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【短編】共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜④

誰でもない誰かの話

③は、こちらから



目が覚めてしまった午前2時。
一度はっきり覚醒した意識にもう一度眠くなれと願うのは難しい。

朝の二度寝はできるのに、深夜目が覚めたらもう取り返しがつかない。

眠れない体をベッドの端っこに寄せる。
体はだんだん冷めていってさっきまで眠っていたことが嘘に思える。

アルバイト先で知らない女の人に手を握られた。
熱燗のとっくりを置いた瞬間、油断していた。
綺麗な手ねって、思わずしたことよって、細くて長い指がいいわねって。お酒を含んだ体からなるその手は温かく、生きている証だった。
その人が何歳であったか…きっと50代くらい。
美恵子さんとは仲良く喋っていた。常連でも無い、あまり来ない僕は初めて会った人。

美恵子さんは僕にお小遣いを渡さなくなったけど日中僕を呼び出して、教養が必要と映画や観劇に連れていく。美味しいケーキに苦いコーヒー。そんなお店をたくさん知るとお客さんとも話せるようになるって。それは口実にも思えるけれど、恋人にならないかという問いかけは、一切なくただ、僕を育てようという親切心でそうしてくれているようだった。
包丁が怖い僕は絶対に厨房に入れない。料理人からは役立たずのホールと呼ばれている。孤立しているとはわかっているし、きっと嫌われている。それでもわざわざ作る笑顔をなんとか崩さないようにしている。

ひどく疲れた時こそ眠りが浅い。翌日も辛いのに眠れないことを受け入れなければならないし、それでパニックになってはいけないこともわかっている。

眠れない時間は、どうでもいいことばかりに囚われていく。

冷めたはずの体がまた、温かくなっていく。羽毛布団に僕の体温が伝わっていく。

本当に僕は生きているんだ。

首につけた切り傷を縫い合わせた糸の跡。触ってみると表皮が膨らんでいる。
あの時死ななくて良かった。と、本当に実感することはない。

生きるために必要なこと。
社会に溶け込みひっそりと息をすること。人の心の波を受け取らないこと。混乱することに巻き込まれないこと。揺らがないこと。心を落ち着かせるために必要なことを実践すること。

呼吸の仕方から覚え直した。

握られた手をもう片方の手で握る。
「……あの人、気持ち悪かったな。」
そう口から出てしまう僕に僕自身が笑ってしまう。触り方も力の入れ方も生々しくて油分の少ないカサカサした手のひら。
黒く長い髪は白髪まじりで、僕に向ける視線は女そのものだった。
「気持ち悪い…。本当に。」
美恵子さんの友だちだとすれば、僕には黙ってやり過ごすより他ないのではないかと思った。

小学生の頃、ヴァイオリンを習っていた。その先生によく似ている。

姿勢が大事だと、肩や胸、腰に脚に触られて、実際ヴァイオリンを弾くよりも姿勢を直されていた時間の方が長く感じた。
発表会の日、僕は決まって熱を出したから、人前で演奏することもなく教室に足も向かなくなり、両親には月謝代を無駄にした分、ヴァイオリンの金額の分だけ叱責された。
カイザーのヴァイオリン練習曲4番が得意だったから、教室を辞めた後もしばらくは、隠れてヴァイオリンを弾いていたが、それは行き場のない音となり、孤独の証明となった。楽譜を読み、別の曲を弾いてみてもお手本の取り出し方がわからないからそのメロディーが世の中の常識と合致しているか確認のしようがなかった。
弓が弦を滑り抑えた指に振動がなり、顎から骨を伝う音が鼓膜を揺らす。その痺れるほどの感覚をただ、楽しみたかっただけなんだ。
僕の胸を腰を肩を触る指先が、僕と同じように弦を滑らせている間、うっとりするような音を生み出すのだから、ずるいとさえ思ったのだった。

