日本人とニヒリズム
ごあいさつ
高校のときの卒論()を見つけたのでわかりやすく解説添えたうえで供養します。夏休みまるまる使って考えました。テーマは『日本人とニヒリズム』なのですがあんまりテーマに沿ってないです。内容としては日本の歴史をドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』の解釈にこじつけ..(ゴホン)落とし込んだものになってます。ファシズムのとこまではいいこと言ってんなあと自分で思います。GHQのくだりは浅いです。オタク文化批判のとこもなんか既視感があります。ちなみに最後は偉そうに日本人のニヒリズムへの対処法を語ってます。そこらへんののちに理系に進学する高校生がにわか知識で書いたのであんまり強くマジレスしないでください。ふつうに泣きます。
序論
江戸幕府が打倒されるにいたるまでの封建システムと、それを解体し再編成する形で完成された近代天皇制。これらのシステムの作り出す価値観は近代日本人の内面に根付き、彼らにとっての絶対的価値であった。しかしこれらの価値観は、前者は明治維新、後者は敗戦後の改革によって多くが打倒された。今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となる事態のことをニヒリズムと呼ぶ。近代天皇制という絶対的価値の喪失がこれに当てはまるのは言うまでもない。土地や規範によって縛られた江戸時代から抜け出すことで資本主義の世界へと身を運ぶことは、多くの価値を相対化した。これも一つのニヒリズムと呼べよう。
我々のすべきことは近代の日本人とニヒリズムの分析であり、ニヒリズムに対し日本人がとるべき態度を明確にすることである。近代天皇制が絶対的価値となるまでの分析と、日本人が規範や地域共同体という支えを喪失していく過程の分析。そしてファシズムをニヒリズムに包含される概念として捉えるのであれば、日本型ファシズムの分析は日本人とニヒリズムを考えるに際して不可欠であろう。更に戦後、我々が新たに信仰した存在を嘗て天皇が体現していた絶対的価値のイメージの投影としてこれを捉え、分析する。最後に、我々がファシズムを避けつつもニヒリズムに対峙するための姿勢を提示する。
本論
1.現人神
『超国家主義の論理と心理』において、天皇は真・善・美の源泉であることが示された。天皇の持つ絶対性とそれに基づく価値体系こそが、丸山の指摘した近代日本の特性である。現人神たる天皇が、政治的権力と精神的権威を一手に握る体系こそが、近代天皇制であろう。この一神教的な体系こそが、戦前の日本の絶対的な価値観であったのである。
さて、上記の議論の補足を兼ねて、日本の封建制と明治維新後の主従について説明する必要がある。江戸時代において、将軍⇒藩主⇒家臣、士農工商といった風に将軍を頂点としたヒエラルキーが出来上がっていたことは言うまでもない。この主従関係を当時の日本人に徹底させるため、江戸幕府がお墨付きを与えたイデオロギーこそが朱子学である。 江戸幕府の奨励した朱子学は、忠孝を美徳とすることにそのイデオロギーとしての特質がある。すなわち、子が親を、家臣が主君を敬うことを是とする言説である。読書階級である武士は一般教養としてこれを学習し忠孝を道徳として内面化したのである。明治維新は将軍を頂点としたヒエラルキーを解体し、数々の社会的コード(コード:ルールや規範など、人を規制する何かを概念化したもの)のタガを外したが、主君や父への忠孝の教えが維新後にも残ったことは教育勅語を参照すれば明らかだ。ただし、忠孝の対象は将軍から天皇にすげ替えられている。
ここで、注目すべきことがある。従来の天皇のイメージである「御簾の奥にいる束帯を着て衣冠をかぶっている男性像」が、明治時代においては踏襲されていない。明治帝といえば、豪奢な軍服を着た男らしい肖像を想起するであろう。軍服姿の明治天皇はイメージ出来ても、果たして明治帝より前の天皇が軍服なり甲冑なり、いや刀さえも携えた姿が想像出来ようか。明治帝のこの男性的なイメージへの変化こそ、天皇が将軍に簡単に入れ替わり、忠孝の対象となった一つの鍵となる。武家社会の頂点たる将軍、絶対的な存在たる主君、そして父。これらは皆、男性的・父性的なイメージを持っている。このイメージが、隠喩的に主君や将軍に投影され、我々が従順な存在となるよう抑圧するのだ。