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【展覧会感想】 『内藤礼:生まれておいで 生きておいで』。 2024.6.25~9.23。 東京国立博物館。
内藤礼、というアーティストの話は、美術鑑賞初心者にとっては、まるで都市伝説のようだった。
内藤礼の作品
1990年代。展示室には、鑑賞者一人だけが入れて、鑑賞時間は15分。内藤礼という作家が、そんな大胆な方法を取れること自体に凄みのようなものを感じていたのだけど、雑誌などの写真で見た展示の印象は、ベネチア・ビエンナーレという、海外の大きな展覧会にも参加していたのだけど、とても繊細でひそやかな作品だった。
やっと作品を見られたのは、2002年のことだった。
今ではなくなってしまった食糧ビルのギャラリーで、一人10分の鑑賞時間で、平日だから観客は少なかったのだけど、作品に触れるまで待った。それも含めて不思議な時間だった。
それから、20年以上、時々、内藤礼の作品を見てきた。
水戸芸術館、神奈川県立近代美術館、東京都庭園美術館や、豊島美術館にも行けた。それでも、展覧会があると毎週通っていたり、作品を購入している人も知ったから、そういう人に比べたら、とても熱心とは言えないけれど、内藤礼の作品には、いつも緊張感と敬意を持ててきたし、その受ける印象が、あまり変わらないことは、やっぱりすごいのではないかと思い続けてきた。
その内藤礼が、東京国立博物館で展覧会を行う。
美術館ではなくて博物館、それも「東博」と呼ばれて、特別な存在のように扱われている場所だから、その内容を知らない段階から見たいと思っていた。
チケットに関する個人的な混乱
なるべく早めに見たいと思っていたのだけど、あまり外出をしないので、妻と一緒に鑑賞スケジュールを立てて、他にも見たい作品もあって、だから、内藤礼を見るのは、会期終了が近づいた9月になりそうだった。
そして、8月には、テレビ番組で扱われたこともあって、混雑するのではないか、という焦りまであった。
8月からは、チケットは予約制になっていて、それは、入場者数を調整するためのものだったようだ。それで、予約をしたのだけど、どうやらスマートフォンを持っていないと、入場できない、ということがクレジットカード払いを済ませたあとにわかった。
予約したのは翌日。
困って、東博のハローダイヤルに電話をしたら、チケットを販売した会社に連絡をしてくれと伝えられ、販売した会社に電話をしたら、東博に聞かないとわからないと言われる。
そこで、今度はハローダイヤルではない東博の電話番号を聞き、連絡をし、事務所の人とやっとつながったら、そういう人は多いので、当日、プリントアウトして持ってきてもらって、正門の受付で手続きをしてから、入館してくださいと、と言われて、ちょっと安心をする。
もうスマホや携帯を持っていないと、ゆるやかに社会的な排除をされるのも仕方がないとは思うのだけど、これまでは、こんなことはなかったので、ちょっと混乱をした。
生まれておいで 生きておいで
当日も、正門で手続きをするときに、時間がかかった。
館内に入って、第一会場に入場するまでに、さらに時間が過ぎた。
どうやら、会場に入る観客の人数を調整し、よりよい鑑賞環境のためらしいが、それを知って、待っていることに少し納得があった。
第一会場に入る。
細長く、少し暗い場所。
さまざまな色の小さい丸い玉が、天井からぶら下がっている。
その数も思った以上に多く、これまでの内藤礼の作品と比べると、カラフルだった。
細長い部屋のガラスケースの中には、小さくはかないようなものがところどころに作品として並べられている。ガラスビーズや、風船など、白や透明なものが多い。
明らかに古い土色のものは、ハンドアウトによると、発掘されたもので、紀元前の縄文時代の遺跡だった。
それは、最低でも2000年くらい前のものだった。
その会場に入ると、その暗さもあるし、あちこちに注意を向けないと、作品は見つからないし、だから、感覚は少し非日常的になっていたと思う。
そこにしばらくいるだけで、さっきまでいろいろと待たされたことで、少しイライラしていたことが、なんとなくおさまっていった。
それから、第二会場へ向かった。
平成館という建物から、本館特別5室へと歩いていく。
この東京国立博物館という建物の巨大さを感じさせるような過程だった。
途中で、とても長い時間を経て、この博物館に並べてある陳列されたものが嫌でも目に入る。詳しくなくても、なんだか重い存在感があるのはわかる。
そして、不安を抱えながらも、第二会場に着いた。
入り口付近に列がある。また待たなくてはいけない。
人が来てくれるのは、なんだかうれしい気持ちもあるけれど、テレビ番組などで扱われると、人が多くなって、こうして待つ時間が増えるのは、勝手な話なのはわかっていても、やはり少し嫌かもしれない。
光の入る会場
東京国立博物館は、巨大な箱、というイメージがある。
それは、何千年もの時間を経ている、貴重なものを保管するために、外界から守っている印象だった。
だから、やや暗く、室温も調整されていて、少し寒く、場合によっては、ちょっと怖い感じさえする場所だった。
