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ディープステートとは自らの不幸を何者かのせいにする、我々自身でもある

自分が話してきた内容、それをそっくりそのまま広めてほしいわけじゃない、大事なのは「誰が話してるか、ではなく何の話をしているか」、目立ちたくてこんなことやってるわけじゃないし、本当はこんな面倒な文章をひたすら綴るのは今すぐやめたい。

やめたい、やめたいが自分のような話をする人が他にいない。いたとしても、やはり違う、基本に神を信じる心がないから無視論的な見解で冷たく話すことになる。


誰も分け隔てなく、誰も差別せず、誰も偏見の目で見ないとするのは難しいかもしれない、だけどそうじゃなきゃならない。

そうでなければ、陰謀論に関係する話など誰もしてはいけないんだ。信仰の自由とあるが、それは偏見の自由とも言える言葉、最初のユダヤ教やキリスト教、または仏教から派生したとするならなぜ基礎を守らないのか。

勝手な自己解釈で人を洗脳し従わせ、政治的な問題に関与して世論を操り支配する。献金とするお金を集め、その幹部や教祖が私腹を肥やす、そんな事を行うのが宗教か。

誰かの裕福のために信者は悔い改めているのか、信仰しているのか、神を拝まず人間を拝ませる。グノーシス主義に没頭した派生カルトが勝手に聖書の自己解釈をし、悪い神による宇宙とする宗教的定義を作る。神が悪いとするのは責任転嫁であり、自身の不幸を別な何者かのせいにする現実逃避。


自分は不幸なのか、本当にそう思うのか、改めて考えなおさなきゃいけない。自分ばかりが不幸なら、なぜ毎日しっかり食事をとる事ができるのか、なぜ夜になっても電気が通る明るい場所で過ごせるのか、なぜストーブやエアコンのある暖かい空間で寒い冬を過ごすことができているのか。


不幸ならそんなことはない、裕福で幸せだからそんな生活を続けられる。欲を言えばきりがない、今ある幸せと自由を満喫せずに、その人は自身を不幸だ不幸だと思い込み自分の時間を無駄にし続ける。

日本は、そんなに酷い国だっただろうか、他国よりも厳しい政治に支配された、民主主義としての自由が許されない政治が行われてきた国だっただろうか。

我々を洗脳してるとされるテレビ、マスコミ、マスメディアは、それほど酷い洗脳のための報道などしてきただろうか。それは自分が不幸なのは何者かの陰謀があるから、と考える責任転嫁ではないのだろうか。


確かに過酷な労働に従事し、いつまでも安い賃金で働き続け、恋人もできず、結婚もできずに年齢だけを重ねるのはとても不幸なのかもしれない。たとえ相手がいて子供がいて結婚していても、やはりそこにはそれぞれの不満が蓄積する。小さな幸せが見えなくなる、大きな幸せばかりを求め誰かを羨み続ける。

他の誰かは自分ではない、自分ではないので同じ幸せの基準を持とうとする必要もないし、その人にはその人の幸せがある、誰かから見て普通でも当たり前でもなく、常識でもなく、その人個人の幸せの基準がある。

小さな幸せを積み重ねて、それを大きな幸せとすること、それも立派な幸福論。

必ずしも皆がやってるから自分も、なんて集団意識に参加する必要なんかない。他の誰でもないなら自分の今を感じて、今目の前にある幸せを感じて生きればいい。


だから陰謀論を知り、その承認欲求のために何かと戦う必要もない。民主主義社会では全ての人がティープステートで、影の政府となる。我々が政治を選び、社会を動かしている、1人の個人崇拝された人物によるワンマン経営で政治が成り立ってるわけじゃない。


その政治や社会問題、時事問題を引き起こしているのは思想主義で対立する自分達自身であり、何もうまくいかないのは、その思想主義による支配の中に身を置いているから。

思想主義に没頭し頑固になり、それが固定概念化するなら、それは何もうまくいかない不自由な足枷、鎖となる。

その足枷、鎖をはずせずにもがき苦しむ、その原因を別な何かに責任転嫁、自ら鎖に縛られてるのに、同じく鎖に縛られた何者かを敵視する。互いの足を掴み、その足の引っ張り合いをする。

