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誰もが、「消えたい」という心のボタンを持っているから


ある程度大人になれば、人としての正しさなんて自己啓発本を読まなくても、聖書を読まなくても理解をする。


例えば、「怒りの矛先を他者に向けることは間違っている」とか。

だけど生きていれば、色々あるもんで。 


仕事への虚しさを打ち消すように、民間の資格を取り続けても現状は変わらなかったり。 

覆い被さるように、ふと襲ってくる疎外感とか。

パートナーとあの子のいざこざとか。 

おしゃれなランチには惜しみなくお金を払うのに、100円値上げした食材には躊躇してしまったり。 

子供は自分の所有物ではないと理解していても、誰かと比較してしまったりね。

いつだって頭の中には、理想と現実の狭間でこんなはずじゃなかったと頭を抱えている自分がいたりする。

だけど、人としての正しさはわかっているから 、ほんの少しの怒りの矛先を他者に向けたりはしない。夫とか、子供とか、見知らぬ通りすがりの人とかに当たることはしない。


 その代わり、オタ活とか、推し活とか、占いとか、宗教とか、仕事とか、食欲とか、物欲とかに、救いの手を求めては、生きがいを見つけて今にも切れてしまいそうなロープを綱渡りするように、ゆっくりと明日に向かって歩いていく。

 だけど、そんな日々を過ごしていると、いつのまにかロープがぷつんと切れてしまって、大きな穴に落ちてしまい八方塞がりになってしまうんだ。 


そんな時に、きっと人は「消えたい」という心のボタンを押したくなるのかもしれないね。


深い穴から上を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていて、この穴から逃げ出せるなら、楽になれると思った。それは、もはや希望だった。仮にそれがどんな姿になったとしても。 


だから、あの人は自ら天国のドアをノックしたのだろうか


 もし、そんなボタンの存在をわたしも知っていれば、あの人に気の利いた言葉の1つくらい言えただろうか。

いや、何も変わらなかったかもしれない。だけど、急いでホームセンターにハシゴを買いに行って、深い穴から逃げ出せるように、手を差し出せたのにな。


 これらの話はたとえ話だったり、でなかったり。


 だけど、誰もがそんな状況に陥る可能性があると知ることが、 自分と誰かを救えるのかもしれない。ふとそう思ったんだ。 


前進なんてしなくていい。ダメな自分がベースでいい。普通じゃなくていい。

救ったり、救われてたりしながら、その場をやり過ごしていこう。

ゆっくり、ゆっくりと生きていこうじゃないか。


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