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CMプランナー、コピーライター、クリエイティブ・ディレクター。 https://moriken-love.jp/

マガジン

  • 思い切り不随意筋な人生

最近の記事

短編 「何者」

「夜に溶ける」1 モンクの「April in Paris」を聴きながら深い夜に溶けていた。 そのままでいると、しばらくしていくつかの昔話が蘇ってくる。 そうだ。 そう言えば、俺はじぶんの父親の顔を知らない。 ま、そんなことは今となってはどうでもいいことだが。 近所に住んでいた同級生の母親。 どうにも低俗で野卑な生きもの。 それらが面白がって、俺に話しかけてきた。 「お母さんは、夜はいないの?」 「お母さんは、何をしているの?」 7歳だったか、8歳だったか

    • 「もっと早く…」

      年齢差は14歳だった。 初めて見たのはオーディション。 ショートカットですらりとした長身。 素敵だった…。 狡いことに仕事にかこつけて接近の機会を図った。 そして。 好きになった。 やがて離れられなくなった。 しかし私は悲しいことにいちど失敗を犯していた。 それでもその人を失いたくなかったから。 いつしか傍らにいつもいてくれるようになったが…。 ある日、ぽつりと彼女はつぶやいた。 「どうして…」 「もっと早く見つけてくれなかったの?」 その言葉はい

      • この前見た夢。

        マツダのディーラーに行くことになり、デミオを見ていたらトイレに行きたくなった。いざトイレに行くと女の人が3人着物を着て座布団に座っている。しかもガラス張りになっていて、さらに鰻の寝床のように奥に長い長方形のトイレ。そこからは何故かデミオが見え、女の人3人は全員、庭のような所に展示してあるデミオを見ている。ところで、そのトイレの便器は全て和式で女の人と女の人の間にある。これは無理だと思い、外に停めてあった誰かのオートバイに乗って走り始め、坂を上っていると左側にパチンコ屋を発見し

        • ふたりのトモコ

          【短編】「ふたりのトモコ」 同じクラスにふたりのトモコがいた。 ひとりは「友子」。 もうひとりは「知子」だった。 どちらも10歳で、同じ小学校の同じクラスだった。 友子は相当に悲惨な環境にあった。 そして友子に父親はいなかった。 暮らしているところは一階が居酒屋、二階が住居となっていた。 居酒屋の引き戸を引いてカウンターを見ながら右へ進むと そこに階段があり、学校から帰るとその階段を上がって ランドセルを置いて銭湯に行くのが日課だった。 もう片方の知子は経済

        短編 「何者」

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        • 思い切り不随意筋な人生
          7本

        記事

          夜空を見上げれば(天気さえ良ければ)必ず月がある。満ち欠けを繰り返しながら月はいつだって頭上に輝く。物心ついた頃から月は私の傍にあった。 木造アパート2階にあった窓の縁に腰掛けて見上げた月は、今も変わらない。月を見て、人をうらやみ、肉親を恨み、自分を卑下した。睡魔がやってくるまで月は私の心との会話に時間を割いてくれた。 「上を向いて歩こう」という歌が大ヒットした時、私は小学生だった。 けれど、歌詞の意味がなんだかとてもよく分かった。乾いた布に水が染みこんでいくように…。

          思い出のシャルル・ド・ゴール空港

          もう20年ほど前の話だが10月に仕事でヨーロッパに出かけた。行き先は ロンドンとパリ、それからイタリアのフィレンツェ。 ロンドンとパリは、まさしく今風に言うのであれば道路特定財源をおそらくは使っての仕事。当時のJHから依頼された仕事だった。 どんな仕事かと言えば、環状道路の(工事についての)理解促進を図る もの。ところでみなさんが暮らしている地域には環状道路、と呼ばれる ものはありますか?この環状道路というのは、実は大都会を抱えた地域に 多くつくられる。 なぜ、つくるか

