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人生には、想像してなかった未来しかない!

 「#想像していなかった未来」というお題を見つけたので、普段の記事をお休みして、そのことについて思っていることを書きます。

 「人生って、誰でも、想像してなかった未来になるのではないか」と普段から思っています。つまり、誰でも、自分の高校時代から現在までの人生を順に並べるだけで、想像もしない未来につながっていることが証明できるのです。
 ちなみに、私の人生を「夢」と「現実」に分けて並べてみます。

高校時代

 ペリー・メイスンという推理小説をたくさん読んで、裁判官に憧れていました。検事でもなく弁護士でもなく、法廷を支配する存在に憧れていたのでした。高校では、学級員に立候補し、その気分を学級会で味わっていました(ただ単に、そこで裁判官のように、司会者をしているという気分を味わいたかっただけかも)。
 しかし、法学部を目指した大学受験は失敗しました。なんのことはない、裁判官の入口の入口の法学部に入れなかったのです。

創元推理文庫です

浪人時代

 予備校に通うのが嫌で、毎日、朝一番に公立図書館に通って大きな学習室で受験勉強をしていました。休憩時間に、図書館を散策していてなんとなく手に取っとのが『古墳の発掘 』という 中公新書でした。この本が面白くて、私の憧れは、あっさりと裁判官から考古学者(古墳を掘るぞ!)に変わってしまいました。今回の憧れは裁判官希望より強く、猛勉強して自分の偏差値ギリギリの大学の「文学部日本史学科」に無事合格しました。
 しかし、なんと間抜けなことでしょう。私の入った大学の日本史学科には「考古学科」がなかったのです(単に、きっちり調べてないだけ)。つまり、古代史から近代史までの先生しかいない大学だったのです。仕方なく「古代史」を専攻する事になりました。

中公新書がずらりと並んでいた中で、光っていた

古代史専攻大学生時代

 大学時代は、考古学者になれないと分かったので、当時発展途中だったコンピューターを使って、全国にバラバラに散らばっている考古学資料のデーターベースを作ればいいと考えていました。3年生のときに、卒論予定にそのことを書いたら却下(当時、コンピューター理解が歴史学では遅れていた。考古学の先生がいないのも、大きかったと思います)されてしまいました。
 そんなとき手に取った本が(また、本です。どれだけ本に影響されてるんだ、という感じですね)島田一男の『社会部記者』『事件記者』という本でした。当時見た『新聞記者コルチャック』というテレビドラマにも影響されました。「考古学者」という憧れが断たれて、コンピューターの道もだめになって、憧れは「新聞記者」になりました(追記…今、思い出した。大学時代にも、大毎地下という映画館に通っていたのですが、その時、隣のビルのネスパというレストランで、たくさんの毎日新聞の新聞記者を見たのにも、影響されて、新聞記者に憧れたのでた)。

呼んだのは、春陽文庫だった

 そして、4年生のときに意気込んで受けた「朝日新聞社」の入社試験でしたが、集団面接で失敗してしまいました。「現代と漫画」という得意のお題だったので、自分勝手に喋りまくりあえなく不採用になってしまいました(協調性がこの面接では見られていたようで、目立とうとしたことが大失敗でした)。悔しいことに、合格したのは、私がやっつけようとした早稲田の学生でした(十人一組で集団面接が行われ、その中から一人だけが合格する仕組みでした)。

刑事コルチャック ホラーものだったかな?

就職浪人時代

 大学卒業後は、大学時代のサークル仲間が、自分のやっている「医者になるための塾」に誘ってくれたので、事務の仕事をしながら英語(受験用は得意、英語会は苦手)を教えていました。このまま塾の先生でもいいかな(給料が高額だった 当時、手取り月37万円、今の70万円くらい?)と思い始めた頃、ある新聞記事に出会いました。それは、就労形態の多様化、女性の社会進出に伴う共 働きの家庭の増加等で増えた、カギっ子対策を強化する記事でした。具体的には、それまでの「校庭開放事業」と「留守家庭児童会事業」を1本化するというものでした(これが、後に学童保育につながっていく)。

 これを見て、ピンときました。これから社会が必要としている人材は、これだ。たまたま、学童保育の先生が出てくるテレビを、NHKで見た(なんというドラマか忘れてしまった。勝野洋が先生だったような気がする)のも影響しました。
 どうやったら、学童の先生になれるのかなと思いながら、塾で英語を教える生活を続けていたら、これまた、たまたま、自分の住んでいる市の広報に「児童指導員募集」というのを見つけました。どうやら、新しくできた留守家庭児童会の先生を募集しているらしい。

受験英語を教えていた

 試験は、何故か上級公務員試験でした。結構難しそうでしたが、これまた猛勉強して、90人ほど応募があった(当時、就職難で公務員は人気があった)のに無事合格の4人に選ばれました。だだ、驚くべきことに(というより募集要項をちゃんと読んでなかっただけですが)、募集していたのは「留守家庭児童会や障害者施設、障害児学級で働く障害の専門職としての児童指導員」でした。ええ、障害の専門職?私の専門は「歴史学」ですが…。