ドゥルーズ&ガタリによれば、父、神、国家のような社会的権力は、オイディプスとして我々を自我の型にはめ、無意識の欲望を抑圧する。ヨーロッパにおいて、「父なる」神が絶対的な存在として崇められ畏れられたように。精神分析が自我に法を課す存在を「父」と呼んだように。この父のイメージを持った存在の頂点にあったのが、将軍である。将軍の持つ男性的・父性的なイメージを天皇が手にしたとき、臣民の前に現れるのは「現人神」である。父であり、神であり、法である天皇を頂点とした一神教的価値体系は、武士が将軍に向けていた忠孝を天皇に向けさせる。こうして、天皇は「父」となり、神となり、法となる。ラカン派精神分析の用語を借りれば、この父性的イメージこそが「大文字の他者」であり、朱子学や教育勅語はその「大文字の他者」が我々の内面に課す法である。将軍から天皇へと権威が容易にバトンタッチされたことは、この「大文字の他者」のイメージがバトンタッチされたからであると考えるべきであろう。
2.明治、大正時代とニヒリズム
支配体制を強固なものとするためにはあらゆる抑圧をも厭わなかった江戸幕府は明治維新によって打倒され、そのシステムの多くは解体された。一方それらのシステムの解体は脱領土化(あるものが土地との関連性を失うこと。寿司は日本という土地・文化との関係性を脱領土化されてSUSHIとなり、アメリカという土地に根付いてアメリカンロールへと「再領土化」される。)・脱コード化(規範が規範でなくなること)を加速させ、日本人の精神性は衰退した。その系譜を明らかにし、日本型ファシズムへと進んだ過程を考察する。『近代日本の右翼思想』において、明治日本が文明開化に邁進した結果、日露戦争を最後に日本人的な精神が失われたと説明されている。明治政府は外国の進んだ文化の受容に熱心であったし、庶民もまた、外国の物珍しい文化を嬉々として受け入れる一方で日本の文化を遅れたものとして考えた。江戸時代において、日本は鎖国をしていたばかりか国内での移動もかなり制限されていた。関所はいい例であるし、そもそも日本の封建システムは上から下へと領土の所有を認めるヒエラルキーによって成り立っている。年貢は貨幣ではなくコメを基準としたシステムであり、その基礎は土地に置かれている。江戸時代において日本人はテリトリーに縛られていたのであり、例えば脱藩などしようものなら厳しく糾弾された。しかし、明治維新はこの封建的システムを破壊した。藩を解体して県とし、政府の直接の統治下に置いた。税金は年貢米ではなく貨幣となった。
『アンチ・オイディプス』における社会機械の分類では江戸時代は専制君主機械として扱うべきである。専制君主、日本においては幕府が藩という下部組織に土地を委譲し、その所有を保証する。この封建のヒエラルキーは、先ほど述べたようにコメ、土地を基準としたシステムであり、貨幣を基準としたものではない。また、日本人は当時藩という土地に縛られていた。ここに、明治維新による脱コード化・脱領土化が行われる。人々を大地に従属させる封建的システムである藩を解体して、明治政府を中心とした中央集権体制が敷かれたことは、人々を土地から切り離す脱領土化をもたらした。税制度の改革も、税をコメから貨幣へと転換させた。これは何を示しているのだろうか。『アンチ・オイディプス』において専制君主機械における負債は専制君主への無限の負債とされ、その関係は領民から君主への縦の方向である。土地の貸与と年貢米の献上、つまり階級間での負債の移動によって成り立つヒエラルキーの破壊は、土地を媒介とした封建的な上下関係や身分制度が解体されたことを示し、封建的な縦の関係が脱コード化されたと考えることが出来る。「近代日本の右翼思想」において示された日本人的な精神の「型」喪失は、この脱コード化・脱領土化によって説明できる。脱領土化とは我々が大地から解き放たれる流れであり、脱コード化とは我々が社会のコードから脱する流れである。近代日本において、江戸時代から続く共同体やコードが悉く解体されたことは、それに根ざした精神を奪う。日本が西洋列強への恐怖故に近代化へと向かうにあたり、封建的な諸コードの解体と藩に縛り付けられた領土性は足枷であった。一方、これらのコードや領土が解体されることは、同時に明治天皇という新しい「父」のもとに再コード化され、国土の元に再領土化されることを指す。