【短編】共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜⑥
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雨の音に目を覚ます、明け方の5時。
眠りにつく時は床に寝ていたのに目を覚ますとベッドにいる。川内さんが運んでくれたに違いない。
あの人と出会った日もこんなふうに雨の音がしていた。まだ忘れられない。他人からすれば他愛のない恋愛。僕がとても子ども染みていた。それだけのこと。
「ごめんね、もう好きじゃないの。」
あの人が最後に残した言葉。僕は、嫌われたんだ。
もう誰にも恋ができない。
あの人を好きになりすぎた。一瞬で消えていなくなったあの人を。
雨の音が聞きたくなくて布団に潜った。
無駄な抵抗だとわかっているのに。
弦群弓美。それが彼女の名前だ。
弦楽器を弾くために生まれたような名前だと思った。ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス。クラシックからジャズ、それにオルタナティヴ…。一度好きになったのにすっかり弦を抑えなくなった僕の左指が彼女の音色に微かに動いた。
才能のある人。
それはきっとこの人のことなんだろう。
弾むように転がる音は確かにヴァイオリンで、記憶に転がる音よりも煌めいて雨粒よりも輝き、路上で雨宿りする店先で弓を滑らせ弦が空気を揺らす度、僕の心臓がドクンと動く。
首筋が透き通る白。髪の黒が際立つ。ブルーベースの肌。
踊り出しそうな足元のローファー。センタープレスのロングパンツが大人に見えた。
「君、ずっと見てるね。私のこと。ヴァイオリン好きなの?」
上がった口角が印象時だった。
「とてもステキな音ですね。」
「チャルダッシュだよ。」
僕は、それは知ってるって思ってくすって笑った。
「他には何を弾くんですか?」
「今?」
「はい」
「何がいい?」
「え?」
「なんでも弾くよ。」
ヴァイオリンを構えた姿はなぜか勇敢だった。
雨の音を楽しむように天を仰いでひとつ、呼吸をする。弾き始めたのはカイザーのヴァイオリン練習曲第4番。記憶の中の僕の音色が連奏するように蘇ってくる。弾ける雨粒が共にリズムを刻んでいた。
「起きて、越智くん。」
息を吸い込むとトーストの匂いがして川内さんに羽毛布団の上から頭を抑え込まれた。
「お、おはようございます。」
布団をめくられると眩しくて敵わない。
「今日、木村さんに会うから。」
「はい。」
「君も来てくれない?」
「はい…え?」
「ん?」
「木村さん…?」
「そう木村さん。」
僕は横になったまま起きたばかりの頭で、川内さんの言うことを整理してみた。木村さんは、僕がヴァイオリンを習っていた木村先生に違いない。
「なぜですか?」
「君が拒否反応を表すのはどうしてなんだろうね。」
「わかっていて会わせるのはなぜですか?」
寝転がっている僕の身体を川内さんが抱き起こす。僕は一般的な成人男性より小さく軽い。
「真剣な話だよ。いじけないで。」
「いじけてませんよ。」
「仕事の話だ。」
「仕事の話ですか。」
木村さんには娘がいることは僕も知っている。海外で仕事をしているヴァイオリニストということは知らなかった。
仙台フィルのコンサートにゲスト出演するために帰国することになり、その期間に地元の小学校でも演奏会を開く。演奏会の演出を頼まれたのが川内さんの会社であり、木村さんをその演奏会にゲスト出演させようというのが、川内さんの企画だった。
「つまり親子共演だよ。地元の人も喜ぶだろ。」
「そうですか。それと、僕が木村さんと会う理由がわかりません。」
川内さんが僕の顔を覗き込む。
「木村さん、越智くんみたいな子に楽屋周りのお世話してほしいんだって。」
「え」
「料理屋でアルバイトしてるところ見て気に入ったんだって。」
アルバイト中の僕は全く冴えない。
「気がきがなくて、全然使えない感じが良いらしい。」
「ひどい。」
「俺が言ったんじゃないよ」
「川内さんもきっとそう思ってますよね。」
「ん?」
「いや、あの。」
「俺は君を料理屋のアルバイトとして一人前にしようなんて考えは毛頭無いから、そんなのどうでも良いんだよ。」
僕の頭に手を置いてわしゃわしゃといじりまわす。
「それとも、ホールの仕事を極めようと思っているの?良い考えだとは思うけど、人見知りだったり、感受性が強すぎる君だから、接客なんて向いてないと思うし、君はよく頑張っていると思うけどな。」
料理人に地面に叩きつけられたことを思い出す。
”やる気ないの?あるの?”
