偏見者は自らに従わぬ者を簡単に馬鹿と罵る、そんな人間仲間でも友達でも何でもない、群れる全体主義のアメーバ
とにかく自分の信じる思想主義に従わない者を馬鹿とすぐに罵るような人物は信用する必要などまったくない。その馬鹿とする言葉は、他者が自分が属する何かに入らないから馬鹿と罵っている意味であり、それは完全なる支配欲。
こうだからこうなんだ、だから信じないあなたは眠ってる羊、馬鹿であると言う。その極右極左の思想主義に従わなければ、あいつは馬鹿なんだと言う、それは群れて属して強くなったつもりでいる弱き心を持つ者達による、たんなる悪口。
なぜ全てに従わなきゃいけない、言うことを聞かされる必要がある、我々に支配者などいないし、教祖など拝む必要性など絶対的にない。個人崇拝ほど馬鹿げたことはないし、それこそチンパンジーの群れ、それが世界規模で広まれば地球は猿の惑星になる。
決めつけ、レッテルにラベリング、陰謀論にはそういった偏見的なものが付き物、そんなものごとき浅知恵など信じるから心が腐らされる。自分が物事を解っているつもりでいる浅い所で溺れている哀れな人達。
自分が相反する物事に対して、その全てを一切受けれなければ、それは認知バイアスとなり、強固な偏見の塊、意識となる。どんな物事にも必ず対立した意見はある、それをお互いに1つの共同体、アメーバなどやっているから憎しみ合うし争いが絶えない。
自分の意見とは合わない、気に入らないから馬鹿と簡単に罵ることほど哀れで愚かなことはない。誰も眠ってる羊でもないしテレビ洗脳などされていないし馬鹿でもない、左翼右翼など関係ない、自分がどう思うかが大事。
従わなければハブにするとか、シカトするとか、仲間はずれにするとか、ガキのおままごとじゃないんだから、大の大人が何をしているのか、本当に嘆かわしくて憤る。
少しでも反対意見を持つ者を許さないなんて、そんなものがまかり通っていたら誰も何も言えないし本音を隠して生きなきゃいけない。意見の違いがあり、その思想主義の対立から人同士の繋がりまで絶ちきるような状態なら、それは本当の仲間でも友達でも親友でもない、たんなるアメーバとなった共同体。
今の状況はナチスやソ連時代のドイツやロシア、それが世界規模で広まっている偏見主義のナショナリズムで、世界規模で酷いファシズム化をしていると言える。
そして多くの人が、特定の人の意見ばかりを鵜呑みにし過ぎだと思う。もうその時点で多様性もない全体主義になり、個性を失っているし、多様な意見を封殺し弾圧している状態にある。ロシアの陰謀論プロパガンダとトランプ現象によって陰謀論の影響が強くなり、それを利用して大衆煽動するナショナリズム、ポピュリズム思想を持つ偏見者の主張が強くなっている。
そんな極右極左の無重力のシーソーゲームに参加していても世の中はより酷くなるばかりで、今後もより一層平和とは程遠くなる。
自分はどんなに意見が対立しても誰も嫌わないしブロックなどしない。意見は違っても、その人を嫌いと定義するわけじゃないので、決して拒否するような事はしないし、誰も無視などしない。意見をくれた人には真剣に答えを考えて返すし、真剣な話をしてくれたらちゃんと聞く耳も持っている。
自分の意見を聞かないから最初から馬鹿だなんて罵ったりはしないし、そもそも自分の話す内容は意見とするものと言うより、反対意見にも耳を傾けろとする助言。そして偏見的な意識、差別的な意識を持ってはいけないとする道徳心と、理不尽なレッテルやラベリングなどしてはいけないとする戒め。隣人に対して偽証をしてはいけないとする十戒の言葉の中にある神との約束そのものを重んじる。
