無信仰者の私が宗教について思うこと。
かつて1人旅で訪れたNY、ジョンFケネディ空港で20人ほどの集団がいた。
彼達は黒いハットを被り、黒のスーツを着用し、髪型はもみあげを伸ばしている。なぜみんな同じ格好なんだろうと不思議に思いながら帰国した。
この疑問が、ある女性がユダヤ教の超正統派のコミュニティを脱出するドラマ「アンオーソドックス」を観て解決した。
私がNYで見かけた彼達はユダヤ教の超正統派だったのだ。
彼らはあらゆるルールに従い生活する。
夫は基本的には聖書を読んで宗教を勉強して過ごし、妻が就労して家計を支える。インターネットやテレビは利用しない。
女性の格好は、詰まった襟にロングスカートが基本。既婚女性は髪をすべて剃り、スカーフで覆ったりカツラをつけたりする。髪は異性を魅了するもという考えのもとだ。
もちろん、結婚前に異性と肉体関係を持ってもいけない。
ミクヴェという身を清めるためのお風呂のような施設があり、女性は毎月ミクヴェに浸かる必要がある。月経が終わった後の妻が、夫との夫婦生活を再開する前にも使ったりするらしい。
3年前にこのドラマを見て、あらゆるルールがある事に衝撃をうけた。
それから、私なりに超正統派に関する事を調べたり、聖書も読むようになった。
だけど、聖書自体はとても素敵な読み物で、人の良心が育つように個人が生きていくための指南書のようだった。
もちろん神によって差異はあるけど、どの読み物も基本的には「周りに感謝をしましょう」「人を愛しましょう」みたいな事を書かれている。
そして、人がなぜ生まれか、人としての正しさや、悪について、死後の世界について定義されている。
考えてみると身近な読み物、自己啓発本だって元を辿ると聖書に近い事が記されいている。
宗教自体は悪いものではなくて、自分自身があらゆる定義を必要としていて、他者には押し付けたりせず、自分の軸は自分で作りながら宗教の教えを取り入れて生活するのは素敵だと思う。
たけど、基的には人間は弱くて、何かにすがりたくて、同じ思想の集団に混じりたい生き物だ。
もちろん、私も含めて。
〜主義や、宗教に大きくのめり込む生き方はきっと楽なんだ。
自分で考えず、誰かの教えの通りに生きていくのって。
「俺には俺の生き様があるんだ、他者の思想を介入する余地もない」と自分の指標を作って生きていくより、誰かの導きや考えの枠で生きた方が楽だし、その枠で生きている、同じ思想同士の繋がりが生まれる。
このメリットは大きい。人間はいつでも群れる生き物だから、同じ思想の人と集団になると個人で弱くても集団だと強くなった気がする。
そして、時にはその考えを他者に押し付けたり、歪み合い、争いが起きるのだ。
もちろん信仰は個人の自由。
ただ、自分の軸を全て宗教に委ねて、大きな組織になるのは危うい。
そして、疑問が沸く。
もし宗教が死後の世界について定義をされていなかったら、こんなに人々は白熱しただろうかと。
仏教では、死後は成仏や輪廻転生の考えであり、キリスト教は生きてる人間は罪人であり死後は天国か地獄に別れる。
イスラム教では死によって魂は一度肉体から離れるものの、裁きの日に肉体は再度結びついて復活すると言われている。
死後に良い結果を得るため、生きてるうちは正しい事をしましょう
が宗教なのではないか、と感じたのだ。
この死について、当たり前だが誰1人経験して語ることはできない。だから怖い、その後がどうなるか。人間の生まれるまでの意味と、死んだ後の定義。
思想は自由だからこそ自分で考えるのは怖い、何かしらの死後の定義が欲しい。
となると人間は、意味が無いことにも意味をつけたい…のかもしれない。
だけど、私だってどうなるか分からない。大切な人を失って人生に絶望したら宗教にすがりたくなるかもしれない。死後の世界を願うのかもしれない、あの人に会えますようにと。
◇
ここまでつらつら語ってきたけど、
私自身は日常生活の中で宗教行事に触れたりする機会はあるが、特定の何かを信仰していない。
だけど、誰もが無意識に身近な何かを信仰や崇拝に近い事はしているのでは?と思う。
例えば、私は評論家の宇野常寛さんが好き。彼の本を読んでると頭の良い人ってこんな表現するんだと驚かされ、彼の思想をほんの少し覗けたみたいで嬉しい。
でもだからといって、私が彼の事を、
絶大な尊敬者に仕立てあげ、自分で考えるのを放棄し、彼の思想をベースに私自身が生きてしまうと、それは宗教を信仰するのと近い事だろう。
例えば、私がある家電をリスペクトしてて、その家電がいかに便利で時短になるかを、興味がなそうな知人に力説し、購入を勧めること。
これは自分に金銭的なリターンがなくても、布教に近いことだと思う。
宗教というと、つい自分とは関係ないと思ってしまいがちだけど
誰もが身近な人や物を自分を見失うくらいに、他者への配慮でできない位に、のめり込んでしまう可能性があると思う。
素晴らしい考え方は、当たり前に素晴らしいし、便利なものは当たり前に便利だ。
ただ、自分がリスペクトしている何かによって、生活を破綻させたり、他者に押し付けたり、攻撃をする生き方は本末転倒である。
純粋な気持ちで何かを信じたり、願うことは素敵だけど、大きな集団になったり、背景に金銭が絡むと純粋な信仰ではない。
つまり、自分自身の思想・生活の基盤をしっかり作った上で、他者に押し付けず、集団にはならず、様々なスパイスを自分の人生に取り入れたい。
そのスパイスは宗教かもしれない、あるアーティストの思想かもしれない、憧れのユーチューバーがおすすめする何か、かもしれない。
◇
余談だが、海外を旅すると思うことがある。
宗教と共存してるからこそ街並みからは歴史と人々の努力を感じられては息をのむほどに美しく、人が温かくて優しいということ。
その国の、生活に垣間見られる宗教を感じたいから、これからも私は旅をしたいなと思うのだ。