だけど、今回、内藤礼展の、第二会場である本館特別5室は、もしかしたら、以前、来たときに入ったことがあるのかもしれないけれど、そこは、他の展示室とは全く違っていた。
何より、床のカーペットのようなものがはがされていて、むき出しだったし、窓からは光が差し込んでいた。
太陽の光で明るい部屋は、展示室、というような感じではなく、もっと外にある場所のように感じる。
そこには、ガラスケースが十分な距離をとって、いくつも置かれていて、この会場の真ん中といっていい場所に、今回のチラシなどのメインビジュアルになっている縄文時代の出土品があった。
少なくとも、3000年以上も前のものだけど、そのケースの中には、小さい足形が土に遺されて、それが化石化したのだろう。その赤ちゃんの足形といっていいものには、いろいろな意味があるのだろうけれど、明らかに人の思いがあるのは、わかる。
他にも、いろいろなケースが置かれていて、縄文時代の動物の骨などが入っている。その上には、小さな石や枝など、何かしらの必然性があって配置されたようなものが並ぶ。
そこに、内藤礼のひそやかな造形物もあるのだけど、そうした時間の流れを経ているものたちを邪魔しないように、でも、それはいつもの内藤礼の作品の印象と同様に、見つけないとわからないものとして、そこにあった。
壁には、絵画作品が並ぶ。
ただ、そこには露骨な色彩や、くっきりとした形はない。
だから、近づいて、しばらく見て、何かが見えたような気がするくらいだった。
指示
人がバラバラといて、それは人数を調節してくれているのだろうけれど、でも、本当であれば、誰もいないような空間で、一人でいれば、また随分と違ってくるのだろうとも思った。
ハンドアウトの説明は、本当に短い単語だけが並んでいて、そして、その物質としての由来(どこのものか)といったことは書かれているけれど、不親切といえるほどのそっけなさだった。
それを見ると、勝手な感慨だけど、現代美術っぽいし、何より内藤礼っぽいと、鑑賞者としては、思ってしまう。
ただ、その中で、3つの作品に関してだけ、簡潔な指示のような言葉があった。
《恩寵》には息を吹きかけることができます。
壁に貼り付けられた紙のようなものがあって、そこにその指示通りに息を吹きかけたら、その紙は壁にピッタリついているように見えたのに、思った以上に反応が強く、そのまま取れてしまうようなくらいはためいていて、ちょっと焦る。だけど、作品に介入できた気持ちがして、ささやかな行為だけど、うれしかった。
《座》にはお座りいただけます。矢印の方向にお座りください。靴はお脱ぎください。
《座》は、この会場に2つ設置されていたのだけど、座る方向まで指示されていたのは、会場を半分に分ける真ん中を通る線があったとすれば、その線上に位置する《座》だった。
そこには、座いすを水平に倒したくらいの大きさの長方形の低い台があって、そして、その「靴をお脱ぎください」という指示に従うとすれば、靴を脱いで、その台に座って、足も乗せる、という形になるはずだ。
最初は靴を脱がないで、足は床につけたまま座ってみて、そのあとに、靴を脱いで、体全体を《座》に乗せてみた。
それだけで、かなり感覚的には違った。
靴を脱いだ方が、この会場との一体感は明らかに増したし、この空間への距離感が縮まった分、だけど、体が少しむき出しに近くなったから、微妙な不安まで出てくる。
そして、その矢印の方向に、足形を収めたケースが真正面にある。
だから、その存在が強く意識されて、さっき、上から眺めていた時とは、ちょっと身に迫る感じが違ってくる。
妻とも、そんな話をして、座ってもらったら、妻は、もっと足形と、さらに、その向こうの扉があって、そこまで一本に、まっすぐつながるような気がしたというから、やはり、靴を脱ぐ意味はあったのだと思う。
もう一つの《座》にも靴を脱いで座ったが、そこは、後ろが壁になっているせいか、その分、安心感もあったし、ケースに並べてあるさまざまな出土品との距離もあるから、なんとなく気持ちは安定していた。
しばらく、その空間そのものを味合うように、見上げたりしたのは、もしかしたら、そこにもひっそりと作品があるのかもしれないとも思ったせいだが、さすがにそれはなかったようだけど、この建物自体が100年以上建っていることもあって、大きな遺跡の中に入っているような気持ちにもなりそうだった。
鏡
あとは、第三会場を残すだけだった。
ハンドアウトの図を見ると、第二会場の裏にあるはずだけど、そこを直進できる順路はなく、日本刀などが並んでいる展示室を通り抜けて、だから、やはり長い時間を経た展示物をみながら、第三会場に向かう。
途中で、道に迷い、スタッフの方に聞きながら、進む。
第三会場の、本館1階ラウンジには、拍子抜けするほど、何もなかった。
木材の低い台《座》の上に、ガラスの瓶が置いてある。
2つ重ねてあるように見え、上のビンには水が満たしてあり、下のビンには何も入っていないように思える。ただ、実際はどうなのかの説明もなく、近くのスタッフは、この作品の安全警備のためにいるようだった。
他は何もない。
そのラウンジの窓からの風景は庭園のようになっていて、茶室みたいな建物も見えて、それは、上野の森とはいっても、さらに違う世界が広がっているようにも見える。