こんなにうまくいかないのは誰かのせい、陰謀を企て私腹を肥やす何者かのせい、解決しない問題にいつまでも執着し、そう思い込み続ける。

トランプ大統領が言うディープステートとは我々の事であり、民主主義による自由意思と自由な思想、多様性を持つこと、それを強く主張する事をアンチファシズムと言っている。

ファシズムを否定するなと言っている、それは独裁を受け入れろと、権威主義、全体主義を受け入れろとする主張そのもの。

そうやって洗脳し、我々自らに民主主義を放棄させる巧妙な心理誘導、プロパガンダ独裁支配、今それが現実となり実現した。


世の中はおかしい、確かに不幸とするものは見え隠れし、理不尽な現実は多々あるかもしれない、自分の見えない場所で想定もしない苦しみを抱えて生きている人は大勢いる。

それを政治のせいだとするなら簡単だが、その政治を選ぶのも、そんな社会にするのも全ては我々大衆の意思表示1つ。何も言わないこと、傍観者になり、おかしいことをおかしいと言わない、偏った認識に引っ張られる、竜のようにものを言う、強い口調の、声の大きい者に従う。屈しているから支配される、逆らわないから理不尽な社会となる。


集団による圧力でもなく、ロビー活動による成果でもない。マインドコントロールや洗脳で増やした数の暴力でもない、必要なのはそれぞれ個々としてある道徳心ある理性から芽生える自分自身のはっきりとした意思表示。それが愛であり、正義感とも言えば勇気とも言うもの。

右に属するから全てを右にするのではなく、左に属するから全てを左とするのではなく、左右全てとしてあること、そうでなければ左右の支配欲旺盛な何者かの支配下に甘んじることになる。


だから、何事も疑うと思うならしっかりと疑い疑惑を持つ。全てにおける、目に入ってくるものを自分自身の心で判断して物事を見極める。誰かの意見でもなく、世の中の数の暴力となる同調圧力でもない、自分自身が素直に思う心の中に芽生えた熱い感情を言葉によって一生懸命に表現する。

数字に引っ張られずに、目に入る、見せられる情報だけに支配されず、まず自分自身の愛に答えを聞くのが最優先。そこにある道徳心、正義と勇気、許しと希望のある感情を優先する。

誰かを踏みつけ蹴落として這い上がるのではなく、お互いに手を引っ張り合って崖を登る。その勇気と希望のために、自分自身が持つ神の心に答えを聞く。


不道徳と思うなら、それは不道徳であり、無情と思うならそれは無情であり、許しがないと思うならそれは許しがないもの。誰も知ることがない、自分の心の奥底にある素直な感情は自分自身にしか解らないこと。


罪悪感と同情、哀れみは偽善でもなければ、その人を弱くするためのものでもない。崖を登るために差しのべられた、お互いの手である。その手を放さなければ、間違いのない道徳心ある答えを、その心が教えてくれる。

我が子を強くするために崖から突き落とすのではなく、崖から落ちないようにしっかりと守り、その心を継承させ、道徳心がある、正義と希望を持った、優しく許しある、勇気ある者に育てること、それが必要なこと。

そうすれば、誰の手も決して放さない、本物の優しさと正義と勇気の心を持つ、未来を担う真実のメシアが誕生する。


手を放さないことは決して裏切らないこと、その人を絶対に忘れないこと。たとえ自分が1人孤独でも、誰も忘れないこと。


いつまでも、胸に刻み、全ての生命、全ての人々を愛し続ける。そのためなら自分はどうなってもかまわない、いや、まだ自分はそんな段階には行き着いてはいない。

それでも、この世の全てを愛したい。

どんなに心が苦しくても、たえられる。神を信じているから。




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