この動きは日清戦争に始まり、日露戦争でピークに達したと考えて差し支えないだろう。列強への恐怖から近代化へと一心に駆動した明治日本であったが、日露戦争が終結するとその緊張から解放され弛緩してしまったと「近代日本の右翼思想」においては指摘されている。本書には唐木順三がそれを「日露戦争後のブルジョワジイ」の台頭に求め、この結果生じたのが「それ自体としては、一定の形式、普遍的な生活体系をもたない」「広い意味でのヒューマニズム」であるとあった(1)。広い意味でのヒューマニズムとは、教養派を指す。「日露戦争のトラウマが、近代化へとひたすら緊張してまい進してきた国民精神をバラバラにし、溶解させた。工業化と都市化の進展が民衆をどんどん郷村から引き離し、根無し草とした。」。真山青果「わが国民は徒らに戦勝によって、投機に熱し、(中略)道徳も亦弛緩し‥」(2)。緊張から解放はすなわち、日清・日露戦争を戦い抜くための統合からの解放である。この統合からの解放は乃ち、オイディプスの抑圧からの解放であり、脱コード化である。都市化や工業化による郷村の衰退は資本主義によってもたらされた脱領土化から説明できる。欲望はコードから解放されて資本主義に取り込まれる。商工業の発展により、大地と人が切り離される脱領土化が加速する。明治維新に始まり、近代化の途上でいったんは抑制された脱コード化・脱領土化が顕在化したのである。
大正時代は、この「型」の喪失の時代である(3)。このニヒリズムの時代において、台頭したのが大正教養主義であった。「新たな教養の素材がそれに向き合う『型』を喪失し、弛緩した空間をうろうろしている人々に大量に投げつけられるとき、そこに生ずるのは、何の中心も規範も秩序もない、『どれでもが良き』教養のカオスである」(4)。規範を失った人々にとって、教養はニヒリズムから逃避すべき支柱ではなく、積極的にそのニヒリズムを肯定するものであった。ドゥルーズ・ガタリが「リゾーム」「分子状組織」と名付けた概念は、まさしくこれに当てはまる。樹木のような学問の体系ではなく、どれでもがよき教養の根茎。大正時代は、日本人を規範から切り離し、帰属先を奪ってしまった。このニヒリズムと孤独こそが、来たるファシズムに侵されていく前段階なのである。ニヒリズムと孤独は、ハンナ・アーレントの言うアトム化という概念によって説明することが出来る。四民平等による階級の消滅と帰属先の喪失は、大衆を生む。「大衆という言葉が当てはまるのは、たんに数の多さや無関心から、あるいはこの両方が結びついたために、政党や自治体、職業組織や労働組合などいかなる組織にも共通の利益によって統合することのできない人々のみである。」(5)自分たちの利益を代弁してくれる存在がいなくなりアトム化した大衆は、「彼らがその一部となるだろうシステムの一貫性だけを信ずるのである」(*6)。政党政治が行き詰まり、既存の政党が階級の利益を代弁しなくなった時、大衆にとり絶対価値たる天皇を中心に展開される世界観は、まさにこれに当てはまる。これを無意識という観点から掘り下げ、日本ファシズムについて考察しよう。
3.日本型ファシズムの分析
「ファシズムは、繁殖し、点から点へ飛び移り、相互に作用しあう分子状の焦点と不可分の関係にある。これは国家社会主義の国家で分子状の焦点が一斉に共振を起こす以前の状態である。(中略)いずれのファシズムもミクロのブラック・ホールによって規定される(中略)これは中央集権的な単一のブラック・ホールが普遍化し、そこで共振が起こる以前の状態だ。」(7)。ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』で指摘されたこの問題は、日本ファシズムを考えるにあたっても大きな示唆を与えてくれる。これに従って歴史を振り返れば、大正時代に完成した分子状組織がブラック・ホール、つまり絶対的価値たる天皇の元に中央集権化されたと考えることができる。「農村のファシズムと都市、あるいは地域のファシズム、若者のファシズムと退役軍人のファシズム、左翼のファシズムと右翼のファシズム、カップルの、家族のファシズム、学校や役所のファシズム。いずれのファシズムもミクロのブラック・ホールによって規定されるし、ミクロのブラック・ホールはそれ自体で効力を持ち、他の全てのブラック・ホールと疎通しあう。」(8)ブラック・ホールとは主体化を促進する存在、精神分析でいう「大文字の他者」である。