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「エッセイ」は贈り物。

「1日1エッセイ」を書き始めてから、今日で26日。
ふと振り返ると、ときが経つのは早いなあと感じる。

南伊豆の編集者、「イッテツさん」のもとへ、編集修行に訪れたのが26日前。

あの日から毎日書き続けた「エッセイ」には、
一体どのような意味がこめられているのだろう。

そんなことをふと考えていた。

***

書き始めて数週間は、1本書くのに何時間も、何時間もかかっていて。
自分の心の声と向き合うことには、日々しんどさが伴っていた。

でも、そんな過去の自分に伝えたい。
「エッセイ」を書き続けることは、自分に対する贈り物であると。

そして、おこがましかもしれないけれど、
「誰かに対する贈り物にもなれば」。
そんな願いを込めて、ひとつ、ひとつ、言葉を紡ぎ出す。

だから私は「エッセイ」を書く

noteで書き続けた日々に意味をつけるなら、3つ。

1つ目は、「ことばと向き合う」時間であること
2つ目は、「誰かとつながる」手段であること
3つ目は、「過去の自分からの」メッセージであること

ことばと向き合う

エッセイを書いていると、いやでもことばと向き合う必要がある。
たとえば、普段の会話で伝わる「美味しい」という言葉。
同じときを過ごして、同じものを食べていたら「美味しい」で成り立つものが、文章にすると伝わらない。

多くの情報を視覚で伝えるエッセイは、会話以上に言葉を大切にする必要がある。
どんな食感で。どんな味で。どういうふうに美味しいのか。どんな状況で書くときも、相手に伝わるように、想像しなければならない。

エッセイを書き続けること。
それは、ことばと向き合う時間を贈り物として与えてくれたように感じる。

ひととつながる

書いて、発信をすること。
この行為は、誰かとつながる手段になる。

正直に言うと、今の私は発信をすることが得意ではない。
自分の言葉を人に伝えることは、とても勇気がいるし、
投稿ボタンを押すまでに、何度も何度も躊躇するような日々。

でも、エッセイを書くことによって「読んだよ」と連絡をくれた人が何人もいた。数年ぶりに連絡を取り合い、会う約束を果たした人が何人もいた。

自分がエッセイを書いて発信していなかったら、このつながりは、生まれなかった。相手が連絡を送ってくれなかったら、話せていなかった。
そう考えると、自分の言葉を外に出すって、悪いことではないかもしれない。

何より私の文章を読んで連絡をくれた人たちに、心からの感謝をしたい。

メッセージとして受け取る

書き続けて26日経った今、これまでの文章1つ1つを読み返した。
そこには、今の自分には持っていない、こんな葛藤が綴られていた。

「今、目の前のことに心から夢中なれている?」
そこには、悔しくも、心の底からうなづくことができない自分が1人ぽつんと立っていた。

その時のエッセイがこちら。

漠然とした日常の中。
自分はしっかり前に進めているのだろうかと、不安になることがある。

しかし、過去にエッセイを書き残していたおかげで、
1歩1歩、ときに小さい歩幅でも、進めていることを実感した。
それは、言い換えると「安心」とも捉えることができる。

書き続けることでみえるもの

26日少しでプロの文章が書けるようになったわけではない。
読み返すと、苦笑いしてしまうような文章で、恥しいこともある。
それでも、この日々の継続から、私は大切な3つの贈り物を受け取った。

日々、時間を過ごす中、どんなに些細なことでもいい。
忘れてしまう前に、自分の心の思いを言語化し、
外に出すことを続けていきたい。

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