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『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第1帖『桐壺(きりつぼ)』

まず、はじめに
 古文での敬語の使い方を知りたいという思いがあって、大長編であることを覚悟に『源氏物語』を読むことにいたしました。読むからには、現代の作家が自己の世界感にて口語訳した物語でなく、本来の作者である紫式部の観点が解るように古文で読むことに挑戦いたしました。これとて原文ではなく写本なのですけれど、まあ、それはそれとして。
 古語辞書を引き、注釈書を参考にしながら読み進めること10か月、前になんて書いてあったか忘れないようにメモ書きをしておきました。ここに載せるのはそのメモ(あらすじではありません)です。
 物語は、短編が繫がれていく構成で殊の外おもしろく、つぎの展開がどうなるのか楽しみにして読めました。人の持つ「業」が繰り返され、「業」の作り出す時の流れに「あはれ」「むなしさ」を感じました(これが主題なのかもしれません)。
 恋愛小説とかエロ小説とかもっともらしく言う人が多くいますけれど、大嘘、大間違いです。

※タイトル画像は総柄友禅和紙(王朝絵巻)の写しで、直接『源氏物語』には関係ありません。

※以下全編(全54帖)、古文の引用は『新潮日本古典集成』(新潮社)に拠る
第一部

第1帖『桐壺(きりつぼ)』
天性の美貌に学問、音楽に秀でる主人公光源氏の誕生、巻名は、光源氏の母親桐壺の更衣の名
 
◇光源氏誕生~12歳◇
<物語の流れ>
桐壺(きりつぼ)の更衣(かうい)→桐壺帝の寵愛を受ける(白居易『長恨歌』)→他の女御から妬まれ苛められる →玉のような男児を産む →桐壺帝は桐壺の更衣の子に後見人が居ないことを憂慮、臣籍とし源氏姓を与える →3歳の子を残して死去
光源氏 →12歳元服 →左大臣の娘葵の上と夫婦に →桐壺帝の後妻藤壺、母親の面影求め慕う
 
<書き出し>
「いづれの御(おほむ)時にか、女御(にょうご)、更衣(かうい)あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」
(いずれの帝の御代であったか、女御、更衣が大勢お仕えしているなかで、身分はそれほど高くありませんが、ひときわ時めいていられる方がいました。)
 
 ※何と申すべき天皇の御代であったか(※歴史上の延喜時代(901~922年)に相当)、まず時代を言い、次に人物を紹介する。
「昔、男ありけり。」(伊勢物語)「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。」(竹取物語)と同じ形式で物語の語り出しのきまった形。

「はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉(そね)みたまふ。同じほど、それより 下臈(げらふ)の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚(はばか)らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。」
(初めから、われこそはと思い上がられた女御たちは、けしからぬ人とさげすみ妬んでおりました。それより下位の更衣たちは、なおのこと心穏やかでありません。朝夕の宮仕えのたびに、女御たちの嫉妬を掻き立て、恨みを受けることを積もり重なったせいでしょうか、病気がちになり、心細げに里帰りが頻繁になって、帝はいっそう愛しいものに思われて、他人の批判を気にされる気配もおありなく、世間の語り草にもなりそうななさりようです。)
 
 ※「せたまふ」は、使役・尊敬の助動詞「す」の連用形+尊敬の補助動詞「たまふ」
 ①「す」が尊敬の意の場合<最高級敬語>お~なさる、お~あそばす、お~になられる
 ☞「人のそしりをもえはばからせたまはず」<源氏物語『桐壺』>
(帝(みかど)は世間の)人の非難にも気がねなさることもなくて)
 ②「す」が使役の意の場合~をさせになさる
 ☞「忍びやかに心にくきかぎりの女房、四、五人さぶらはせたまひて、御物語せさせたまふなりけり」<源氏物語『桐壺』>
(しんみりと奥ゆかしい女房だけを、四、五人おそばにお仕えさせなさって、(帝(みかど)は女房たちと)お話しなさっていらっしゃるのであった)
 
<光源氏の誕生>
「前(さき)の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子(をのこみこ)さへ生まれ給(たま)ひぬ」
(前の世においてもご宿縁が深かったのだろうか、この世にまたとなく気品があって美しい玉のような男の御子までもお生まれになった。)
 ※「けむ」過去の原因の推量
 
<病弱な桐壺の更衣の里帰り>
《和歌》「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり」(桐壺の更衣)
 (定めある寿命だと思ってお別れする死出の道の悲しさにつけても、生きていたいものでございます)
 ※「生く」に「行く」を掛け、行きたいのは死出の道ではなく、生きたい命なのでございますの意を込める。
 