世の中の人は、その他大勢に意識を呑み込まれる、どんなに気をつけていても、自分ではそうしているつもりがなくても、人は必ずそうなってしまう。誰かと同じを好むのは群れて属する集団意識、帰属意識のようなものがあるからで、群れてなくては不安で仕方ない、それは1人でレストランに入れないのと同じ心理。何事も1人では不安なので、何者かに依存している状態。
自分を見てくれたら解ると思うが、何者にも依存していないし、数字になど左右されてもいないから何者の支配も受けていない。だからこそ臆せず好きな事が話せる。
こんな事を言ったら誰かを不快にさせる、憎まれる、馬鹿にされるなど、そういったことは考えない。自分が思うことを素直に綴るし、そこに躊躇する気持ちなど一切ない。
冗談を言いたい時は迷わずに言うし、消したい言葉は気にせず消す。言葉とは本来消えるもの、ここに形としていつまでも残るよりも、誰かの心に響かせる、振動させる事の方が重要で、それで今話した言葉は無意味ではなく、意味があった言葉として残り続ける。たとえ全てを綺麗さっぱり消してしまっても、誰かの心に残ればそれでいい。言葉が消えても自分が今すぐ消えるわけじゃない、メインのデータはこの頭の中にある、だから何度ブログやnoteを消しても、この頭の中にあるものは消すことはできないし、これも宇宙の記憶の中に残され続けているもの。
誰かがそうだから自分も、になれば、誰かが自らを汚す行いをし、それを普通や当たり前とすれば真似をする自分自身も汚すことになる。それは思考でも同じで、誰かの考えが汚れたものなら、それを思考タトゥーすれば思考の恥辱となる。それこそ自分の身体にタトゥーをするのが流行り、みんなやっているからの意識でタトゥーを行えば、それは自らの肉体を汚している結果になる。
みんなが肉体だけの関係、セフレ等を持つから自分も、の意思になれば、みんなが行う普通や当たり前とする悪魔の囁きに思考まで恥辱され、肉体まで汚される結果となる。「え~、それはおかしいよ~、みんなやってるよ~」それが悪魔の囁き、自分では本意でなくてもみんながやってるとする意識を持たされたら、そうしなければ仲間として認められないような気持ちにされ、結果同じことをする。みんなと同じ、などやる必要もないが、そのみんなと同じと言う悪魔の囁き、羞恥心からなるパラノイアが自らの頭心体を全て汚し尽くす結果を生む。
はっきりと言うが、イエスキリストとは民衆に寄る、民主主義のリベラルであり、だからその当時のステレオタイプのユダヤ教を、より真っ当で道徳心ある考え方を取り入れたものにするために言葉を尽くした。
キリストはナショナリズムの保守右翼思想等ではない、だからロシア正教会や、白人史上主義のホワイトハットと呼ばれるプロテスタント、福音派の極右主義者はキリストの心に反する思想主義を持つ偏見宗教とする答えになる。そういった意識はカトリック教会にもある、だから全てそういった意識を持つ信仰者は反キリストと言うことになる。キリスト自身は教会など作っていない、作ったのは他の人間であり、そんな許しなき人間を拝ませる教えなどキリストは主張していない。
当然カルト宗教を行い教祖をやれなどと言ってもいないし、権威主義、全体主義の個人崇拝、独裁帝国、拝金主義支配、のようなものを最も嫌っていたのがイエスキリスト自身。
その教えの基本にあるのが愛と許し、それなくしてキリスト教を信仰してるなどと言うのはたんなるファッション、行き過ぎればそれはカルト宗教のファシズムとなる。
基本は人間など拝まず神を信じること、それがキリストが指し示した道、神道。
人間ではなく神を強く信じること、なぜそんな簡単な事ができないのか、それは左右で番兵している二極の獣が邪魔をしているから。
その二極の狛犬、ライオンと一角、ゴクマゴクを拝まないこと、その獣を拝まずに神を信じること、左右の獣となる人間を拝む事が獣の刻印、人間の数字666となる。