公務員時代

 予想通りというか、予想に反してというか、留守家庭児童会には配属せれず、中学校の養護学級(特殊学級のこと)に配属されました。それからは、障害の勉強を慌てて開始しました。何しろ、障害の専門家にならないといけないですから…。
 その後も、小学校の養護学級、障害者通所施設などを転勤を繰り返しながら、障害について、障害児の種類と対応、障害者への関わり方、障害児への勉強の教え方、肢体不自由児の介助の方法、発達保障論、発達心理学、教育心理学などを勉強していました。本を読んだり、研修会に参加したり、先輩に質問したおしたりして学びました。
 途中で、一時期、9年間ほど本来希望の学童保育の先生も経験しました(障害児が12人もいた学童でした)。学童の先生のときは、通常の発達の勉強をしたり、遊びについて研究してたりしました。

学童保育の先生が1番楽しかった、やはり

 このまま、障害児教育の現場で一生一実践者で頑張ろうと思っていた矢先、平成17年に教育委員会に呼び出されました。平成19年から支援教育が始まるに当たり、発達相談係を設ける必要があるのだが、引き受けてくれないかという申し出でした。長い間、障害の専門家として働いてきたので、できるのではないかと思われたらしい。「いやいや、それは…」と辞退したが、当時の教育監と指導課課長に説得されて、引き受けることになりました。

 そこから、今度は発達相談係としての勉強が始まりました。障害児を扱っていくことは同じなのですが、直接関わるのではなく、関わっている先生や保護者にアドバイスするのは、全く別の仕事でした(それまで勉強した知識は役立ちますが)。カウンセリングの勉強もしました。
 それから、2年間は「教育委員会による発達相談の仕組み」や「新1年生から発達障害児の疑いのある児童をスクリーニングする方法」などを制度設計するとに費やしました(そもそも、その頃、市レベルで発達相談しているところは少なかったので、一から作っていく感じでした)。

相談票で呼ばれたら、相談係が尋ねていく方式にした

 そして、平成19年から始動した発達相談係として、WISCⅢ検査などを800ケース位実施しつつ1200人以上の相談業務をこなしました。スクリーニングのために新1年生を1万人近く観察したりもしました。そこで培った経験や深めた知識や従来の養護学級のノウハウを広めるため、市内の小中学校やその他あっちこっちで研修も行いました。年間15から25回位、やっていたのではないでしょうか?

公務員退職が近づいて

 発達相談係を14年程つ務めて、最後の1年は引き継ぎ資料をきちっと作りました。だから、次世代に経験や知識を引き継げたことに満足して、60歳で退職することにしました。家でのんびり藤沢周平全集や溜まった本(2500冊程積読だった)を読む予定でした。
 しかし、残念ながらせっかく作ったその引き継ぎ資料は、教育委員会資料としては採用されず、没になってしまいました(費用がなかったのでしょうか?内容がだめだったのでしょうか?)。がっかりしていたら、友達が「本にしたら」というアドバイスをくれたので、引き継ぎ資料を元に本を書いて出版しました。
 これで思い残すこともなく、退職して藤沢周平全集や溜まった積読の本を読んだり「たたら」(シート状にした粘土)で人形っを作って過ごす予定でした(200ボルトの電気釜も買った)。

こんな本です

 ところが、ある大学から大学の発達相談員をしてくれないかとオファーがあったのです。一つは出版した本が要因でしたたが、も追う一つの要因は、意外でした。ある小中学校の研修のときに、エアコンが故障しているということで、そのある大学の研修室をお借りしたことでした。そのときに、そこの大学の教育支援センターの課長さんと少しお話をして名刺交換をしてきたのです。その名刺が「縁」を引っぱってきたようです。
 大学でも発達相談係を置くことが必要になったとき、課長さんはその名刺を見て、私を思い出したとのことです。不思議な縁です。

ネットで選んだ、適当な大学の写真です

大学の先生時代

 現在、私は学習支援室というところに配属され、発達相談をしながら講師として「社会人として、きっちり報告するための文章の書き方」の受業を教えています。現在68歳。71歳までこの仕事を続ける契約です。多分、それ以上は「想像していなかった未来」は起こらないと思うのですが、さてさてどうなることやらです。

人生のまとめ 

 最後に、人生をまとめておきます。

 「裁判官➪考古学者➪新聞記者➪学童の先生」と夢を持ってきましたが
現実は「法学部に落ちる➪考古学科がない大学に入学➪朝日新聞に落ちる➪学童の先生になれず障害教育の専門家としての先生➪実践を退いて発達相談係➪大学の発達相談係と講師」と68年間生きてきました。どうです。私の人生は「想像していなかった未来」になっているでしょう?。

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やまと たける
本好きです。本を買います。余暇のための本ではなく、勉強のための本を買います。よろしくお願いします。