<桐壺の更衣の母>
「命婦、かしこに参(ま)で着きて、門(かど)引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、 めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎(やへむぐら)にも障(さ)はらず差し入りたる。南面(みなみおもて)に下ろして、母君も、 とみにえものものたまはず。」
 (靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)は、更衣の里に着いて門より入ると、邸の様子にもの寂しさを感じました。更衣の母のひとり住まいですけれど、ひとり娘を育てるために、なにかと体裁を整え、見苦しくなく暮らされていましたのに、雑草はのび、野分の風で酷く荒れてしまった感じで、月明りだけが八重葎にもさえぎられず、差し込んでいました。南面の間に招かれましたが、母君もすぐにはなにも語られません。)
 
<高麗人の人相見の言葉>
「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷の重鎮(かため)となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」と言ふ。
 (「国の親となって、帝王の位に昇るべき相がおありになりますが、その面から見れば、国が乱れる恐れがありましょう。朝廷の重臣となって天の下の治世を補佐するという面から見れば、一方で、その相が違うものとなりましょう。」と言う。)
 
【登場人物】
 桐壺帝(きりつぼのみかど、きりつぼてい)
  三条の大宮(左大臣の妻、頭の中祷、葵の上の母)と同腹(弟か)、桐壺の更衣を寵愛したことで「桐壺帝」と呼ばれるが、弘徽殿の女御(右大臣の娘)との子(第一皇子、後の朱雀帝)がいる。第二皇子(光源氏)に強力な後見のないことを配慮して源氏の姓を与える。
第八皇子が「宇治十帖」で登場する八の宮(宇治の大君、中の君、浮舟の父)。
 
 桐壺の更衣(きりつぼのかうい)
  父は按察使大納言、後宮では後ろ盾がなく清涼殿から最も遠くの淑景舎(しげいしゃ)に住むことから桐壺更衣と呼ばれる。桐壺帝の寵愛を受け、他の女御の苛めに愛ながら帝の子、光り輝く源氏を産むが、源氏3歳のときに死亡。兄(出家)がいる(『賢木(さかき)』)。桐壺帝がそっくりと見染めて後妻にした藤壺に投影して光源氏の生涯に影響を与える。
 
 光源氏(ひかるげんじ)
  桐壺帝と桐壺の更衣との子(桐壺帝の第二皇子)、光り輝く美貌と才能に恵まれた貴公子、「光る君」と呼ばれる。藤壺、六条御息所、空蝉、夕顔、末摘花、朧月夜、花散里、明石の君、そのほか多くの女官と関係を持ちながら、近衛中将、大将、大納言、内大臣、太政大臣、准太上天皇と上り詰め、栄華の象徴「六条院」を造営、春の町(紫の上)夏の町(花散里)、秋の町(秋好中宮)冬の町(明石の君)を配し、さらに二条東院(空蝉、末摘花)を加えて、関与した女君の住居とした。最愛の紫の上の死後、出家(死去を暗示した『雲隠』は題名のみ残り本文なし)。嵯峨にて二、三年出家生活を過ごし死去(『宿木(やどりぎ』)。
 
 藤壺(ふじつぼ)
  重要人物、先帝の后腹の女四の宮(第四皇女)、桐壺の更衣に似ているということから桐壺帝の後妻、同腹の兄に兵部卿の宮(紫の上の父)、異母妹に源氏の女御(朱雀帝の后、女三の宮の母)→光源氏との間に不義の子(後の冷泉帝)を産む→藤壺の中宮となる。37歳の厄年にて死去→光源氏が紫の上に興味を抱く(『若紫』)、紫の上に藤壺のことを話す(『朝顔』)、朱雀帝から女三の宮の降嫁の話を受け入れる(『若菜上』)など光源氏の生涯に影響を与え続ける。
 
 弘徽殿の女御(こきでんのにょうご)
  右大臣の娘、桐壺帝が東宮の頃の入内、桐壺帝との間に第一皇子(後の朱雀帝)を産む。最も格の高い弘徽殿(こうきでん、こきでん)に住み、朱雀帝即位に伴い皇太后(弘徽殿の大后)となり権勢営を誇る。桐壺の更衣が寵愛を受けたことに強く反発、光源氏、さらに生き写しとされる藤壺にも敵愾心を抱き、朱雀帝の妃と考えていた左大臣の娘葵の上、妹の朧月夜を光源氏に奪われたこともあり、左大臣派(光源氏)の政敵。
 ※「弘徽殿(こきでん)」が最も格が高く、「承香殿(じょうきゃうでん)」がそれに次ぐとされている。
 ※淑景舎(しげいしゃ)・・・桐壺の更衣が居る所の正式名称。平安御所内裏の七殿五舎の一つ、紫宸殿(ししんでん、中央に位置)の北東、壷(中庭)に桐が植えてあるので和名で「桐壺」。
 ※清涼殿・・・天皇の住居、紫宸殿の西
 ※飛香舎(ひぎょうしゃ)・・・平安御所後宮の七殿五舎の一つ、庭に藤が植えられてあることから「藤壺」
 
