わたしが幸せなことは、わたしだけが知っていればそれでいい。
SNSにて夫からのサプライズプレゼントで喜んでる友人や、子供との幸せそうな写真。
わたしはこんな写真を見るのが好き。
いいねぇ、最高な夫じゃん!と心がほっこりするし、知らない子供だとしても、投稿しているお母さんの気持ちを思うと、「子供の成長って嬉しいよね」と共感できるからである。
友達とのトークでも同様だ。
だけど当のわたしは嬉しかったことを無邪気に伝える事ができない。というより、伝えようと思ったことがない。どちらかというと、わたしは嬉しかったことより、面白かったこと、少しの悩み、しょーもないことを話すのが好き。
だからこそ、「子供いたっけ?」「独身かと思った」など周囲にはよく言われる。
ただこれは幼少期の記憶が影響しているのかもしれない。子供の頃から、「お母さん、こんなことあってね」というと、母は機嫌が悪いことが多く「後でね」と言われることが多かった。そして、首を長くしてもその「後で」はやってこなかった。「いい子にしてたら、マシュマロあげる」そのマシュマロを貰えなかったのと同じだろうか。
そしてもう一つ、我儘を言えるおじいちゃんおばあちゃんの存在が居なかった。両親が転勤族というのもあり、母方の祖父母とは小学1年生以降で会ったことが3回程度。父方に関しては事情があり0回である。ただ母方の親戚は毎年お年玉を送ってくれた。
わたし自身母になって思うのが、子供が思いっきりわがまま言える相手は両親ではなく祖父母だなぁと。 祖父母は責任を問わない分、孫を思いっきり可愛がって、甘えさせてくれる、「うんうん、良かったねぇ」と無条件にひたすら話を聞いてくれる。子供にとって、絶対的に安心感を与えて甘えさせてくれる存在が後に自己肯定感に繋がるのかもしれない。
祖父母でなくても、例えば近所のおばちゃんでも良い。とにかく子供にとって、顔色を伺わなくて済む大人の存在だろうか。
周りでも擦れてなくて、喜怒哀楽を表現できる人は「祖父母が大好き、今でも仲良し!」という人が多かった。 このような経緯が絡んでるのか、わたし自身嬉しかったことをリアルで他者に伝えるという発想がない。
例えば、息子の成長で幸せを感じたこと。 これらのことは誰にも言わなくても、わたしだけが知っていれば良い。
心の中にそっとしまう。そして、誰にも言わない方が、文章に起こさない方が特別感がある。というのも、これらの幸せなことは私の語彙力と文章力では表現できない、もっと奥深いものだから。
でも一方で、「パンケーキを食べると幸せになる個人的理由」なんてブログで綴ったりする。これは不思議だけど、いかにパンケーキが人を幸せにしてくれるかを共有したくて、落ち込んでいる人がいたら、贅沢なくらい生クリームとイチゴが乗ったパンケーキを食べてほしくて。「そこのお店、美味しいですよね」共感したくて。
わたしにとって、パンケーキは確実に幸せにしてくれる。絶対に裏切ったりしないし、不確かなものではない。
そこで、気付いたのが、恋人とか、夫とか、子供とかの幸せなことはそっと胸にしまいたいんだなと。
もちろん、noteのエッセイで日常や過程を綴るけれども直接的に幸せとは表現しない。
他者が絡む幸せってとても不確か。それが家族だとしても人間関係の難しいところで…
例えば私が「夫と結婚して幸せ」、「子供産んで良かった」日々つぶやいたとしても、相手がどう思ってるかはまた別なんだよね。
夫は、「俺の人生オワタ、来世にキボンヌ」なんて名無しさんで5chに降臨してるかもしれないし、私は子供を産んで良かったと思っても、子供自身が産まれて良かったと思うのは、また別の問題だから。
だからこそ、誰かのことで幸せと感じた時は、心の宝箱にそっと入れて、私だけがその宝箱の存在を知っていれば良い。
不確かな幸せに、わたしの場合は共感は必要ない。 あやふやでいいんだ。
けど、一方でこんな矛盾していて、偏った考えはわたしだけでいて欲しいと思う。 冒頭にも書いたように、わたしは友達や他者の幸せな話を聞いたり読むのが大好きだから。
そして、それらを表現できるのはとても素敵なことなんだ。