握られた手の感覚から、ヴァイオリンの音を思い出すなんて。
もし、同じ人であったなら、僕は黙ってやり過ごせる自信がない。

時間通りに目覚ましのアラームが鳴る。眠れたようだった。

朝起きたら陽の光を浴びましょう。副交感神経と交感神経が役割を交代してくれます。

病院の先生が最初にくれた鬱との付き合い方のガイドブックにそうするのが当たり前のように書いてあった。入院中まじめに読み込んでいた。
だけど、実践することはなく、ベッドから抜け出てもしばらく床に座ってじっとしている。

夢の中で、弾けるように音がなった。僕が僕のために弾いたヴァイオリンの音。

スマホが震えるから手に取った。
”越智くん、起きてるかい?”
川内さんのLINEだ。
朝が苦手な僕を心配してくれているのか。ただの趣味なのか。見当はつかないけれど。時々、目を覚さなければならない時間にLINEをくれる。
”カーテンを開けて太陽の光を浴びましょう”
教科書と同じことをわざわざLINEで教えてくれる。眠い目を擦りながら”嫌です”と送信する。
”顔を洗いなさい”
まるで母親のようだと思う。あくびをしながら指を動かす。”はい”と送信する。
”歯を磨いてください”
ちょっと笑っちゃう。”はい”と送信した。
”ご飯食べにうちにおいで。今日は休みだから何時でもいいよ。”
ご飯…。僕は川内さんのペットみたいだなって思う。こんな風に僕を可愛がる真意はなんなんだろう。愛や恋のそれを感じることはない。お互いが居心地の良さを選んだ先の結果だった。
”僕アルバイト辞めたいです。”そう一度書いて消す。会った時に言おうと思う。”はい”って送信した。

「ねえ、贅沢だと思わない?」
川内さんと会う前に美恵子さんに呼び出された。
「あなたが決めていいのよ。」
メニュー表を指差して好きなものを食べろと促される。
「それなら、ミルクレープを。」
「それが人生最後の食べ物でも?」
「僕はクレープのぺたぺたした食感が好きですし、間に挟まれた生クリームの舌触りも好きなので。」
「味は?」
「美味しいものであることを期待しています。」
ふふっと笑って、店員さんを呼ぶ。
「コーヒーで良いわね?」
「はい。」
相変わらず、甘い香りの香水をつけている。料理屋で働く人が香水をつける感覚が僕にはわからない。
「昨日のお客さんね…。木村さんていうのよ。」
コーヒーを待つ間、水を飲みながら美恵子さんが話し始める。
「びっくりしたでしょう?手を握られて。」
「え」
「目が丸くなってたもの。」
ふふふっと笑いながら、僕を見つめる。
「ヴァイオリンの先生なのよ。」
「え」
「越智くんに似ている男の子を教えたことがあるって。カイザーの…なんとかって曲が得意だった子って。」
「へえ。」
よく似ていると思った僕の記憶に間違いがなかった。小学生の頃の僕と今の僕が結びつくなんて僕があまりにも変わらないということだろうか。
「とっても才能があったみたい。」
店員さんが運んできてくれたコーヒーにケーキ。
美恵子さんは砂糖もミルクも使わずコーヒーを飲み始める。
「音楽に才能を見出せる人は幸せでしょうね。」
「越智くんも音楽の習い事をしたことがあるの?」
「ヴァイオリンです。偶然にも。」
「ふふふ。本当に越智くんが木村さんの生徒だったのかもね。」
「…どうでしょう。」
「食べて」
「いただきます。」
ミルクレープを一口。口に運ぶ姿をじっと見られる。
「あなたは、まじめすぎるのよ。」
「え」
「…川内さんが言っていたの。心が疲れている子って。あなたのこと。でも、それって誰でもあることよ。人の真意なんてわかるわけないじゃない。」
「一体、どこまで話されたんです?」