 頭の中将(とうのちゅうじゃう)
  重要人物、父は左大臣、母は三条の大君、葵の上の兄、光源氏の良き友、競い相手
 『夕顔』での官職が頭の中将であったが、後に「太政大臣(だいじやうだいじん)」となり、引退して「致仕(ちじ)の大臣(おとど)」と呼ばれる。
正妻は右大臣の四の君(弘徽殿の女御の妹、朧月夜の姉)、子どもは柏木、紅梅、弘徽殿の女御(冷泉帝の女御)、雲居の雁、玉鬘、近江の君など多数。
 ※頭の中将は、官職として近衛(このえ)の中将で「蔵人(くらうど)の頭(とう)」を兼ねている人のこと
 
 葵の上(あふひのうへ) 
  左大臣と三条の大宮との娘、頭の中将の妹、光源氏より四歳年上の正妻で、端正な人柄、六条御息所(ろくでふのみやすどころ)の生霊(いきりよう)に悩まされ、男子(夕霧)を産んで後、二十六歳で急死
 
 右大臣(うだいじん)
左大臣派(光源氏)と政界で対立する右大臣のこと、弘徽殿の女御、螢兵部卿の宮の北の方、朧月夜の父
 
<七殿五社舎>
《七殿》
 「弘徽殿(こきでん、こうきでん)」・・・北側に位置する七間四面の建物、後宮で最も格式の高い殿舎、皇后、中宮、女御などの住まい
 「承香殿(じょうきゃうでん)」・・・弘徽殿の次に格式が高いとされる、女御などの住まい
 「麗景殿(れいけいでん)」・・・弘徽殿についで格式の高い殿舎とされる、中宮、女御などの住まい
 「登華殿(とうくゎでん)」・・・女御などの私室に当てられた
 「貞観殿(ぢゃうぐゎんでん)」・・・皇后宮の正庁で後宮管理の事務、天皇の装束を裁縫する場所
 「宣耀殿(せんえうでん)」・・・女御などの居場所
 「常寧殿(じゃうねいでん)」・・・当初皇后などの殿舍、後に儀式担当場所(「五節の舞姫」の「帳台の試み」)
《五舎》
 「飛香舎(ひぎゃうしゃ)」(藤壺)・・・中宮、女御などの住まい、中庭に藤が植えてあることから「藤壺」と呼ばれる
 「凝花舎(ぎょうかしゃ)」(梅壺)・・・女御などの住まい、中庭に梅
 「昭陽舎(せうやうしゃ)」(梨壺)・・・女官の詰め所、東宮の御在所、中庭に梨
 「淑景舎(しげいさ)」(桐壺)・・・女御、更衣などの住まいとされるが、記録上摂政の詰め所、中庭に桐
 「襲芳舎(しふはうしゃ)」(雷鳴壺)・・・後宮の局(つぼね)とされるが、記録上女御の曹司、東宮御所、歌会の場、中庭に落雷を受けた木を放置したまま
 
<宮中での女の身分>
 中宮(皇后)1人、女御(大勢、大臣の娘)、更衣(大勢、納言家の娘)
※御息所(みやすんどころ)・・・女御、更衣など帝の寝床に仕える女、皇子、皇女を産んだ女のこと
 ※皇后とは、天皇の妃(正妻)のこと、中宮が皇后と同意になったのは平安時代の権力争いの結果
 ※中宮とは、本来皇后の住まいのこと
しかし、藤原道隆(953-995)は娘藤原定子(ふじはらのていし)を入内、女御とし第66代一条天皇の皇后とすることを目論むが、第64代円融天皇の皇后藤原遵子(ふじはらのじゅんし)が存命のため、一条天皇の妃として「皇后」とは別の名「中宮」を使うことにして、娘定子を正式な妃(中宮)にする(後に皇后)。
 さらに、藤原道隆の弟藤原道長(966-1028)は、兄道隆の死後、娘藤原彰子(ふじはらのしゃうし)を入内、女御とする。このとき、一条天皇の皇后として藤原定子が存命のため、中宮にする。一時的に一人の天皇に二人の妃(皇后と中宮、共に正妻)が存在したことになる。
 
<位階>
 正一位、正二位、正三位、正(従)四位(上、下)~初位(九位)
<官職>
 ○太政官(だいじゃうくゎん)・・・中央執行機関
  太政大臣(だいじゃうだいじん)・・・正一位
  左大臣、右大臣、内大臣・・・正二位
  大納言、中納言・・・正三位
  参議、大弁・・・四位
  中弁、少弁、少納言・・・五位
 ○式部省(しきぶしゃう)・・・考課、選任、叙位、大学に関すること、長官は「卿」(四位)
 ○左右近衛(このゑ)府・・・皇居、行幸(ぎゃうかう)の警護、警備、長官は大将(正三位)、下に中将(四位)、少将(五位)
 ○左右衛門(ゑもん)府、左右兵衛(ひゃふゑ)府・・・諸門の警護、長官は「督(かみ)」(四位)

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