最後がこれだけなのか、という思いもあったのだけど、でも、ハンドアウトをまた見たら、まだ作品はあるはずだった。
99 世界に秘密を送り返す
2024
鏡
各径1×0.1(4点組)
そういえば、ここに来るまでも、同じ名前の作品はあったはずだ。
しかも、今回の作品名の中では、最も長く、意味がありそうな名前だったから、その作品を見つけないと、この第三会場に来た意味はないかもしれない。
探した。
壁の模様に紛れるように、小さな丸い直径1センチの鏡があった。
4つあるはずだから、それぞれを探して、それぞれの壁に張り付いているように、見つかった。
これで全部の作品を見たはずだったのだけど、4点組という言葉がある以上は、4つ揃って作品になっているはずだ。
それで、この4つの鏡が、何メートルもの距離はあるが、2つ一組の合わせ鏡になっていることに気がついた。
壁に設置された高さも、2つの鏡はまっすぐな直線でつながっている上に、正面から向きあう位置にあった。
もし、もう少し大きい鏡で、合わせ鏡になっていたら、誰もが小さい頃に試みたように、そこには、それぞれの鏡の像を写しあって、まるで無限に続く通路があるように思えて、ちょっとした怖さを感じさせる現象が見えたかもしれない。
直径1センチで、しかも何メートルも離れているし、それが合わせ鏡のように、無限の像が写っているかどうかを確かめようとしたら、自分自身の顔などがその像が映るのを妨げてしまうのだから、実際には確認のしようがない。
だけど、科学的な見方だと、正確でないのかもしれないが、小さな鏡が合わせ鏡になっているから、もしかしたら、その像が、人の目が届かないところで無限の反復をしているイメージは浮かぶ。
そこまで想像すると、この作品の「世界に秘密を送り返す」というタイトルが、これだけシンプルな設定でありながら、大げさではなく、納得ができるものに思えた。
そして、この展示の見方として、第一会場に入る前にスタッフの方から、1→2→3と回ったら、もう一度、3→2→1と鑑賞することを、確か作者の意図としてすすめられた気がするので、また第二会場に戻ることにした。
そこにも、最初は見落としていたか、あまり注意を払えなかったか、「世界の秘密を送り返す」という作品があったはずなのに、見流していたように思った。
解像度
東博の貴重な展示物を見ながら、また第二会場まで戻る。
また少し列で待つ。
会場は、さっきよりも、少し人が少なくなったようだ。
作品を見る。1回目よりも、気のせいか、よく見えるような気がするが、考えたら、2度目だから当然かもしれない。
「世界の秘密を送り返す」は、縄文時代の「土製丸玉」が入っているケースにあった。そのケースの外側と内側に1枚ずつ鏡が設置されているようだ。すると、そのケースの厚みだけの短い距離で合わせ鏡になっているはずだから、おそらくは、無限に近い像が上下に映っている可能性がある。
ただ、それは、このケースの中にあるものと、現在とを隔てる何千年もの時間を考えたら、ここにそうした合わせ鏡があっても、おかしくないような気がする。
それは、実際に、そこに像があるかどうかはわからないし、ケースの外と内の間で、実際見ることはできないけれど、そうした想像はふくらみやすい。
さらに、2つの同じように見える丸い台が床に設置してあって、一つには「杖」という名前にふさわしく、棒が立っているのだけど、もう一つは、何も立っていない。
そのことがどうもわからないので、妻がその会場にいるスタッフに聞いてくれた。そうしたら、このことは、銀座のエルメスのギャラリーでも開催されている内藤礼の個展と連動しているのではないか、ということを教えてくれた。
なんだかさらに、イメージは広がった。
第二会場で、最初よりもリラックスして、この空間を楽しむことができたような気がする。
左右対称
さらに第一会場へ戻る。
最初は昼頃に入場し、それから2時間以上は経っているので、ほとんど列はなくなっていた。
ハンドアウトを持って、なるべく隅々まで見ていく。
「世界に秘密を送り返す」は、いくつかのパターンがあった。
ケースをはさんで、内側と外側に約7センチ四方の鏡が設置されている。
ケースの内側と外側に1センチの鏡がある。
細長い展示室の、左右の隅の壁に小さい鏡が一枚ずつ合わせ鏡になっている。
そして、改めて、この展示室の作品は、細長いスペースで、左右に分けることができて、おそらくは左右対称になっていることに、2度目でやっと気がついた。
細長いケースの右端の方に設置してある、タイトル No.1がついている 縄文時代の「土版」があるが、左側の左右対称の位置に置かれていたのが、シルクオーガンジーでつくられた内藤礼の作品で、小さなふわふわしたもので、それには「死者のための枕」と名づけられている。
他は、ほぼ左右対称の配置になっていて、だけど、ところどころ微妙にずれていて、ここに意味はあるのだろうけれど、その理由は分からなくても、そして、それを思考すること自体が的外れだとしても、そのことを考えるところまでは、来られた気がした。
それだけで、広がりと揺らぎのある時間になった。
ミュージアムショップで買い物もして、そして、東博の建物を出た。
来てよかった。
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