わからないと答えたのは本質で正解だと思っている。
「君がやらなければいけないことは何?」
「僕のやらなければいけないことは…。」
「わかるよね。馬鹿じゃないんだから。」
「…病気の治療です。」
「そうだよ。だから、それ以外は全部雑音だから。大きく聞こえても全く関係ない。そうでしょ?」
「はい。」
「良い子だね。」
僕の心が不安定な時、川内さんは僕を抱きしめる。僕を落ち着かせようとするために慰めるひとつの方法として。それが朝であれ夜であれ、川内さんが忙しいとかそんなことは関係なく。
川内さん自身、僕を慰めながら自分のバランスをとっている様でもあった。
僕と川内さんは同じような境遇であるようで全く違うのだけどお互いに失ったままのものを埋め合うようでもあった。
2人だけの空間でとても小さな世界の傷の舐め合いのような儀式的な行為はごく自然なことだった。
「木村さんはプライドが高いから、あまり口ごたえしないように。良いね。」
待ち合わせの場所に向かう途中、プリウスを運転しながら川内さんが怖い人に我が子を奉公に出すような顔つきで言うから少し笑ってしまう。
「俺は真面目に言ってるよ。」
「わかりました。」
「越智くんは時々、饒舌になるから危なっかしいよ。」
「では、黙っています。」
「…そうして。」
「はい。」
こんな会話がおかしくて、2人とも笑いを堪えている。
「ねえ、木村さんのヴァイオリンてすごいの?」
「なぜ、僕に聞くんですか?」
「越智くんは、木村さんの生徒だったんでしょ。」
「あまり憶測で喋ると違った時に恥をかきますよ。」
本当は間違いではないけれど、僕は隠し事にしたかったし、何より木村さんに、今の僕と記憶の僕が同じ人物であると思って欲しくなかった。
「…それ、その言い方。やめてね。木村さんの前では。絶対。棘があるよ、越智くんの否定の仕方。」
「怒らないでくださいよ。これ以外に話し方を知らないんですから。」
「困ったね…。良い子でいてよ。頼むから。」
「保証できませんね。」
「お願いね。」
「仕方ないですね。」
待ち合わせ場所は川沿いのカフェ。
新しくできたばかりの白い建物は景色に溶け込んでいる。僕よりも周りに溶け込むのが上手だと思う。
「越智くん、好きなもの食べて良いから良い子にしてね。」
「…わかりました。」
駐車場には白いビートルが一台。僕がレッスンに行っていた時は、スマートに乗っていたから趣味が変わったんだろうか。
一応、ちゃんとしたジャケットを着せられて、首の傷が見えないようにハイネックのインナーを着てボタンダウンのシャツを着た。履いているパンツもカジュアルながらきちんとしたもの、靴もそれなりの革靴。まるで七五三のようで着慣れない服に多少の違和感を覚えていた。
「僕、この服正解ですか?」
「いつものパーカーとジーンズより良いよ。」
「高いんですか?この服。」
「ん?昨日選んだから覚えてないな。」
「値段見ないんですか?」
「値段は見ない。」
「へえ。」
「ん?」
「あ、いえ。」
やっぱり、川内さんは成功者なんだ。借金だらけという出立ちでもないし。ガツガツ前に乗り出すタイプでもない。
「川内さん。」
「何?」
「ひとつ、訂正します。」
「うん。」
木村さんとのことは、川内さんならきっと一緒に内緒にしてくれると、この時の僕には確信があった。
「木村さんの生徒であったことは、間違いではありません。」
「そう。」
「ですが、木村さんや美恵子さんには、そうであるとは絶対に言わないでください。」
「…わかった。」
僕が2人に同じ嘘をついていることを川内さんは瞬時に感じ取ってくれたようだった。
「君はやっぱり俺には嘘がつけないね。」
ふっと笑ってお店のドアを開ける。川内さんが入る後についてお店に足を踏み入れると店員さんが静かなトーンで席を案内してくれる。
木村さんは、窓の外を見ていてこちらを見ない。
「川内さん、私が先に来るって変よね。」
明らかな不機嫌のお芝居になんの意味があるんだろう。木村さんのプライドの高さは全く変わっていない。
「すみません。越智の家に寄っていたもので」
嘘には嘘の言い訳を。
「ま、座って。」
僕は通路側、川内さんは窓側に座る。僕に視線を落とす木村さんと目が合う。
「いくつ?」
「越智くん、いくつだっけ。」
「23です。」
「もっと子どもに見えるわね。」
コーヒーを飲みながらふふっと笑う。僕は、川内さんの言うことを聞いて口ごたえをせず黙ってニコニコする。木村さんに会うことを予告されていたから料理屋さんでアルバイトをするより簡単なことだ。
「越智くん、好きなもの食べて。」
「はい。」
川内さんがメニューを見せてくれた。メニューには、トーストにピザ、ケーキが数種類…。
