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【短編】共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜⑤

誰でもない誰かの話

④はこちらから


雨上がりの夕方5時。
アルバイトに来てすぐに親方さんに腹部を殴られた。どうやら、美恵子さんとのお出かけが露呈してしまったらしい。

おはようございますを言いながら裏口の扉を開けた瞬間、無言の親方さんが、僕の胸ぐらを掴んで外に追いやって、今に至っている。

参ったな…って思った矢先、ドスンとお腹に衝撃を受けた。

「すみません」
「殺したって文句言えないよな。」
「はい。」
「どういうつもりだよ」
「呼び出されたので」
「美恵子のせいにするな」
足を蹴られる。
痛いけど、きっと僕が悪い。美恵子さんに呼ばれて親方さんからすれば不倫まがいのことをしたのだ。
「歩けなくしてやってもいいよな」
「それは、親方さんが罪に問われるかと。」
「うるせえ!」
また腹部を殴られる。
「川内さんが連れてきたから、バイトさせてやってんだ。お前、川内さんの顔にも泥塗ってんだぞ。わかってんのか?」
「…はい。」
親方さんと川内さんの関係は僕は知らない。
「1人でケツ拭くこともできねえくせに人のもんに手え出してんじゃねえ!!」
「すみません」
「ふざけんなよ!」
美恵子さんは、親方さんの後妻で、女将さんと呼ばれる人は最初に結婚していた人だ。つまり、美恵子さんは愛人から昇格して妻になったということ。前妻は店だけは辞めないと女将の立場を維持しているとても複雑な環境であることは、川内さんから聞いている。
「急に辞めさせると、川内さんに言い訳できねーし、お前が辞める言い訳考えろよ。わかったな。」
実質、クビということだろう。今すぐにでも逃げ出したい。
「さっさと、仕事しろよ!」
「…はい。」

とんだ目にあった。

その言葉を頭の中に並べて誰かに話せば、僕はただ、呼び出されたからそれに付き合っただけという自己肯定ができるのだろうか。

更衣室にいつものように入り、いつものように制服に着替える。
「おはよう。」
アイコスを咥えた料理人に声をかけられた。
「おはようございます」
ニタニタとしたその顔は、僕と親方さんとのやりとりの一部始終を見ていたと言わんばかりだった。
「意外性あるね、君。」
「そうでしょうか。」
無視もできないから相槌のように応えた。
「おばさん相手に勃つの?」
暇つぶしの質問に答えを探す。
「メンヘラがいきんなよ。だせえ。」
僕にとってだいじなことは、社会に溶け込むために、静かに息をして、誰かの感情に影響を受けすぎない。この人はただ、何かを言いたいだけ。直接的な言葉を投げて遊んでいるだけ。そう思えば雑音は僕には聞こえない。
「今日もよろしくお願いします。」
頭を下げて、その場を離れようとする。
「君、いる意味ないかんね。」
くくっと笑いながら捨て台詞を吐いていた。


料理屋が忙しくなるのは午後7時ごろ。
宴会予約のお客さんを個室に案内してドリンクを運ぶ。宴会メニューは決まっているから前菜から順番に出していく。その間にも新規で入ってくるお客さんを席に案内してオーダーを受けて厨房に流す。

