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死んじゃうことへの疑問

ある日から、私はひどく落ち込むようになった。それは小学3〜4年の時期だったと思う。自然のさまざまは、私にとってどう生きることが幸せなのか、ということを教えてくれた代わりに、生命のはかなさをも同時に突きつけた。

素晴らしい飛距離を見せてくれたトノサマバッタも、釣り糸をあれほど強烈に引っ張った鮒も、鎌をもたげて威嚇したカマキリもあっけなく死んでいった。住んでいた、生きていた、その場所に置かれていればまだまだ十分に生を謳歌したかもしれない生きものたちは、私が関わり、その場所から彼らを連れ去ることによって、いともあっけなく骸に変わった。

美しい色彩を身にまとい、理にかなったプロポーションで私を魅了した彼らは、自らにふさわしい時間の経過を経ることこそ幸せであることを教えてくれた。しかし誰もが皆平等に与えられた時間を全うできるわけではない。思わぬ存在の恣意的な行動や干渉によって、それは叶わなくなる。

こうして文字にしたため推敲したわけでもない当時、そのことは怖れとなって私の心の中を独占していった。有り体に言うのであれば、私は「死ぬことへの恐怖」を意識し始めたのだ。

窓枠に腰掛けて夜空を見上げて悲しみを重ねた、と表現したのはその頃のことだ。抗えないもの、どうしようもないもの、動かせないもの。巨石に行く手を阻まれたような悲しみ?虚しさ?に私は落ち込んだ…。

母親が水商売であったこと、そしてひとりっ子であったこと。それがたったひとりで夜を過ごさなくてはならなかった事情だ。おかげで誰ともしゃべることなく、思う存分自分だけの想像の世界で私は、夜、飛ぶことができた。

生きものは、そして、人はなぜ死んでしまうのだろう?子どもの私にとって、これはかなり難しい問いであった。今でもはっきりと覚えている。私はあの頃、こう考えていた。「ってことは、死ぬために生きているのか?」


そして、死ぬことへの漠然とした怖れを感じていた時期に母親が骨折して入院した。手術後の経過が思わしくなかったために再手術をしたり、輸血された血液が売血者の血液で、水で薄められていたらしく黄疸にもかかってしまった。

入院していた期間は1ヶ月ほどだったと思うが、私はひとりで寝起きして小学校へ通った。そもそも人に何かを依頼するという発想がなかった。ましてや面倒をみてもらう、などあり得ないことだったからだ。

あれほど、死というものと対峙しようとしていたくせに、母親の手術には何の不安も感じなかった。やはり死は差し迫った問題ではなく、宇宙の構造と同じように頭の中で把握することができない不可解なものであったのだろう。

3〜4歳の頃、私は祖母の最期を看取った。布団に寝ていた祖母はおそらく病気だったのだろうが、どういうわけか病院ではなく自宅にいた。のどが渇いたと訴えたので、私がガラス製の水飲みで水を飲ませた。水飲みは病人が飲みやすいようにカーブしたガラスの吸い口がついていた。

その先を口元に咥えて祖母は水を飲んでいた。透明なストローのように、水が祖母の口の中に流れていくのを眺めていたら、ふいに水が水飲みの中に戻っていった。そして祖母の口元から水が一筋、流れた。私は家族にこう言った。「おばあちゃんが水をこぼしちゃったよ」。

つい先ほどまでのどが渇いた、と私に意思表示をしていた祖母はあっけなく死んだ。後々になって気がついたのだが、この祖母の死も心の中に引っかかっていたのではないだろうか。その時も釈然としないものが残った。訳の分からない力?に祖母は連れ去られていったような気がした。

孤独感とか焦燥感とか敗北感とか、これらを自我と呼ぶのかもしれないが、それまでは大勢の中の自分であったのに、母親が入院をしたこの頃から自分の中の自分が姿を現してきた。そしてそれは、身の回りで起きている現実を直視した結果もたらされる悲しみだった。頼る人などはいない。自分のことは自分でする。

いつもひとり。触れればもちろん手応えも体温もあるはずの母親でさえ、深い溝に隔てられた存在のように感じた。そうなんだ、人は、生きものは、ひとりなんだ。これをきちんと覚えておかなくてはいけない。私はこの言葉を脳みその中で反芻した。


昼の間は学校があるので、夜への怖れなど全く忘れて過ごしていた。端から見れば
ただのやんちゃな小学生だ。しかも人前ではことさら元気を装うという小芝居に
長けていたので、なおさら誰も気付かない。その頃の毎日の生活は、小学校から
アパートに帰ると、銭湯に行く。それから母親が仕事に出るまでのわずかな時間、
外に遊びに出かける。夕方、再びアパートに戻る。といった感じだった。


母親は大相撲が好きだった。大鵬を応援していて、結びの一番を見終わってから
出て行った。外から鍵をかける音を聞くと、いつも私は観念した。つくってくれた
夕食が卓袱台にのっている。それを好きな時間に食べる。それからテレビを見る。
プロレス中継では力道山より吉村道明の「回転エビ固め」に興奮して、布団を使い
それを試してみたりした。


ララミー牧場が始まる頃、眠くなってくる。眠気を感じると同時に、頭の中の
どこかにあるスイッチがオンになり「人はなぜ…?」が始まる。布団に入り、
泣く。ひとりきりだという感覚がひしひしと襲ってくる。それが嫌でテレビも
消さないし、電気も消さない。

こういった期間がどれほど続いたのか、それは覚えていない。数日間だったのか、
あるいは数ヶ月間だったのか…?アパートの天井の木目は、溺れそうになって
懸命に手足をばたつかせる私を飲み込む波だった。けれども私は、そんな状況を
打破する有効な手だてをふたつほど発見した。


ひとつは「本」。小学生向けの物語や世界名作全集を読むこと。これが驚くほど
有効だった。この年になっても変わっていないが、枕元に本を置き必ずそれらに
目を通してから眠る。「路傍の石」「次郎物語」「家なき子」「小公子」など…。
「路傍の石」の吾一が理不尽な目に遭うことは、逆に社会に対する奇妙な反骨心を
刺激した。もうひとつは「懸賞」に応募すること。 

これは少しでも明日が待ち遠しくなる
ようにすれば、夜を迎えることがが怖くなくなるのではないか?という子どもなりの
知恵だった。少年サンデーや少年マガジンの懸賞に毎週応募した。そして当選発表を
心待ちにして過ごすようにした。当たりはしなかったが、気付けばいつしか怖れは
霧散していた。こうして私は「死、あるいは孤独への恐怖感」を誰にも知られること
なく、克服?することに成功した。やれやれ。 

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