『天竺熱風録』〜一人が一つの国を滅びた物語
唐王朝と天竺つまり古代インドの間にあまり知られていない戦争がありました、正確に言うと、唐の使者が第三の国の兵士を指揮して天竺と戦い、そして一つの国を滅びた。後の唐王朝の命運にも関わった珍しい戦争でした。
古代の中国とインドの間、戦争どころか交流すら少ない、中国の西南にはチベット高原とヒマラヤ山脈があるため直接行けず、シルクロードを通って西アジアに入りパミール高原より南下してやっとインドに到着できます。貿易すら難しいのに戦争なんてもっとできません。
唐の時代になると、漢王朝以来再び西域(西アジアあたり)を勢力範囲に置き、インドとの交流が頻繁になりました。最も有名なのは三蔵法師の西遊記でしょう。史料によれば当時のインドは東、西、南、北、中計5つの国が存在しています、最も強いのは中天竺という国、これは三蔵法師が行った国でもあります。
当時の中天竺は戒日王の統治下で、北インド地区の支配者でもあります。宗教文化から軍事力まで北インドにおいて最も強い国です。
648年、唐王朝が使者団を派遣してインドへ出発しました、使者団の団長は「王玄策」です。中天竺に入ると、戒日王が亡くなり、国内がクーデターが起き、王位は臣下に奪われました。「王玄策」の使者団は30人しかないため、そのまま捕虜となりました。
しかし、中天竺の姫様の助けによって「王玄策」一行が脱出できました。普通の人ならすぐ長安に戻り、皇帝に報告するでしょうが、「王玄策」は唐王朝初期武将特有な矜持を持っていたため、国に帰らず現地で同盟国の兵士を集めることにしました。
「王玄策」はまず吐蕃(チベット)に行き、ソンツェン・ガンポ王に自分の状況を説明し、1200名の兵士を借りました。この数では足りないと思い、次に隣のネパールに行き、7000名の騎兵を借りました。「王玄策」はこの借りてきた8000名の兵士で中天竺を攻めました、この戦闘の規模が小さくないはずですが、史料の記録が非常に短い「三日破之、斬首三千級、溺水死万人」(3日で相手を破り、3千人を殺し、数万人溺死した)と
謀反した元臣下が敗走して再び兵士を集めて攻めてきましたが、再度「王玄策」が率いた多国連軍に破れ、本人も捕虜になりました。この元臣下の妻がさらに兵士を集め引続き唐王朝と対峙しようとしていましたが、「王玄策」の副将が出兵し、史料は「撃之、大潰」(攻めて崩壊させた)だけさらっと書いてました。
中天竺もこれで滅ぼされました。周囲の国々も無論怯えて唐王朝にひれ伏せ、「王玄策」は捕虜と戦利品を持って回旋しました。他の天竺の国々もこれから数年一度長安へ使者を送るようになりましたが、唐玄宗時代、安史の乱により唐王朝が衰退し、首都である長安ですら吐蕃に占領されましたため、天竺との交流も終わりました。
吐蕃は唐の同盟国(一応親戚)のはず、しかも国力も唐の下にもかかわらずどうして唐を攻めたでしょうか、しかも首都長安も落ちました。実は、強かった中天竺は吐蕃にとっても脅威でした、両面作戦を避けるために、当時の吐蕃は唐と友好関係にする必要がありました。しかし、「王玄策」が中天竺を滅びたことにより、吐蕃背後の脅威がなくなりました。これによって吐蕃が次第に強くなり、安史の乱を乗じて安心して唐へ出兵できました。この意味では「王玄策」の勝利は唐王朝にとって最悪なシナリオとなってしまいました。
唐王朝において吐蕃はずっと強敵でした、人口は約600万人、本日よりも多く、チベットの最も強い時代でした。これも全て「王玄策」の影響によるものです。
しかし、これはあくまでも後世の人が神の視点から言えることです、「王玄策」は使者の身分で盟友の軍隊を招集して、遠く強い異国を一気に滅びたこと自体が奇跡です。
田中芳樹さんがこの歴史を小説化し、最後一文を載せます。
「長安は花の都です。厳冬の一時季をのぞいて、早春から初冬まで、花の絶ることがございません。陰暦三月といえば、牡丹にはまだ早いのですが、既に、桃、李、杏、薔薇などが咲き競っております。風でも吹けば、白や淡紅の花びらが、飛雪のごとく舞くるって、全城を香りで満たすのです。舞いあがり舞い落ちる花びらの中へ、天竺全土を震撼させた男はゆっくりとあるみいり、音もなく姿を溶け込ませていきました。王玄策がいつどのように死んだのか、彼の墓はどこにあるのか、後世の者は誰も知りません。」