父や神、学校、役所のような、我々にとってのブラック・ホールとなる存在は、すべて父なる天皇のもとに展開される世界観、イデオロギーへと紐付けられる。中央集権的な単一のブラック・ホールである天皇は、これらのミクロのブラック・ホールの存在によって普遍化する。この中央集権化が起こるのは「一つ一つの穴に、一つ一つの窪みに戦争機械が据えつけられたときである。」(9)ここで我々は戦争機械(「構造」と対局にある概念。絶えず構造に対して抗う作用を持つ。構造が中心を持つなら戦争機械は中心を持たない概念であり、非中心化をもたらす。)について考える必要がある。
『近代日本の右翼思想』において、超国家主義について近代右翼思想に見られる「動の極」と銘打った次のことが提示されている。「天皇の空っぽの意志に、絶えずどこからか活力が入り込み、天皇は何かを宣言し、既成秩序を打破し、誰かと戦い続けねばならない。(中略)天皇がひとたび日本から世界へと投げ出されれば、活性化すべき空間の物理的拡大への欲求、無限戦争・無限膨張への志向を大きな特色とするだろう。」(10)。秩序に抗い続ける戦争機械という概念は、「動の極」の世界観のイメージと合致する。戦争機械とはネットワークであり、イデオロギーやイメージや天皇のような単一の個人ではない。想起すべきは北一輝ら「動の極」にカテゴライズされる民間右翼、そしてその思想に共鳴する国民たちであろう。戦争機械は、国家が作るのではなく、捕獲することで取り込まれる。戦争機械それ自身は必ずしも戦争を目的とはしないが、国家装置に取り込まれた戦争機械は必然的に戦争を目指す。「動の極」に関する引用においては既成秩序を打破する者として天皇が挙げられていたが、これは日本の右翼思想が天皇という絶対的存在を乗り越えられなかった故とみてよい。彼らは天皇を否定することができなかったからこそ、天皇を自身らの思想の実現を代行する存在として捉え直した。つまり彼らは革命の主体ではなく、あくまで天皇をその主体せしめている。このとき、彼らが天皇を主体せしめることを通し、戦争機械は天皇に紐付けられた国家によって掌握される。「動の極」が大日本帝国によって捕獲されたとき、それは国家のシステムに従属するよう変質する一方、戦争を以て現状変更を試みる。これについて掘り下げよう。
「動の極」に分類される思想家として、「近代日本の右翼思想」では石原莞爾が挙げられていた。彼の『最終戦争論』は、日本が東亜の代表選手としてアメリカと戦うビジョンを大局的に示した書であり、アジア主義に大きな影響を与えた。石原莞爾が満州国について、日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、その思想は日本人から満州人、ひいてはアジア人への脱領土化であり、生成変化である。その生成変化の思想が満州から国内に持ち帰られ、ゆがめられた時に完成したイデオロギーこそが大東亜共栄圏であろう。「「動の極」への運動現実界に適用されると、世界空間の限定性とそれを支配した地政学的世界観に束縛され、天皇中心の世界国家という究極の新秩序のイメージに吸引されてゆく。」(11)あらゆる既製の秩序を破壊していく天皇・皇軍のイメージしかり、日本人の満州人、アジア人、ひいては世界人への生成変化しかり、これが現実に持ち込まれれば、日本がアジア諸国を支配し天皇のもとに大東亜共栄圏を作るというイデオロギーに変わり果ててしまうのである。石原莞爾のアジア主義が日本人による満州人、アジア人への生成変化であった一方、大東亜共栄圏はまさに日帝がそうしたように、アジア人を日本人にすることであった。「動の極」が国家システムに捕獲されたとき、それは帝国の官僚的な機構や帝国を取り巻く状況に適応するよう変質し、「大東亜共栄圏」となった。この「動の極」が戦前の日本人に据え付けられた戦争機械なのである。丸山眞男の言う抑圧の移譲も、これと多く関係している。既に天皇を頂点としたピラミッドを内面化しておりその圧迫の移譲を欲する臣民にとって、日本人がその構造を抜け出して満州人、アジア人となるための情動の流れは、日本のピラミッドの構造に従属することで他国を侵略する事へと置き換わる。つまり、戦争機械が国家構造に従属することを指す。「戦争機械が変異を起こす能力を失ったとき、残された唯一の目的が戦争なのだ。したがって戦争そのものについて、こう考えなければならない。戦争機械が国家装置の手中に帰したにしろ、さらに悪いことに戦争機械が破壊にしか役立たない国家装置を建造したにしろ、とにかく戦争は戦争機械のおぞましい残滓にすぎないのだ、と。」(12)。国家装置に捕獲され、生成変化する流動性を失った戦争機械は最早他国の既成秩序を破壊すること、戦争しか目指せない。国家装置に捕獲されたことで、日本人がアジア人となる流動性は喪失し、変質した欲望の赴くままに西洋主導の秩序へ挑戦する。これが、日本型ファシズムの正体である。