          思い出のシャルル・ド・ゴール空港

          死んじゃうことへの疑問

          ある日から、私はひどく落ち込むようになった。それは小学3〜4年の時期だったと思う。自然のさまざまは、私にとってどう生きることが幸せなのか、ということを教えてくれた代わりに、生命のはかなさをも同時に突きつけた。 素晴らしい飛距離を見せてくれたトノサマバッタも、釣り糸をあれほど強烈に引っ張った鮒も、鎌をもたげて威嚇したカマキリもあっけなく死んでいった。住んでいた、生きていた、その場所に置かれていればまだまだ十分に生を謳歌したかもしれない生きものたちは、私が関わり、その場所から彼

          死んじゃうことへの疑問

          古いアパートが気になる

          木造の古いアパートに心惹かれる。 私が小学校の1年から20歳になるまで過ごした家?は、木造モルタル塗りの 2階建てアパートだった。そのためなのか、どうにも古い木造のアパートが 気になる。 近頃はデジカメを携行して、見つけると撮影したりしている。いかにも 懐古趣味の極みであって、人生カウントダウンに突入した人間のセンチ メンタル、といった趣だ。 そのアパートはありふれた名前だった。どうしてこういう名前が多かったのか 知る由はないが「葵荘」という。最近はあまり耳にしないかも

          古いアパートが気になる

          変わった子ども

          私は母親に育てられた。実の父親は私が小学校に上がる前に死んでいる。母親の言葉を信じるのであれば、酒場で倒れて病院で死んだ、という非常にシンプルきわまりない最期である。酒を浴びるように飲んだから肝臓が悪かったんだ、と母親は説明してくれた。よって、私には酒なんぞは諸悪の根源であるからして、絶対に口にしてはいけないモノだと教え込んできた。だから私は教えを守り、20代中頃まで自ら進んで酒を飲むことはなかった。 というわけで私は小学校1年の時から、所謂「母子家庭」という環境で育ってき

          変わった子ども

          猫と私の話

          確か22歳くらいの頃だったと思う。1匹の猫を飼うことにした。 知り合いが飼っていた猫が子供を生んだので、もらってほしいと 言われ、あまり深くも考えずに飼うことにした。 当時は木造のアパートに母親と暮らしていたが、ほどなく取り壊される だろうということで勝手に飼ってもいいことに決めた。とはいえ、 別段猫が好きであったわけではない。今でもそうだが、総じて生き物が 好き、と言うことは前提であったが、いわゆる私は猫が大好き、とかと いったようなことでは決してなかった。 当時はバイ

          猫と私の話

          大森先生のこと

          大森先生は、私の通っていた高校ではおっかない先生として有名だった。 先ず、顔が厳つくて黒い。もちろん担当していた科は体育だ。そして、 ラグビー部の監督をしながら、生活指導部の先生も兼任していた。 私の高校時代は今から35年〜38年も以前の話だから、1970年頃の ことだ。ちょうど70年安保闘争の真っ盛りに高校1年生だった。新聞部に 入った私は、訳も分からず名古屋の白川公園に連れて行かれて、仲間と いっしょに名古屋駅までデモ行進をさせられた。「安保、反対!沖縄、返せ!」と叫び

          大森先生のこと

          【短編】幸福を展示する美術館

          (1)来館者 悲しい顔をした女性の来館者がやってくる。 受付の中年女性は、そんな女性の顔を見ると素早く デスクのボタンを押す。 「いらっしゃいませ」 ボタンを押し終えると受付の中年女性は努めて普通を 装い、挨拶をする。 「大人1枚」 悲しい顔をしている女性は、蚊の鳴くような小さな声で 切符を求める。 受付をしている中年女性は、若い時にはそれなりに体型を 保っていたのだろうが、今はすっかり体重過多になっている。 だからいつも自分のことを悲しく思っているのだが、そ

          【短編】幸福を展示する美術館