視点が、作品として再現されているように思える。

 コロナ禍に第二子が誕生し、移住先で新しい職に就き一から生活を始めて行くことは容易ではなかったと想像します。慣れない暮らしの中で身の回りのものを見つめ描くことは作家にとって自己治癒として機能していたと話します。
 世界中の誰もが空白の3年間を孤独に過ごし、今またとてつもなく早いスピードで元の日常に適応することを迫られています。村松の画面を通して、日々の暮らしの尊さと穏やかな時間の流れを改めて感じていただきたいと思います。
 村松佑樹の個展 日々 を是非ともご高覧ください。(「LEESAYA」サイトより)

 だから、私が見ているのは、作者の視点を通した風景なのだと思う。

近代絵画

この構築的筆致こそが、後にピカソが取り入れた「キュビズム」に結び付いて行く新しい手法だったのです。そしてこれがポール・セザンヌが「近代絵画の父」と呼ばれる所以なのです。

セザンヌが着目したのは、物や風景を1つの方向から見るのではなく、多角的な視野から観察し、そこで見えたイメージを一つの画面に3次元的に再構築するという手法でした。

ただし、1895年以降になると、形状だけでなく色彩の方も多様化していきます。形状を細かくし、それらにより多くの色彩を配することによって、明暗や量感を表現しようとしたのです。この手法は「転調(モデュラシオン)」と呼ばれています。

 印象派のように感覚を形にするだけではなく、そこにあるものを「こう描きたい」という意志を形にしたから、セザンヌは「近代絵画の父」と言われるようになったはずだ。

 そうであれば、その後の美術作品は、見えたまま、感じたまま、というよりは、こう見えている、という作者の視点が明確に表現されているはずで、それがあってこそ、少なくとも「近代以降」の新しさを初めて持てるのだと思う。

セルフケア

 村松の作品には、作者の視点が明確にあった、と思う。

 そして、村松自身にとって「セルフケア」として機能していた絵画には、村松は現代美術家でもあるので、その機能自体が作品にも宿っているはずだから、それで、私も穏やかさを感じたし、そうした、これまでにはないような要素が入っている上に、その作者の最近の視点も形になっているから、「新しく」感じたのだろう

 一緒に見た妻も満足そうで、よかった。

 さらには、作品が若く感じたのは、作者が1988年生まれで、30代だから実際に「若い」ことと無縁ではないのだとは思う。


 前回と、今回で、このギャラリーで見た個展は、形式も違うものの、どちらもよかったので、次の展覧会も楽しみになっている。

 そして、このギャラリーの名称が、オーナーの名前を、そのまま使っているのを知った。意外だったが、いったんわかると、美しい響きだとも思った。





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おちまこと
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