4.敗戦以後
とある学者がマッカーサーをして「征夷大将軍」と表現したことは、「大文字の他者」のイメージの移動という点で極めて象徴的である。
キリスト教的道徳がニーチェによって否定されたように、絶対価値たる天皇に正当性が担保された一切の事物は、その保証者を失えば途端に疑念を向けられる。封建的諸コードはGHQによって強制的に解体された。天皇に連なることで意味を持った秩序は最早その存在意義を失ったのである。
一方「大文字の他者」のイメージはマッカーサーに奪われているはずである。アメリカについて連想するとき、我々が想起するのは自由、そして男性的な強さではないだろうか?世界最強の軍隊を持ち、男性的な強さを理想化した存在であるヒーローの本場。大戦で我々を完膚なきまでに打ち負かした国。これらに加え、在日米軍によって「守ってもらっている」我々は、その強大さを無意識に刷り込んでいるはずである。アメリカは、我々にとって十分に「大文字の他者」たりえると言えるだろう。天皇から受け継いだ「大文字の他者」のイメージは、未だ健在である。日本国内における普遍的・絶対的な他者は存在しなくても、国外にそれは存在しているのである。日本国内をしてニヒリズムと呼ぶことはできても、結局我々は心理的にアメリカという支柱を持っているのである。
5.資本主義とオタク
現代のニヒリズムについて検討するにあたり、オタクはとても興味深い。彼らは社会の規範から逃走した人間であり、それらから自由な存在である。この姿勢はまさしく一種の能動的ニヒリズムだ。一方で、近年のオタクにみられる推し活は広く社会に受け入れられており、オタクが本来逃走したはずの資本主義社会に回帰した活動として見ることができる。
『アンチ・オイディプス』によれば、資本主義はあらゆるコードを解体することで欲望の流れを自由にするが、一方で、新たなコード(=公理系)を生み出すことで絶えず欲望の流れを調整する。オタク文化における推し活もその一つであろう。近代天皇制のような普遍的価値がなくなりニヒリズムに陥った日本人にとり、完璧な存在であるアイドルや二次元への偶像崇拝は完璧な世界観に浸らせてくれるという点で大きな意味を持つ。彼らは美しく、人を幻滅させるような言動を取らない。彼らに関する物品の購入などの消費そのものが「推しに貢ぐ」行為としてオタクに満足感を与えるのである。一方で、ある一つの記号に関する消費そのものが欲望される、欲望と消費の終わりなき構造は、資本主義の公理系として挙げることも出来よう。
この推し活という言葉が一般化したのは最近であるし、以前のアングラなオタク文化においては、そのような単一のキャラクターへの消費そのものを欲望することはなかった。『戦闘美少女の精神分析』において、オタクの気質は分裂気質として扱われている。『アンチ・オイディプス』によれば、分裂症とはつまりオイディプス化を免れた存在であり、本来なら一切の規範から脱して欲望する存在である。この点で、オタクは資本主義の持つ欲望を抑制する機能から逃れた存在とみなせる。本来なら自身を縛る社会的コードから解放され、能動的ニヒリズムを謳歌すべき彼らであるが、現行のオタクの推し活はこれと対照的である。推しという単一の記号への欲望と消費のサイクルは分裂気質というよりはむしろ神経症として解釈すべきであろう。こうして、ある種の能動的ニヒリズムにあるスキゾとしてのオタクは資本主義に適応したパラノに変質したのである。
結論