鬱は心の病気ではなく、交感神経と副交感神経の病気であると病院で先生が教えてくれた。何がいけないかといえば、寝不足であったり、栄養の偏りであったり。僕は、ふわふわする頭でそれを黙って聞いていた。

「美恵子さんはいつもコーヒーだけですね。」
「私、人が作ったものってなるべく食べたくないの。飲み物くらいなら体内に入れても良いけれど、…無理よ。」
「そうなんですか。」
「親方が作る料理も食べたことがないのよ。あ、あったかな。おにぎり。吐いちゃって。やっぱりダメだった。口に入れるものに私以外の誰の手も触れてほしくないの。」
それは僕よりも深い拒絶だと思った。
「小学生の頃、母親がね、知らない男の人とセックスをしていたのを見たの。私、とてもタイミングが悪く家に帰ったのよ。」
コーヒーカップの自分が口をつけた場所を指で拭う。
「そろばんの教室が、その日は休みで、学校帰りに行くはずだったのに、家に帰るしかなくて。帰り道にある駄菓子屋さんでキャベツ太郎とひき飴を買って、いちご味の飴を口に入れたまま帰ったのよ。玄関から家に入ると、知らない靴があった。寝室から母のうめくような、縋るような、そんな声と、大人の男の人の息を吐く音が聞こえた。」

小学生だった美恵子さんは、母親が誰かにいじめられていると思い、寝室に行ったそう。

「裸の女が裸の男に激しく体を押し付けられていて。私は何が起こっているのかわからなかった。」

美恵子さんの母親は、美恵子さんと目が合うとにっこり笑ったそうで知らない男の人は、美恵子さんを見て、そこで見ていろと。美恵子さんは果てていく母親をただ眺めていた。身体中を撫で回す男の手にビクビクと魚のように跳ねるその母親の姿を。

「それから母は、私におにぎりを握ったの。さっきまで男と交わっていた母は手も洗わずに、白米を握って私に差し出したの。泣きながら食べたわ。母が作ってくれたから。」
聞いているだけの僕をまっすぐ見つめてくる。
「それから、人間は汚いって思い続けているの。……病気かしらね。」
僕は頷くことも、微笑むこともできないでいる。
「私もあなたも、母も、…川内さんだって…狂ってるわよね。」
「たぶん、狂ってるのは世の中全てです。」
「そうかもね。食べて。」
悲しいとも可哀相とも思ってはいけない気がした。
フォークを上から下に刺す。ズブズブと入っていく。段積みになっているクレープを重なったまま口に入れる。口の中でバラバラになっていく食べ物。
「どんな味なの?」
「…卵に小麦粉に…牛乳と油と砂糖です。」
「何よ、それ。材料は聞いてないけど。」
美恵子さんは親方さんに僕を呼び出していることを知られてはいないのだろうか。
「越智くん」
「はい」
「木村さんに今度ご挨拶なさいね。」
「え」
「あなた、習ってたんでしょ。ヴァイオリン。」
全てお見通しのように僕を見つめる。
「木村さんがその人であったかは覚えていません。」
「…そう。」


酒屋さんに寄ってミックスナッツを買う。
川内さんのナッツを補充するのが僕の役目になってきている。ピーナッツとピスタチオは、余分に買っても邪魔にならない。ピーナッツは殻がついてないものは好みじゃないらしい。ピーナッツが好きじゃない僕にはどうでもいいこだわりだなと思う。


「越智くん、こんなに買ってきたの?」
僕が持っていったミックスナッツを見て川内さんが楽しそうに笑う。
「すぐなくなるので」
「ありがとうね。」
僕が手を洗っている間に、川内さんはアルコールのウエットティッシュでパッケージを拭いている。
僕が見ても何も思わないし何も言わないことを知っているけど、その儀式にも似た行為は誰にも見られたくないものであるようだった。

水の流れる音に思い出したヴァイオリンの音色が重なるようで静かにその音を聞いていた。

共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜④

⑤につづく

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