僕がアルバイトを始めた頃、川内さんは様子を見に会社の人を連れてきたりしていた。慣れてきた頃には、来なくなったから僕はもう、川内さんはここには来ないだろうと油断していた。
「越智くん、お疲れ様」
「…いらっしゃいませ…。」
川内さんの横には、見覚えのある女性がいる。
「席、空いてる?」
「カウンターなら空いてます。」
「カウンターか…。」
「良いわよ、カウンターで。」
白髪混じりのロングヘア。
「じゃ、カウンターにしましょうか。」
僕はまた息の仕方がわからなくなりそうで
「カウンター2名様ご案内です!!」
「元気だね、越智くん。」
背中に冷や汗が流れ出す。川内さんが女性を連れてきたことはなんら問題はない。そこは問題じゃない。
「お席どうぞ。おしぼりも。」
「どうしたの?落ち着いてよ。」
川内さんが、僕の様子がおかしいと気がついた。
「あなた、越智くんていうの?」
「え」
酸素はもういらない。もういらないのに、どんどん吸い込んでしまう。指が痺れる。
「あら、木村さん、いらっしゃい。川内さんも。」
「美恵子さん、こんばんは。」
この映像の中に僕も異質なものにならないように笑顔を作って溶け込まないと。川内さんと木村さんがなぜ一緒に…仕事のことだろうか。
「飲み物どうします?あ、木村さん、奥の松のいいのが入ったの。」
「美恵子さんが薦めるならそれにするわ。」
「川内さんは?」
「うーん…南部美人かな。」
「はーい。ちょっと待っててね。」
さりげなくこの場を離れよう。
「つきだし、出して。」
親方さんに睨まれる。冷蔵庫から、綺麗に盛り付けられたお通しを2つ。飲み物と一緒のタイミングになるようにカウンターに運ぶ。
「はい、木村さん。奥の松ね。川内さんは南部美人。」
美恵子さんがお酒を出したから、僕は二人の前にお通しを置く。他のお客さんならこれでなんの問題もない。
「越智くん、今日のおすすめ教えてあげてね。」
川内さんの時は美恵子さんは僕がきちんと働いていることをわかってもらうために課題を残していく。
「今日のおすすめは、金目の煮付け…蛤の酒蒸し…です。天ぷらは山菜が美味しく…そちらのお酒に合うかと。」
「越智くんはお酒飲むの?」
木村さんが僕を舐めるように見る。額に脂汗が滲む。笑顔でいるには限界だ。
「ありがとう。蛤の酒蒸しを二つお願いね。」
「はい。」
川内さんが僕の様子に心配そうな目を向ける。メモを書いて
「他にもご注文ありますか?」
「大丈夫だよ。またお願いするね。」
「はい。」
僕は川内さんだけを見ていた。
木村さんが何の気なしに僕の手を握り
「この綺麗な指覚えているわ。コンクールに出ていれば…あなた、ここにいなかったかもね。」
「え」
「なぜ、辞めてしまったの?突然。」
「いや、あの」
僕は手を解くことができない。
「へえ、越智くん木村さんの生徒さんだったんだ。」
「…人違いだと思います。」
目が泳ぎ始める。この場を離れないと。
「失礼します。」

厨房にオーダーを投げて、外の空気を吸いに出る。世界は広いはずなのにどうして僕は小さな世界に生きているんだろう。

握られた手が震える。

小学生の頃、レッスン中に体を触られた。
嫌だと言えず、僕は早く終われと思いながらじっと耐えていた。肩に胸に背中に腰にお尻に脚に。姿勢を正すためと幾度となく触られた。
他の子のレッスンの見学をしていた時はこんなことはされていなくて、みんな一心不乱にヴァイオリンを弾いているだけだった。

きっと、僕だけがこんなことをされている。

両親にはどう話していいか分からなくて黙っていた。木村先生は芸大を出た素晴らしいヴァイオリニストだから。そんな理由で習いたい人はたくさんいたのだ。
確かに、ヴァイオリンは素晴らしかった。

コンクール前日。
木村先生に呼び出され、チャルダッシュの追い込みをかけた。レッスン後にはよくできたとキスをされ、服を脱がされた。

「才能があっても体が弱いのね」
コンクールの朝、熱のふらつきに耐えながら公会堂にたどり着いた僕に木村先生が吐き捨てた。
「ステージにこの状態で上がらせたら私が鬼みたいじゃない。帰りなさい。」
言われるままだった。母と父は先生に頭を下げて僕を車に乗せた。後部座席で熱で朦朧としながら助手席の母の啜り泣きと運転席の父の母を慰める声を聞いていた。
「ユキト、来年はちゃんとステージに立つんだ。わかったな」
父は赤信号で止まって僕を見た。
「はい。」
両親は何も知らない。何も知らないから僕を叱れるんだ。唇を触って木村先生のリップクリームの蜂蜜の匂いと唾液の味を思い出していた。

小学4年の僕は行き場のないざわついた感情を殺そうとしていた。



料理屋の外。裏口の出口。僕は吐いている。
首の傷跡に血液が貯まるように感じる。
僕は近々アルバイトをやめる。川内さんに申し訳ない。よりに寄って今日、しかも木村さんと一緒にお店に来るなんて。