我々はいかにしてニヒリズムと対峙するべきか。日本における地域共同体は戦前のそれと比べられないほどに衰退している。日本が都市化し、住みたい場所にいつでも住める時代となった今、地域共同体の復権を求めても焼け石に水である。我々日本人が自己をつなぎとめるために必要な概念こそ、日本人であると筆者は考える。我々が最早日本人から乖離してしまった存在から日本人へと生成変化すること。日本人への生成変化とは、自己を国家という絶対的権威に従属させる権威主義ではなく、我々が国名と混同して記憶したことで忘れかけた日本という風土の上に自己のアイデンティティを関連付けることにある。外国人と対立する党派としての日本人ではなく、我々が個人としての矜持を保ちながらアイデンティティを日本という風土に結び付けることこそ、ファシズムを回避しニヒリズムに対峙するための態度となろう。
この際、普遍的日本人像を確立してこれを内面化するという考えはファシズムとして退けられるべきだ。普遍的な記号に我々が従属することはすなわち抑圧による主体化であり、生成変化する流動性を失わせるファシズムそのものだ。生成変化する流動性を保ちながらも日本人であり続ける唯一の方法は、絶えず自己の中で日本人像を更新し、各々が各々にとっての日本人像をもとに生きることであろう。この為の方法は即ち、日本文化について不断の関心を寄せ、そこから絶えず日本人像を描き続けることである。新たな日本人像へと絶えず生成変化すること、これこそが、日本人がファシズムを避けつつニヒリズムに対峙するための態度である。
この営みが資本主義に組み込まれることは二重の危険性を孕んでいる。一つは資本主義の公理系によって我々が単一の日本人像を追い求めること、もう一つは資本主義の引き起こす脱領土化による文化の変質である。文化とは領土性を担保されてこそ機能するものだろう。寿司は日本食であり日本文化であるが、それが脱領土化されてSUSHIとなれば、その文化的背景は無視され、アメリカンロールへと変貌する。我々の欲望を公理系の支配から逃れさせ、文化の陳腐化を守るため、この営みは資本主義から隔絶されているべきなのである。資本主義や体制に取り込まれた文化にとどまらず、日本文化の考察については、歴史から取りこぼされた精神性を考慮する必要がある。そのとき必要とされる方法こそが、フーコーが『知の考古学』で示した方法であろう。従来の日本人研究を参照するのではなく、その文化が盛んであった当時の様々な分野の文献を参照してその文化に関する断片的情報からその文化の失われた側面を暴くこと。この方法により、我々は歴史が取りこぼした日本人像を再発掘することが出来るのである。
註と参考文献
註
1 片山杜秀『近代日本の右翼思想』 108頁
2 同 109頁
3 同 107頁
4 同 113頁
5 ハンナ・アーレント『全体主義の起源』三巻 10頁
6 同 80頁
7 ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』中巻 108頁
8 同 108頁
9 同 109頁
10 片山杜秀『近代日本の右翼思想』 59頁
11 同 62頁
12 ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』中巻 263頁
参考文献
ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』河出書房新社1989年
ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』中巻 河出書房新社 2010年
丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 岩波書店 1995年
ハンナ・アーレント『全体主義の起源』3巻 全体主義 みすず書房 2017年
片山杜秀『近代日本の右翼思想』 講談社 2007年
石原莞爾『世界最終戦争「最終戦争論」及び「戦争史大観」』 毎日ワンズ 2019年
齋藤環『戦闘美少女の精神分析』 筑摩書房 2006年
向井雅明『ラカン入門』筑摩書房 2020年
ジャック・アラン・ミレール『精神分析の四基本概念 下』岩波書店 2020年
ミシェル・フーコー『知の考古学』河出文庫 2006年
あとがき
ファシズムまではけっこう頑張れてましたがマッカーサーのあたりで一気に浅くなったうえその後一気に現代まで飛んでオタク批判しだしたのが笑えました。最後の日本人のところはほんとにその通りだなと自分で思います。以上、卒論()でした!!
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