紹介しない最終回「自分の理論を私自身にいかに当てはめるか」『いやな気分よ、さようなら』第十六章(最終回)
これで、このマガジンも最終回。
始めてから三か月になるんですね。ついに終わると思うと、なんだか一段落した気分です。
最終回とか言っていますが、初めに言ってしまうと、僕はこの章を読んで、この章を紹介することはやめようと思いました。その理由は次のようなものです。
この章は、バーンズ自身が患者とかかわっていく中での、悩みや不安や怒り、そして、やるせない気分などに陥った時、自分自身に対して認知療法を施すことで乗り切ってきた事例が紹介されています。
「自分の理論を私自身にいかに当てはめるか」とはつまりそういうことなのです。つまりこの章は、今までの「うつ病の患者に対して様々な認知療法のアプローチをする」という方向性とはまったく逆の「うつ病を抱える人に対して自分はどう対応するか」ということが書いてあるのです。
僕がこの本を紹介する目的はうつ病をはじめとした心の病や、悩みを持つ人が、そして何より自分が認知療法を通して救われるということです。だからこの章に関しては、事例だけがのっているし要約する必要はないという判断をしました。ただ、この事例は読む価値があると思うので、興味のある方は本を手に取ってみるといいと思います。
おそらく大切なことは、認知療法もしくは認知行動療法は、心の病の有無にかかわらず、万人に適応可能な治療法であるということなのでしょう。
考えてみれば、うつ病の人に「言ってはいけないこと」というのはよく聞きますが、うつ病のひとから「言われた」り「されたこと」に対してどう対処するのかというのはなかなか聞きません。
僕も経験がありますが、うつ病というのは通常の精神状態ではないので、不合理な考え方によりさまざまな感情が強く出てきます。回復期は特にそうです。
ずっと何もしゃべらず、動きもゆっくりで、ずっと落ち込んでいるというのは、間違ってはいないですが、ある種のイメージです。急性期の時はそうなのですが、症状がよくなってきたりすると、激しい感情がわきあがってくることもあります。
この湧き上がる感情を他人に向けるということも大いにありえます。そういうときのための予防策、またはこれから精神科医を志す人のためのものが事例として書かれている気がしました。
紹介しない理由と補足は大体できたと思うので、これからはこのマガジンを書いてきた僕自身について少し書いていきたいと思います。
急性期のころに読んでいたのとは異なり、要約をしているからか、本の内容がすっきりと頭の中に入っていくのを感じました。だからのマガジン内の記事を読んでくださる方も、期間を空けるなどして、何度か読んでもらえたら少し違った見方もできるのかなと思いました。
それはとりもなおさず、自分の考え方があのころから少し変わっているこということではないでしょうか。つまりこの本を読んで、「そうだ!」と思える部分は自分の考えが変わってきたところで、「そうかなぁ?」「それは違う!」と思うところが僕の抱える根本的な問題なのではないかということです。
あれから僕は、今までの人に好かれようとする、人の言いなりになる自分を毎日毎日殺し続けました。それは、友人との交流を絶つことや、人から嫌われることや、人を傷つけること、期待に背くこと、人を怒らせること、言いたいことを言うことなど、今までの自分が怖くてできないことを積極的にしていくことでした。
結果幸せになれたかというと、もうおわかりですよね?幸せにはなっていません。ただ、まえよりも生きられるようになったというだけです。
中島義道の『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ―』には、冒頭にこのような一節があります。
ぼくは自分が弱いころが懐かしい。 いまよりはるかに愛すべき人間であっ たように思われる。ぼくは強くなったことによって、数多くの「よいもの」 を失ってしまったような気がする。
今までのヘラヘラした自分を殺して殺して殺しきる過程で、これを読んだとき僕は、身体が震えるほど、この気持ちに「わかる!」と言いたかった。
僕は多くのものを失いながら、少しだけ生きることができるようになった。でもまだ殺しきれていない自分がいる。だからこれからも自分を殺していく日々が続くのでしょう。
そんな日々が果たして幸せにつながるだろうか。そんなわけないじゃないか。生きるのがもっと辛くなるのだ。だから、なぜ辛いのかを問うていくのだ。
今も、そしてこれからも。
PS:
数少ないこのマガジンを見てくださっている方々、本当にありがとうございます。ツイッターなんかでも取り上げてくれた方もいてうれしかったです。サークルも作ったのですが、入る人もいないしやめちゃおうかなーと考えています。まぁ記事をよめば自分でできることですしね。