「君さ、やる気ないなら帰って。」
料理人が裏口の扉を開けて話しかけてきた。
「吐いたの?」
漫画みたいに目を丸くして僕を見る。
「これだから、メンヘラは」
扉を閉めて中に戻るとまた扉をあけて
「水、ティッシュ。」
「ありがとうございます。」
「辛かったら帰ってもいいんだから。いてもいなくても一緒だろ、君。」
また中に戻ると、水の入ったバケツを持ってきて僕が地面に吐いた吐瀉物を側溝に流した。
「吐くなら側溝に吐け。手間省けんだろ。」
そう言って、僕の襟首を掴んで厨房に引き入れる。
「ホール出れねえなら皿洗ってくんねえかな」
慌ただしい厨房に洗いきれないお皿がそのまま。
「とにかく、小鉢が足りねえ。洗ってくれ。」
洗い場に押し込まれて、食器洗いのスポンジを手に取る。ひたすら、何も考えず、小鉢を見つけて洗う。拭き終わったものを調理台の近くに運んで、その他の食器を何も考えずに洗った。
「おい、ちょっとは役に立つな。」
この店で褒め言葉をもらったのは初めてで、少し驚いた。大皿も小皿も取り皿も全て洗っても次が来る。
「越智くん、ここにいたの?」
美恵子さんが下げてきた食器を置きながら驚いた様子を見せてきた。
「川内さんたち、そろそろ帰っちゃうわよ。」
水の音で聞こえないふりをする。美恵子さんが蛇口を捻って水を止めた。
「あなたはあなたの仕事をしなさい。あなたはホール係なんだから。」
「はい。」
泡のついた手を水で流してホールに戻る。

僕はここに何をしにきんだろう。
僕よりもテキパキと動く他の人たちの足手纏いになるなら食器を洗い続けたほうがいいんじゃないか。

「越智くん。」
川内さんに声をかけられた。木村さんはお手洗いに行っているようだった。
「今日はごめんね。苦手な人を連れてきたみたいだね。」
「いえ、そんなことは」
「頑張ったね。ありがとう。お会計お願いね。」
「はい」
何も…頑張っていない。何をどう見て頑張ったって言ってくれたのだろう。僕は、川内さんが来て帰るまでの間、何ひとつきちんとできていないのに。

「カウンターさんお会計です。」
「はーい。」
美恵子さんが伝票を計算して木村さんが帰ってこないうちに川内さんのお会計が終わる。スマートなやり取り。
「越智くん、あのお客さんの飲み物が切れてるみたいだからオーダー取ってきて。」
「はい。」
気の利かない僕をなんとか働かせて役割を与えている。美恵子さんは美恵子さんで僕を辞めさせないように必死なんだと思う。

夜10時、仕事終わりにうなぎの炊き込みご飯のおにぎりをもらった。今日は自転車じゃなく歩いてきたからおにぎりを齧りながら歩く。
「おい。」
アイコスを吸いながら料理人が僕の横を歩く。
「お疲れ様です。」
「おにぎり食いながら歩くのやめろよ。」
「すみません。お腹すいて…。」
「それ作ったの俺。」
「美味しいです。うなぎも山椒も…タレの味も。甘すぎないし、もっと食べたい味です。」
「君に誉められてもな。」
「越智です。僕の名前。」
「知ってる。落ちこぼれ。」
「そう言われても仕方ありませんね。」
「俺、真咲っつーの。知ってた?」
「…知りませんでした。」
「だろうな。真咲敦憲だから。よろしく。」
「なんでですか。」
おにぎりを食べ終わったラップを丸めてポケットにしまう。
「僕、もうすぐやめますよ。」
「辞めないよ、君は。」
「適当なこと言わないでください。僕は辞めます。」
真咲さんは、鼻先でふふんと笑う。
「美恵子さんが親方さんに頼んでた。君を育てたいって。馬鹿らしいけど、君を可愛がってるのはよくわかる。女将さんも、美恵子さんを馬鹿にして笑っていたけど、君のこと社会人として自立させたいって親みたいなこと言ってた。…君ってなんなの?」
「え」
「やる気ないの?あるの?」
社会復帰。
このためだけに僕はアルバイトをしている。
分かりませんと答えると料理人は僕に唾を吐いて
「自分のことだろうが!」
怒りをあらわにし僕を地面に叩きつけた。

アルバイトの後は川内さんのマンションに帰っていた。

次の日が休みであれば、朝までウイスキーを飲みながら起きている川内さん。
そのそばで硬い床の上、睡眠導入剤がなくても僕は眠れるようになっていった。

共通世界 〜マシュマロとピーナッツにアルコール〜⑤
⑥につづく

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