「越智くん、ここのチーズケーキきっとあなたの口に合うわよ。好きよね?チーズケーキ。」
「僕が好きなのは…」
川内さんに膝を指で突かれる。余計なことは言うなということ。
「…では、チーズケーキをいただきます。僕だけ食べるのは気が引けるのですが…。」
「そう?それなら私もいただこうかしら。川内さんは?」
「いただきます。越智くん、頼んで。」
「はい。」
僕がチーズケーキを嫌いではないということは、間違いではない。
レッスンが終わってからおやつをいただいたことが何度かあり木村さんが時々、ベイクドチーズケーキやレアチーズケーキを作ってくれたことがあった。
娘さんの分と僕の分を作ってくれていた。
僕はだいたい、火曜日の夕方4時にレッスンに来ていて、僕の後には1コマ空いていて、おやつを食べさせてくれたのだ。
だから、木村さんは僕がチーズケーキが好きだと思っている。
そのケーキの味は全く覚えていないけれど。
「美味しいでしょ」
「はい。とても。」
しっとりとしていて、甘すぎずチーズが濃い。たくさん食べてはきっと胸焼けしてしまうが、少し小さくてちょうどいい量だ。
「で、越智なんですが、ぜひ、スタッフに加わりたいと」
僕はそんなことは言ってないけれど、会わせるということはそういうことに決まっているんだと諦めはついていた。
「そう。よろしくね。」
「はい。」
ふふっと笑ってみせた。嫌いな相手であることを極力感情の外へ出し、取り繕い隠している作り笑いだ。
川内さんに恥をかかせないために僕は良い子でいる。
「越智くんは…ヴァイオリンは好き?」
あごに指を当てながら喋るクセも同じだ。僕の中ではヴァイオリンのレッスンを受けた木村先生の記憶と完璧に一致してしまう。年齢こそ重ねているものの薄く笑い目を細める表情も全く変わっていない。
「…はい。」
「好きな作曲家はいるかしら?」
「…詳しくはわからないです。」
「正直で良いけど。…お勉強してちょうだいね。」
ただの楽屋係に何を求めているんだろうか。
「イベントスタッフなのに、何もわからないなんておかしいじゃない?ねえ、川内さん。」
僕ができないと川内さんが恥をかく。
「わかりました。越智には勉強させます。」
父と母に恥をかかせた小学4年生の頃と同じになってはいけないと思う。
僕はこの人の前で再び自分に近い人に恥をかかせてしまうかもしれない。
「よろしくね。越智くん。」
「よろしくお願いします。」
僕の嘘の笑顔を剥がすように余裕の笑みを浮かべて覗いてくる。
やっぱり、嫌いだ。
背中に流れる汗が僕の体温を一気に下げる。寒気がしてきて震えがとまらない。
「あら、寒い?越智くん。」
もう、笑えない。作り笑いの仮面は音もなく割れた。
「木村さん、越智はあがり症であまり話したことがない方の前だと緊張してしまって。」
「そうなの。あ、美恵子さんのお店でもよく失敗してるわね。あなた、本当に大丈夫?」
「…すみません。」
苦味の少ないコーヒーの温度はとてもぬるい。何のごまかしもできない。そんな気分にさせられた。
「昔、コンクールの日に熱を出した男の子がいたの。」
「え」
「あの子、私にもご両親にも謝らなかったわ。体調の管理は演奏者の基本よ。健康でいることは礼儀だから。その後からずる休みをするようになって教室を辞めたの。才能はあったけど、子どもだからって許されないことをしたのよ。」
13年も前の出来事だ。今ここで引き合いに出す意味などないはずだ。
「くだらないわね。こんな話は。」
コーヒーを飲む姿にイラつきを感じる。
「私をがっかりさせないで。いいわね。」
僕ががっかりさせてはいけない人は、この人よりも
「越智にはこれから勉強させます。」
「そうね。よろしくね、川内さん。」
川内さんの方だ。
固く握りしめる拳が、虚しい行いだとはわかっている。こんなことを悔しがること自体が馬鹿気ていることも。
実家の自分の部屋に帰った。
クローゼットの中、しまいっぱなしのヴァイオリンを引っ張り出してケースを開けてみた。
予想通り弦は全て切れていて弓はボロボロ。松脂に至っては、ツヤを失って割れている。
謝るのは僕じゃない。
あの頃の僕が何を謝らなければいけないと言うのか。
僕は確かに間違ってなどいなかったんだ。
レッスンをやめてからもヴァイオリンを弾き続けていたかった。
切れてしまった弦がその道を断った理由だった。
共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜⑥
⑦につづく
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